第百四十六話【音、声、言葉】
この場所には何があるのか、何が無いのか。
ヨロク北方の林の中を、私達はくまなく調べながら奥へと進む。
進んで進んで、満足するまで調べて、油断している姿を見せ付ける。その為に。
「ここらでいったん休みにしようかね。ユーゴ、飯食っとけ。食わねえと縮むぞ」
「縮むか、死ねクズ。すぐお前なんかよりデカくなる」
この林には魔獣がいない。だから、昼食の為に足を止めて休むことも出来る。
もっとも、何故いないのかという部分についての調査も兼ねているから、あまり油断し過ぎてもいけないのだけれど。
「……そうだ。ユーゴ、以前言っていたこの林の奥にあるという何か……は、今もまだ感じられるのでしょうか」
油断してはいけない。ここの謎を早く解明しなければならない。
それを考えていると、ふと思い出したことがあった。
ウェリズの海岸付近、カンビレッジとナリッドの間、そしてこのヨロク北方。
共通点は、魔獣が一切存在しないこと。
しかし、その中でもこのヨロクだけは事情が少し違う。
「ん、まだいるぞ。いる……っていうか、ある……なのかもしれないけど」
「何かは分かんないけど、ここだけは確かになんかある」
「“いる”ではなく、“ある”ですか」
他ふたつの地域には、魔獣が生息していない理由が見当たらなかった。
より正確には、このヨロクにだけは魔獣がいない原因になりそうなものを見付けられた、か。
ユーゴ曰く、この林の奥には非常に危険な何かがあるという。
それも、林に入るよりもずっとずっと前の段階で気付くほどのものが。
「そーいや言ってたな、お前」
「姉さんの話も込みで考えたら、やっぱりウェリズから入って来て、ナリッドを経由して、今はこのヨロクに滞在してる何かがある……って、そう考えるべきだろう」
「だったら、まだここで足踏みしてることを喜ぶべきかね」
「知るか、そんなこと。さっさと見つけてぶっ潰せばいいだけだ」
しかし、そんな脅威がもしも私達を無視して街へ向かってしまったら。
そういう懸念があって、これまでは私達もジャンセンさん達もまともに調査出来ていなかったのだ。
今日も……今のこの瞬間には難しいだろう。
ただ、この調査が終わり、街に対して避難指示を出せるように準備してきたなら……
「――っ! クズ男、ちょっと静かにしてろ。フィリア、お前は耳を澄ませ。声だ」
「っ! 声――まさか、それは……」
声が聞こえる。ユーゴはそう言って、じっと姿勢を低くした。
しかし……私には何も聞こえない。
ジャンセンさんも耳を澄ませているものの、何かを捉えられた様子は無い。
若者達も同じようにしているが……
「……あの時と同じ声。やっぱり、予想通りだ」
「あの時……お前、俺達使って罠掛けようってのか。くそっ、ほんっとうに可愛げのねえやつだな、おい」
この調査の目的は、罠を仕掛けて私に攻撃をした誰かを調査することにあった。
もう一度足を踏み入れればまた襲って来るのか、それとも怪しんで様子を窺って来るのか。
そういう性質を知りたいのだとジャンセンさんは企んでいた。
しかし同時に、ユーゴにも企みがあった。
そんなジャンセンさんを利用して、こちらの情報共有が滞っている、無警戒なままでいると思わせることで、その人物をおびき出そうと考えたのだ。
「おい、ユーゴ。こうなったらもう説明しろよ」
「誰かいんのか。どこだ、どこにいる。声が聞こえるってことは、もうそんな遠くねえのか」
「うるさい。まだ遠い――この前と一緒だ。遠いのに、声だけ聞こえる」
声……と、ユーゴはまたそれに警戒し、それを頼りにその存在を手繰り寄せようとしている。
だが……私にもジャンセンさんにも、他の若者にも、その声とやらは聞こえていない。
やはり、彼と私達とでは音の聞こえる距離が違うのだろうか。
そして、その人物はその境目に立っている……と。
「――動いた。逃げて……はない、こっち来てる。フィリア、ちゃんと警戒しとけ。やっぱり狙いはお前なんだろうし」
「は、はい」
こちらに来ている……? ならば、その人物は私達の様子を観察出来ているわけではない……のか?
