第百六十五話【のんびりの終わり】
のんびりとしたヨロク滞在を終え、私達は明朝に街を出発していた。
ひとまずの目的地はダラン――ヨロクからそう離れていない、特別隊の砦だった。
ゴートマンについての最新の情報、北の戦線の現状を把握してから調査する為に。
「――これで全部です、陛下。それで、俺らはどれだけ付いてけばいいですか? 頭や姉さんはいつ頃合流する予定なんですか?」
役場のものとは違う、最低限纏められた資料に目を通しながら、砦の若者達の表情に目を向ける。
誰も彼もやる気に満ちている……というか、入れ込み過ぎているきらいがあった。
ああ、なるほど。彼らは……ここで戦っている彼らはその被害の大きさを知っているのだろう。
それに、先日の一件も情報として共有されている筈だ。だから……
「……すみません。今回の遠征は、私とユーゴだけで行います」
「ああ、いえ。馭者としてエリーにも来ていただきますが、他には誰の同行も許可しません。ジャンセンさんもマリアノさんも、今回は待機となっています」
だから、私の言葉に皆は目を丸くした。
きっとそんな前提など無くても驚いただろうが、それはそれとしても、だ。
ジャンセンさんほどの人物が不意を突かれたという事実への不安だとか。
別に彼も手傷を負ったわけではないが……ともかく、自分達のリーダーの仇を取るだとか。
そういった気構えがあったから、同行を許可しない――戦力らしい戦力を連れて行かないという発言は、彼らにはとても信じがたいものだったのだろう。
「皆の不安は理解していますし、心境も多少は察します」
「けれど、今回は私達だけで参ります。かのゴートマンを無力化した暁には、また皆にも活躍していただきますから」
人員が増えれば、ゴートマンに操られてしまった際の危険度が高まってしまう。
彼らも話は聞いているだろうし、私の決定に従ってこの場は引き下がってくれた。
こんな考えは持つべきではないと分かっているが…………誰も女王を手にかけたなどという汚名を着せられたくはないだろうから。
「ユーゴ。貴方から見て、これらには何か意図のようなもの……ええと、ゴートマンや魔人の集いが何かしらの罠を仕掛けている可能性があるように思えますか?」
「……なんでそんなの俺に聞くんだよ。分かるわけないだろ、あんな奴の考えることとか」
それはそうなのですが、そうではなくて。
私はユーゴにも資料を見せ、私達が宮で待機していた期間の戦線への襲撃記録を確認させた。
その上で、これらに何かしらの意図が――罠か、或いは捜索か、はたまたただ暴れているだけなのかといった、魔人の集いの行動原理が読み取れないかと尋ねる。
もちろん、彼の能力が感覚的なもので、こういった情報や知識から推測するというものではないとは理解していた。
「あのゴートマンを倒し損ねてしまった場合、またジャンセンさん達に頼れない場面が出てくるかもしれません」
「私もユーゴも、兵法に関しては素人ですから。少しずつでも経験を積んで、考える力を養っておこうと思いまして」
「素人……まあ、作戦立てるのはまだ無理だけど。でも、俺はちゃんと強いし……」
貴方が強いことは誰よりも知っていますよ。と、私がそう言えば、ユーゴは少しだけむっとして資料を睨むように読み始めた。
ユーゴには間違いなく能力がある。戦う能力……ではなくて、何かを学ぶ才能が。
没頭出来る、非凡な能力が確かにあると目の当たりにしたから。
「……これ、持ってっても平気か? 行きに馬車の中で考える」
ユーゴはそう言うと、返事も待たずに紙束を纏めて鞄にねじ込み始めた。
若者達はそのくらい構わないと言ってくれたが……ダメと言われたらどうするつもりだったのだろう。
もしやとは思うが、私に命令させて……などと考えていたとか。
というか、私が一緒にいる手前、断られることは無いだろうなんて思っていたりしないだろうな……
「急ぐんだろ、こんな早くに起きたんだから。遅くなるとエリーが危ないし」
「……そうですが……はあ。そうですね、その通りです。途中で休憩を挟まなければならないかもしれませんしね」
ぐっ……これは完全にユーゴが正しいか。
しかし、やり方はもう少しだけ改めて欲しいところだ。
私は若者達にお礼を言って、そのまま砦を後にする。
馬車へと戻れば、そこには馬にブラシを掛けながら待っていたエリーの姿があった。
「おかえり! もう行く? 行こ!」
「はい、行きましょう」
目的地はダーンフール……だが、到着出来ない可能性が出てくれば、その時は早めに引き返さなければ。
