第百六十九話【カストル・アポリア】
ヨロクから北へ向かって出発した私達は、カストル・アポリアという新しい街に潜入していた。
それは、最終防衛線より外にはじき出されてしまった街と街とが手を取り合って出来た、アンスーリァ国土内に生まれた新たな統治形態であった。
そんな街で調査の為の足掛かりを作るべく、私達はその暮らしに馴染むことにした。
門番をしていた男にアルバというおばあさんを紹介され、ユーゴとエリーは農作業の手伝いを、私は手が悪いという嘘をついて飼料の運搬を手伝うことになった。
そして、半日ほど仕事を続けた頃……
「まだ運び終わってなかったのかい。鈍臭いね、アンタは。そんなんだと、とても飯は食わせてやれないね」
「す、すみません。すぐに運んでしまいます、もう少しだけお待ちください」
指示を出して以来畑に戻っていたおばあさんは、私の様子を見に来てすぐにそう言った。
面目ない話だが、私ではあまり力になれていないようだ。
彼女の見ていないところでならば手が不自由であるフリをする必要も無いのだから、本当に私の作業が遅いのだろう。なんとも情けない。
「ここに置いておくから、運び終わったら食べな。いいかい、全部終わってからだよ」
「は、はい。ありがとうございます」
そう言うと、おばあさんはまたどこかへ行ってしまった。
見れば、テラスに金属製の蓋が伏せて置いてあるではないか。
虫が寄らないようにと配慮してくれている辺り、まだそう呆れられてはいないのかな。
私は今、おばあさんの家の裏手にある空き地で作業をしている。
そこには何があるというわけでもないが、収穫後に出た藁を束ねて保管する場所として使っているようだ。
それを厩舎へと運び込むのが私の仕事だが……
「……おばあさんはいつもこれをひとりで……それも、畑仕事もしながら……ですか」
大変だと思った。
本当に情けない話だが、これを私は大変な作業だと思った。
おばあさんは眼も悪いし、腰だって曲がっている。
力強く歩いているが、しかし真っ直ぐには進めていなかった。
そんな老人が、この作業をひとりで行わなければならないことが、大変なのだと思った。
けれど、それが普通なのかもしれない。
そう思ってしまったことが、何よりも大変なのだ。
「私の認識は、ここまで世間と乖離していたのですね。きっと、ここだけが特別なわけではないのでしょう」
藁をかごに詰めて厩舎まで向かう道で、私はつい呟いてしまった。
のどかな街だが、けれど誰もが忙しなく働いている。
これはきっと、この街だからという光景ではないのだ。
私が目を向けていない場所では、どこでもこうして生活が維持されているに違いない。
ヨロクも、カンビレッジも、それにランデルも。
ようやく全ての飼料を運び終えると、そこにはエリーとユーゴとおばあさんの……アルバさんの姿があった。
どうやら、私が仕事を終えるのを待ってくれていたらしい。一緒に昼食を食べる為に。
「フィリア! 早く! ごはんだよ!」
「はい、すぐに。すみません、時間が掛かってしまって」
いいから、早く支度しな。と、アルバさんは私にタオルとエプロンを突き付けた。
育ちがいい娘はこういうものがないと食べられないだろう。なんて言葉を添えて。
それは……また皮肉だろうか。
けれど、あまり嫌な感じはしなかった。
こういうところもまた、私が世間とズレている部分なのだろうか……?
「ユーゴとエリーを見習いな。このふたりはさっさと仕事を終わらせてくれたよ」
「アンタまだ若いんだから、もう少しきびきび動いたらどうだい」
「うっ……申し訳ありません。精進します」
アルバさんの言葉に、エリーはちょっとだけ首を傾げていた。
ユーゴは……呆れた顔で私を見ている。
そうか……ふたりから見ても私の仕事は遅いのか……そうですか……
昼食として出されたのは、鶏肉とトマトの煮物だった。
食事情を知れば街の経済事情が分かる。
この街は、私が予想していたよりもずっと豊かだった。
鶏肉もトマトも特別な食材ではないが、味付けには香辛料がふんだんに使われていた。
多種多様なその味は、狭い街の中だけでは得られないものだった。
「なんだい、物珍しそうな顔して。不味かったら食わなくていいよ」
「いえ、とんでもないです。とても美味しいです、ありがとうございます」
この街は、街と街とが集まって出来た……と、そう聞いている。
だが、街と街とが繋がったとて、その範囲は限られる。
気候や土壌などは、街という単位をいくつか進んだだけではそう変わらない。
そして、ヨロクから北では、そもそも香辛料の栽培など記録されていなかったのだ。
つまり、この街が出来上がってから、香辛料を手に入れる交易路が確保された……と、そう考える他に無いだろう。
「その……すごく香辛料の良い香りがするのですが、これは何を使っているのですか? ヨロクでは食べたことの無い味で……」