ユーゴもジャンセンさんも既に警戒態勢で、今ここへ攻め込むのは無謀と言えよう。
もしくは、ジャンセンさんの企んだ通り、マリアノさんという特別な戦力がいないから……と、これを好機と捉えたのだろうか。
「――っ! 聞こえた、女の声。ユーゴ、お前が聞いたのもこれか? なんか……何言ってっか分かんない、女の声だ」
「多分そう。聞こえるけど、何言ってるのかは全然分かんない。声だけど、言葉かどうかは分かんないやつだ」
声だが、しかし言語かどうかは不明……か。
それは……人の声に似た音色の動物の鳴き声という可能性は無いだろうか。
しかし、これまでに抜群の的中率を見せてくれているユーゴの感覚がそう言うのなら、それはきっと人の声なのだろう。だが……
「フィリア、思い出したか? この声だ、この女の変な声。お前が倒れる前に聞こえたやつ」
「え、ええと……すみません、私にはまだ……」
私にはまだ、その声というものが聞こえていなかった。
ジャンセンさんはそれを捉えた。
ふたりの若者のうちひとりもどうやら聞き取ったらしい。
ならば、人間の聴力の個人差の範囲――人間が聞き取れるくらい近くに、その人物は近付いていると考えるべきなのか。
しかし、ユーゴはまだそれの接近を迎え撃つ準備はしていな――
「――っ!? ジャンセンさん――っ!」
突然時間の流れが遅くなったようだった。
声が聞こえた。と、そう言って警戒心を強めていたジャンセンさんが、ゆっくりと膝から崩れ落ちたのだ。
どうやら意識を失っているらしくて、これではまるで――あの時の私と同じ――
「――ッ! 声――女性の――」
そして遂に、私の耳にも女性の声というものが届いた。
確かにそれは、言語と呼べるものではなさそうに思えた。
とても意味のある音の並びだとは思えなくて、ユーゴが怪しいと睨んだ意味も分かる。
けれど……その音の目的が、私の頭の中に突如浮かび上がった。これは――
「――詠唱――言霊――っ! ユーゴ! 耳を塞いでください! 皆も! この音を聞いてはいけません――っ! これは――この音こそが――」
――これこそが――私を攻撃した魔術――っ!
しかし私の忠告は一手遅く、若者のひとり――先に音を聞き取っていた方のひとりは、ジャンセンさんと同じように倒れ、もうひとりもジャンセンさんの介抱の最中にうずくまって動かなくなってしまった。
音そのものを――言霊、詠唱そのものを攻撃とする。
それも、意識を失わせるような干渉力を持っているなんて――まさかこれは――
「――好い悪夢を持ってるじゃない――流石、国に捨てられた盗賊団の頭領は違うわね――」
「――フィリア! 下がってろ!」
声が――言葉が聞こえた。
今度はまごうことなく意味のある言葉だった。
そして、ユーゴが剣を抜いたのが見えた。
姿勢を低くして、肩ともう一方の手で耳を塞ぎながら、迎撃態勢を整えようとする姿が。
「――さあ――見せなさい――」
「民に裏切られた哀れな王女様の――もっと凄惨な悪夢を――っ!」
「――っ。ユーゴ――」
また――魔術の詠唱が聞こえ始めた。
声ではない、奇怪な音でしかない筈のそれが、私の意識を少しずつ蝕もうとしている。
それはどうやら私だけでなく、ユーゴの心にまで襲い掛かっているようだった。
彼までもが動きを鈍くして――膝を突いて――――
――お父様の死からどれだけの時間が経っただろうか。
私は王女だった――それだけの筈だった。
王位を継ぐことの出来ない、未来の無い王女だった――それだけの筈だった。
それが――今、私は女王として椅子に座っている。
お父様の――前王の亡き後を継いで、何も出来ぬままに王としての振る舞いを求められている。
これは――どうしたことか。
「――お父様――私は――っ。私では――とても――」
私の目の前にはふたつの道があった。
分かれ道……ではない。
ひとつは、人の道。
人の王として、自らの脚で、意志で、人々を導いていくという道。
明るいものだが、しかしあまりに険しい道。
そしてもうひとつは……悪鬼の道。
人の道を踏み外した先、奈落の底に伸びる真っ暗な道。
自らの力で、なだらかな下り坂を転げ落ちぬように進む道。
とてもではないが見るに堪えない、最低最悪の外道。
「――お救いください――私を――フィリアを――っ。どうかお父様の力で――お父様のやさしさで――」
私が選ぶのは……人としてやってはならない、最悪の外道だった。
分かっている。
それが悪行であることも。
倫理などどこにも存在しない、獣もかくやという汚れた選択であることも。
それでも――私にはとても、国を背負うなどという大役は――
私はこれから、お父様をこの世界に呼び直す。
人ひとりの命、魂、尊厳、そして肉体。
それら全てを賄う為の対価は――私の心と、魔力と、お父様の尊厳。
全てをなげうち、踏みにじり、それでも私は――――
「――どうか――お父様――どうか私を――――」
魔術式は成功する。
絶対に――何が起こっても、必ず成功する。
しなければならない。
私ではいけない。
この未熟な王女では国を纏められない。
あの大いなる王の背中が無ければ――このアンスーリァは――
そして――魔術式は終わった――
父は――もう、どこにもいない。
この国にも、魂の世界にも、墓所にも、どこにも。
あるのはただ、失われたものの痕跡だけだった。
私は――女王フィリア=ネイは、父との思い出と愛情の全てをいけにえに捧げ、父の尊厳だけを蹂躙してしまった。