エリーを連れたまま野宿をするというのは避けたい。
それに、到着前にゴートマンを捕縛出来たなら、その時もまた行きを急ぐ必要は無い。
ヨロクへと引き返し、ジャンセンさん達と合流してからゆっくりと北上を再開すればよいのだから。
「……ユーゴ、先に車に入っていてください。出発前に資料を読み込んでおいた方が良いでしょう。揺れる中で小さな文字を追うのは大変ですから」
「……? なら、フィリアだって……」
私はまだ少しだけやることが……話しておくべきことがある。
そう伝えると、ユーゴは何も言わずに馬車へ乗り込んだ。
何をするのか察したかどうかは分からないが、気を遣ってくれたのは確かだろう。
「……フィリア? 行かないの? 行こうよ。ます」
「はい、行きましょう。ですがその前に、ひとつだけ話しておきたいことがあるのです」
おはなし? と、エリーは首を傾げて私の手を握った。
楽しい話が聞けるわけではないと、この子も理解しているようだ。
では何を話すのか……というところだが……
「……エリー。この先を、私達はまだ何も知りません」
「今までに見たことも無いような恐ろしい魔獣が現れるかもしれません。危険な動物や、或いは危険な人物が現れるかもしれません」
「……? でも、ユーゴがいるよ? マリアより速いもんね! 大丈夫だよ!」
大丈夫だと分かっていても、それと恐怖は別の問題だから。
私はエリーの手を出来るだけ優しく握り返して、しゃがみ込んで視線を合わせた。
エリーはそんな私に、嬉しそうな笑顔を向けてくれる。
この笑顔を……不幸を知らない少女の心を、どうあっても守ってあげないといけない。
「何か嫌なことがあれば、怖いと思えば、どんなに小さなことであってもすぐに言ってください」
「嫌いなものがあったならば、それからはすぐに離れましょう」
「エリー、良いですか? 本当に小さなものであったとしても、怖いと感じたらすぐに言ってくださいね」
「……? 分かった!」
エリーの中に恐怖が芽生えれば、ゴートマンによってそれを増幅されかねない。
それは……操られたり、私達の脅威になったりはあり得なくても、絶対に避けなければならないことだ。
幼子の精神では、許容出来る悪感情の限りも少ない。
将来に暗い影を落とすような経験など必要無い。だから、それだけは絶対に避けなければ。
「じゃあ、フィリアも怖かったら言ってね! そしたら、マルマルにお願いしてすぐ戻るからね!」
「マルマルはすごいもん! 速いよ! 怖い人がいても簡単に逃げちゃうよ!」
「あ、でもユーゴの方が速かったっけ。でもマルマルの方がきっと力持ちだよ!」
「……ふふ。そうですね、怖いものが見えたら私もすぐにエリーにお願いします。急いで帰りましょう、逃げましょう、と」
こんなにも優しい心を持っているのだから、怖い思いをさせて精神を歪めるようなことがあってはならない。
ふんふんと張り切っているエリーの頭を撫でて、私達もまた馬車へと乗り込んだ。
私は車の中へと。エリーは馬の手綱を引ける車の前部へと。
「終わったのか? なら、フィリアも手伝え。お前が言い出したんだから」
「はい、すぐに。ええと……こちらが目を通し終えたものですか? なら、私もそれを追っていきましょう」
違うやつにしろよ。と、ユーゴは訝しむが、手分けをして効率化を図るようなことでもない。
というか、効率云々以前の問題なのだから。
ユーゴが見落としたものが無いか、私が感じた違和感にユーゴはどんな考えを持っていたかを確認しやすいこのやり方が良いだろう。
「出発するよー、いいー?」
「はい、お願いします。エリー、何か見えたらすぐに教えてくださいね」
分かった! と、元気な返事が聞こえると、馬車はゆっくりと……がたんともごとんとも揺れることなく、静かに走り始めた。
本当に彼女は馬の扱いが上手だな。
これならば、ユーゴも私も考えごとに没頭出来そう……没頭してはいけない、周囲の警戒もしっかりしなければ。
「……大丈夫だよ、そんな顔しなくても。流石にそっち優先してるから」
「そ、そうですよね。ならば、私は調べものに集中します。少なくとも、魔獣が現れるまでは」
馭者台からはエリーの楽しそうな声が聞こえて、馬車は次第に心地よい小さな揺れを生みながら加速していった。
これから踏み入れる場所が危険かどうかすらも分かっていないようなところだというのに、私達はなんだか随分リラックスした状態で安全地帯から飛び出して行った。




