第百六十三話【楽しい! 頼もしい⁉】
ゴートマンと名乗った魔術師を倒す。
その為に、私はユーゴとふたりでランデルを出発することに決めた。
その条件としてジャンセンさんが出したのは、エリーの同行だった。
まだ恐ろしい体験の少ない彼女ならば、ゴートマンの魔術にも操られることは無いだろう。
操られたとしても、あのような幼子ならば危険にはなり得ないだろう、と。
そうして私達は三人でランデルを出発し、ヨロクへ向けて北上を続ける。
初日はマチュシーで宿を取り、二日目にはハルで準備を万端にした。
そして今朝――三日目の朝、魔獣の跋扈する危険な道のりへと踏み出して……
「――あはははは――っ! フィリア! フィリアっ! すごい! ユーゴ! ユーゴ速い!」
踏み出して……魔獣に襲われている真っただ中……なのだが……?
ハルからヨロクへの道のりには、数多くの魔獣が巣食っている。
それが分かっていたから、エリーには怖い思いをさせてしまうだろう……と、そう危惧したのがマチュシーでのことだったか。
それが……これはどういうことだろう。
「すごいね! いっぱい出て来るね! あははっ!」
「え、ええと……魔獣が恐ろしくはないのですか……?」
ぜんぜん! と、エリーはにこにこ笑って……いいや、もうこれまでに見たいつよりもキラキラした笑顔を浮かべて、進行方向で蹴散らされる魔獣の死骸を眺めていた。
これは……これは本当にどういうことなのだ……
「とりあえず片付けたぞ。様子はどうだった?」
「あ……ありがとうございます、ユーゴ。その……」
少しの間そんな奇妙な光景が続いて、それからユーゴが馬車の中へと戻って来た。
私とエリーとの間にどんなやり取りが成されていたかなんて知る由も無い彼は、果たしてこの無邪気に笑う少女の姿をどう捉えるのだろうか。
「ユーゴすごいね! 速いね! マリアみたい!」
「マリア……? ああ、マリアノのことか。マリアノより俺の方が強いぞ。間違えるな」
何故そこで対抗意識を燃やしたのですか……?
しかし、そんな受け答えの最中にも、ユーゴは目を丸くして私に視線を送る。これはどういうことだ……と。
私が聞きたいのです……
「もしや……エリーは魔獣を見るのは初めてではないのですか?」
「たとえば……そう、マリアノさんやジャンセンさん、他の隊の若者達が戦うところを、今までにも何度か見ている……とか」
「え? うん、いっぱい見たよ。いつもね、マリアが全部倒しちゃうんだ! すごいよ! ユーゴみたいにね! ぱぱぱーって!」
エリーの返答、それに態度や表情から、ようやく私はジャンセンさんの言葉の意味をきちんと理解した。
マリアノさんに保護され、皆で過剰なほどに守り育て上げた。
その言葉の意味は、私の知る幼児の生育に不要な要素まで含んでいたのだ。
彼女はこれまでに、魔獣と戦うマリアノさんの背中を何度も何度も見て育ったのだろう。
ただの一度も窮地に陥ることの無い、安心と安全と強さだけを見てここまで生きてきたのだ。
「……なるほど、これならば納得です」
「怖い思いをしたことが無い……というよりも、一般に怖いと認識される脅威よりも、もっと強靭な存在を目の当たりにしているから……」
「マリアノより強い奴じゃない限りはビビらない……ってことか。なんか……それはそれでどうなんだ……?」
どうなんだ……などと問われましても。
いいや、ユーゴの言いたいことも分かる。
それは果たして、幸福な幼少期の体験だろうかと言いたいのだ。
ここが平穏な国で、魔獣などがいない世界ならば、きっとそんな胆力など無用……むしろ余分だろう。
だが……
「……ことこの瞬間には、そしてジャンセンさん達が思い描いていた未来においては、この子はこうすることでしか怯えずに暮らせなかった……とも考えられますから」
結果として、エリーは笑っている。
魔獣が怖いものだと、恐ろしいものだと知らないというだけで、その存在を目の前にしても笑っていられる。
それを不幸だと憐れむことも、危険極まりないとジャンセンさんを非難することも出来るだろう。
だが、今彼女が笑顔でいられるのもまた事実。
ならば……これも正解だったのだと認めざるを得ない。
「ユーゴ! ユーゴ速いね! すごいね! マルマルより速いんだ! マルマルもびっくりしてたよ!」
「いや……多分、俺じゃなくて魔獣に驚いてたんだと思うんだけどな……まあ、どっちでもいいけどさ」
大興奮でユーゴをまくしたてるエリーの姿は、本当に無垢で無邪気で……たった今、危険極まりない生物に取り囲まれ、それを薙ぎ払ってみせた少年を前にしているとは思えない。
危ないだとか、戦うだとか、強い弱いだとかの概念がこの子の中にはまだ無いようだった。
「フィリアも速い? フィリアもマリアみたいにぱぱぱーって出来る? あっ。ます!」
「えっ……いえ、私には出来ません。マリアノさんやユーゴが特別なのです」
「ああ、いえ……貴方の周りの大人は、ふたりほどではないにせよ、ぱぱぱっとやってしまえますけれどね」
ぱぱぱ……とは、魔獣を簡単に蹴散らして見せる……という意味だよな……?
