第百四十五話【策を塗り隠す策】
馬車はまたいつもの荒れ地の前で停車し、私達は徒歩で林へと乗り込んだ。
ユーゴさえいれば魔獣はさしたる脅威ではない。
普段からそう思って、それをもとに行動してはいるが、それにしても心許ない人数だろう。
私とユーゴと、ジャンセンさんと、そして隊の若者がふたり。
馬車で同行してくれた三人のうち、ひとりは引き返して合図を待つ係だったようだ。
「ほら、フィリアちゃん。ぼーっとしてないでさっさと調査進めるよ」
「任せてって言って出て来てるからね。これで成果無しは姉さんにどやされる」
「成果……とはおっしゃいますが、しかし……」
この場所には罠の痕跡は残っていなかった。
それはつまり、めぼしい成果の可能性は既に潰えているという意味ではないのだろうか。
魔獣のいない林の謎についても、その組織と繋がっているのならばこれも期待出来ない。
「何も無いなら何も無いで、ここには絶対何も残ってないって結果が手に入れば問題無いんだよ」
「もう連中は完全に撤退した、北に逃げた。それが分かれば、ここも拠点に出来る」
「何も無いことの証明……いえ、納得でしょうか」
私の問いに、ジャンセンさんはちょっとのあいだ首を傾げて、それから大きく頷いた。
「うん、納得って言葉はしっくりくる」
「証明は無理だからね。だったら、出来る範囲でやるだけやってみる。後悔は無いようにね」
そう言ってジャンセンさんは地図を広げだし、現在位置から林の奥へ向かって何本かの線を引いてみせた。
これは……これから歩く調査経路だろうか。
「昨日の調査の感じだと、少なくともこの線の上には何も無かった……残ってなかった、か。なら、ここを辿って進むのが正解だよね、普通」
「今日は別件の調査に来てるんだ。となったら、当然安全が確保されたとこを行くのが道理」
「そうすれば、不自然だとしても自然に見える……ですか?」
そうそう。と、彼は頷いて、地図を広げたまま少し速足で林の奥へ向かって歩き始める。
この躊躇の無さも、また自然の演出……なのだろうか。
「あ。ところでさ、フィリアちゃんが倒れた時ってどんな感じだった? なんか攻撃の予兆があった……なら、ユーゴが気付いてるか」
「なら……えーっと……魔具だとしたら、魔力とかそういうのが魔術師には分かるんだよね。フィリアちゃん的には何か見えたりしなかった?」
「ええと……そうですね、魔力の反応は、私では感じられませんでした」
「すみません。私の腕前では、感知の精度も高くないもので……」
今の私にはもう魔術は使えない。
だから……と、言い訳になってしまうが、私はもう、魔術についての研鑽を積んでいない。
知識も能力も衰える一方で、とてもではないが魔具の反応を見極めるなんて出来ない。
ただ、それを説明するには障害が多過ぎる。
だから、単に結果だけを――凡百の魔術師にも劣る腕前であるという事実だけを伝えた。
「ユーゴは? なんか無かったか?」
「頼むぜ、おい。お前のそういう能力に期待してんだからさ。マジでなんも無かったのか?」
「うるさい、お前の期待なんか知るか。何も無かったよ、全然。何も無いのにいきなり倒れたんだ」
ユーゴはそう言ってつんと顔を背ける。
だが……何か変だ。というよりも、ユーゴが変だ。
私が病院で目を覚ました時、たしか……
「あの、ユーゴ。貴方、おっしゃっていませんでしたか? その、声――むぐっ」
「バカ、アホ、デブ、間抜け。このバカ、あんぽんたん。お前、本当に人の話聞かないな」
ううっ。
ユーゴは問いただそうとした私の口を手で塞いで、じとーっと冷たい目で睨み付けてきた。
「自然に振る舞おうとすると不自然になるなら、あのクズには完全な自然でいて貰う方が良いだろ。知らなきゃ不自然になんてなりっこないんだから」
「もご……な、なるほど」
そ、それは納得だ。
ユーゴはまだ微妙に疑った眼差しを私に向けながら、それでも黙っているくらいは出来るだろうという強い念を送って私の口から手を放す。
そ、そこまで信用が無いのですか、私には……
たしか、ユーゴは声を聞いたと言っていた。