「そりゃあそうだろうね」
「今どうなってるのかまでは知らないけど、アンスーリァの物流はもう死んでるんだ。ヨロクにいたんじゃ、手に入るものも限られるだろうさ」
「でも、ここは違う。ここにはなんだってやってくる。なんだって入って来るのさ」
なんだって入って来る……? はて、それは少し話が妙だな。
私達は街の入り口で、見張りの男に不審がられている。
その反応は、馬車が来るのは珍しい……というものだった。
ならば、そう頻繁に行商が出入りしているとは思えないが……
「ほら、ユーゴ、エリー。食べたらまた仕事に戻るよ。フィリアもさっさと食べて仕事に戻るんだね」
「終わんなかったら眠れないよ。次は野菜を運んで貰うからね」
アルバさんはそう言うと、ふたりを連れてまた畑の方へと戻ってしまった。
手が悪いフリをしなければならないとはいえ、少し時間を掛け過ぎてしまったか。
「……野菜を運ぶ……ですか。ううん……」
収穫した野菜を売り、それを買い取った業者が市を開く。
これだけの街の大きさ、豊かさならば、きっとそのくらいの経済活動は当たり前にしているだろう。
同じく最終防衛線の外にあったナリッドの街とは大違いだ。
地形条件が良かったのか、それとも街の気風か。
いいや、どちらでもあるまい。
優れた指導者がいたのだろう。それこそ、ジャンセンさんのような。
「……それが、魔人の集いでなければ良いのですが……」
この街は敵にしたくない。
この街にあるものが、アルバさんのような善良な市民が、私達の敵であってはならない。
私を敵とみなしたゴートマンが、この街を治める者のひとりであったならば……その時、私達はどうすれば良いのだろうか。
あの魔術師を打ち倒し、この街を取り返す……と、それは果たして正義の行いなのだろうか。
その後も私達は、日が暮れるまでアルバさんの手伝いを続けた。
ユーゴもエリーも疲れ切った顔をしていて、けれどどこか充実したような笑みも浮かべている。
特にユーゴは、普段には無い刺激が良い影響をもたらしたのだろう。
まだ何かさせられるのか? と、むしろやや期待した表情でアルバさんに問いかけている。
「今日はもう終いだよ。暗くなったら寝る、油もただじゃないからね」
「明日からは、指示が無くても自分で仕事をするんだよ。分かったね」
「はい、かしこまりました。おやすみなさい」
おやすみ。と、エリーが声を掛けると、アルバさんは少しだけ笑って手を振り返して自分の部屋へと入っていった。
やはりこの子の素直さは心を癒す。
さて、それはそうとして……だ。
「ユーゴ、明日もエリーと共に畑仕事をお願いします。私は市場へ行ってきますから」
「……ん、分かった」
市場へ行って、誰かに話を聞かなければならない。
話の切り口はどうすべきだろうか。
こちらから切り出せる話題といえば……どうだろう。
ヨロクからの難民という立場からだと、盗賊団のうわさを聞き付け、保護を求めた……とするのが自然だろうか。
私達はアルバさんから借りた部屋に、三人並んで眠りに就いた。
真っ先にエリーが寝息を立て始めて、それからすぐに私の意識も切れてしまった。
まだ考えることが沢山あったのに。
翌朝、私はまたユーゴの声で目を覚ました。
けれど、その意味は今までとは違う。
アルバさんが起きるよりも前に、話をする時間が欲しい。
そんな意図は言われなくても分かった。
「どう思う、ここ。アイツらが関係してるかどうか……ってより……」
「……関係していたらどうするか……ですね」
昨日私が抱いた不安を、ユーゴも感じていたみたいだ。
もしもここが魔人の集いによって作られた街だとしたら、ここを解放するのは果たして正しいことなのか、と。
魔人の集いによって救われた住民達を奪い返し、国民として迎え直すことは、果たして全員にとっての幸福足り得るのか。
「ひとまず、そのことについて探りを入れてみないといけませんね」
「昨日の門番のふたりに、もう少し話を聞けたら良かったのですが」
「あのばあさんには……まだ聞かない方がいいかもな」
「エリーのおかげで気を許されてる感じはあるけど、警戒心強そうだから」
警戒心……か。
私にはむしろ、心を許し過ぎているとすら思えた。
もっと警戒されて、もっともっと理不尽な扱いを受けてもおかしくはなかっただろう。
それでも、アルバさんは私達を厚遇してくれている。
そのことには感謝するが……それだけ彼女の立場が弱く、他者に助けを求めなければならないということだから。
とても喜べる話ではあるまい。
今日は市場へと野菜を運ぶ。
自分で仕事をしろと言われたからには、こちらに都合の良い場所を多少は選ばせて貰おう。
アルバさんの信頼を逆手に取るようで心苦しいが、時間が無いのだ。
今日の予定をユーゴと話し合い、私達はアルバさんの起床を待たずに仕事に取り掛かった。