ならば、私でなくても。ジャンセンさんも、隊の若者も、それに国軍の兵士も。
ユーゴやマリアノさんだけが彼女から危険を遠ざけるものだとは思って欲しくない。
だから……きちんと通じるかどうかという懸念はあれど、私はそう答えていた。
「……え? じゃあ……フィリア、かわいそうだね。ぱぱぱって出来ないんだ」
「マリア、いつも楽しそうにぱぱぱってやるよ? ユーゴも、さっきすごく楽しそうだった」
「でも……フィリアは楽しくないね」
「……ええと……そ、そうなのですよね。はい……私は楽しくは……」
いけない。なんだか大きな誤解を招いてしまったように思える。
この子の中で、魔獣と楽しいが結び付きかけている。
というか……やはり、マリアノさんもユーゴも、楽しそうな顔で魔獣と戦っているのですね。
私の勘違いではなくて、エリーから見てもそう見えるのですね……
「じゃあ、フィリアは一番後ろにいないとね! マリアが言ってたよ! 大きくなるまでは楽しくないから、一番後ろで見てて、って」
「あれ? じゃあ……フィリアはまだ子供だね! あはは!」
「…………そ、そうですね……お恥ずかしい話ですが、まだ未熟でして……」
この子の無邪気さは、時に大人の急所を容赦無く抉るな……
私は無力で、だから一番後ろで守られているしか出来なかった。
うう……そういう意図や蔑みがある筈もないと分かっているのに、どうにも胸が苦しくなってしまう。
「……なんか、ちょっと様子変だな。魔獣の数が少ない……寄って来る気配があんま無い。倒し過ぎていなくなったのか?」
「魔獣が少ない……ですか。前回の遠征からしばらく間が空いてしまいましたから、むしろ増えているかとも思ったのですが……」
っと、のんきにへこんでいる場合ではない。
ユーゴはまだにこにこ笑っているエリーを他所に、周囲を警戒したまま私に伝えてくれた。
魔獣の数が少ない、近付いてくる気配が無い、と。
「何かあったのかもしれませんね。それこそ、ウェリズやカンビレッジ、それにこの先……北の林に起こっているような現象と似たものが」
「無くは無い……のかな。あのゴートマンが絡んでる問題なんだとしたら、フィリアを追っかけてこっちを通った……なんてのも考えられるし」
私を追いかけて……か。
確かに、あの魔術師は私に対して強い敵意を向けていた。
ならば、こちらの行動を待たずに向こうから攻めてくる可能性だってあり得るだろう。
「どちらにせよ、都合が良いと言えるでしょう。エリーが魔獣を恐れないことは、何もその脅威が消えるというわけではありませんから」
「安全ならば、そうに越したことはありません」
「俺はつまらないから出て来てくれた方がいいんだけどな……まあ、安全な方がいいのは分かってるけど」
そう言うとユーゴはため息をついて、馬車の中で腰を下ろした。
ゆっくり休む余裕があるほど、外の様子は穏やかなのか。
これがもし、私達の活動のおかげ……或いは、他の自然的な要因によって、魔獣の勢力が落ちているという証だったならば良いのだけれど。
その後、ユーゴが馬車から飛び出して戦う機会が二度ほど訪れ、それでも私達はいつもよりずっと楽な道のりを駆け抜けてヨロクの街へと到着した。
ユーゴはそれに不満そうな顔をしていたけれど、連続した遠征、それにハルからヨロクへの長い道のりをひと息に走り抜けたのだから、エリーの疲労も小さくない。
そういう意味でも、楽な道のりで助かった。
「エリー、すぐに宿へ向かいましょうか。夕食を食べたら今日はもう休みましょう」
「明日も少しゆっくりして、明後日にはまた更に北へ向かいます」
「……ん……うんん……ふわぁ。分かった……」
大きなあくびをして、もうはしゃぐ元気などどこにも残っていやしない。
けれど、それでも彼女はマルマルの……馬の面倒を見ていた。
厩舎でしっかりとブラシも掛けて、持てるだけの愛情を目一杯に注いでいる。
本当に馬が……動物が好きなのだな。
「ユーゴ、貴方も明日は休んでください。装備の点検もして、出来る準備はこの街で終わらせてしまいましょう」
「俺は明日出発でもいいんだけどな。でも……まあ、エリーがいないと進めないから、しょうがない」
ユーゴは少しだけ困った顔をして、今にも眠ってしまいそうな顔のエリーを眺めていた。
緊張感が無くなるから……と、初めは渋っていたけれど、無用な緊張をほぐしてくれるあの子の存在に、ユーゴもそれなりに感謝しているのかもしれない。
もっとも、大半を占めているのは、小さな子供の面倒を見るお兄さん……という意識なのだろうけど。
それから私達は役場へも砦跡へも訪れず、真っ直ぐに宿へ向かった。
部屋に入ったばかりのエリーは、そのベッドの大きさに少しだけはしゃいでいたが、それもどれだけも経たないうちに静かな寝息に代わってしまった。