私には聞こえていないのだが、女性の声を聞いたらしい。
そしてそれは、私も聞こえていた様子だった……とか。
「しかし……声など聞こえていたならば、忘れよう筈も……?」
だが、やはり疑問は尽きない。
どんな声だったか、何をしゃべっていたのか、意味のあるものだったのか、言霊のようなものだったのか。
そういう仔細については、覚えていなくても不思議は無いだろう。私はその直後に眠ってしまったのだし。
それでも、声がしたかどうかという範囲であれば、多少なりとも判別出来る程度の記憶は残っていて然るべきだ。
罠の効力にそういった認識の妨害が含まれていたのか、それとも私が単に呆けていたのか。
これを口にすると、きっと後者だと言われてしまいそうで……
「……? あれ……やはり……変です」
「ユーゴ、あの時……私が眠ってしまう直前、私達はなんの話をしていたでしょうか?」
「はあ? なんのって、別に大した話はしてなかったぞ」
大した話でなくても良いのです。と、思い出して貰うようにお願いすると、ユーゴは困った顔で頭を抱えてしまった。
もしや……これは、そうか。
「……あれ。えっと……なんか、誰かいるのに気付いたんだよな。それからすぐ声がして……」
「その前……私とユーゴとの間にあった会話についてはどうでしょうか」
会話……? と、ユーゴはまた更に困った顔になって、遂にはうんうんと唸り始めてしまった。
「えっと……お、お前がいきなり倒れるから! そんなの忘れたよ!」
「……ユーゴの記憶力がそんなに悪かった覚えはありません。ユーゴ、ゆっくりでいいので思い出してみてください。どうか」
彼はいつか、それまでに倒した魔獣の特徴を全て羅列してみせたことがある。
彼の記憶力は、私の知る限りではかなり良い。
もちろん、意識してのこととそうでないことの差はある。
だから、覚えていないこともそれはそれで不思議ではないのかもしれない。だが……
「……私は……全く思い出せません」
「攻撃の後遺症なのか、それとも他の理由……ユーゴのように、その直後の出来事に塗り潰されて忘れてしまったのか」
「どちらかは分かりませんが……しかし、どことなく心当たりのある話ではないでしょうか」
「心当たりって……っ! そっか……他人を操るっていう魔術師……」
それが意識の操作、記憶の操作であるのならば。
もしかしたら、私達は既にその干渉を受けてしまったのかもしれない。
避けなければならないと注意していたつもりだったのに、よりにもよって私とユーゴが……
「……だとしたら、むしろ好都合じゃないか?」
「だって、俺達は全然操られてない。操れない……多分、ずっと洗脳するとか、遠いところで命令出すとか、そういうのは出来ないんだろ」
「こ、好都合……なるほど、そんな考え方も……」
それに……と、ユーゴは悩むのをやめて、にいっと笑みを浮かべる。
何故だろうか、凄く嫌な予感がする。
彼のこの楽しそうな表情を見ると、どうしてか嫌な予感と……頭痛がしてきてしまう……
「なら、ここにいたのはそいつだって可能性高いんだろ?」
「クズ男の策がなんかの間違いでハマったとしたら、いきなりそいつを倒すチャンスだ」
「人心を操る特異な魔術など、どうしようもないほどの脅威だというのに……どうして貴方はそんなにも楽しそうなのですか……」
強いやつとならいくらでも戦いたいからな。
なんて、にこにこ笑う姿は、普段の冷静で淡白な彼からは思い描けないほどの無邪気な幼さをかもしていた。
もう……
「それに――また、いるしな。誰か――まだ遠いけど、また誰かいる。それも、やっぱりひとりだ」
「――っ! それも……ジャンセンさんには……」
言うなよ。と、ユーゴはいたずらっぽく笑って、そして私から離れて何食わぬ顔で周囲の様子を窺い始める。
まさかとは思うが……ジャンセンさんが企んでいると知った上で、それを利用してユーゴも策を企てようとは……
「頼もしいのですが……恐ろしくもあります」
「きっと……きっといつか、貴方は悪道に踏み外してしまいそうになる気がするのです……」
その時は、私が必死に連れ戻さなければ。
正義感や倫理観自体は持っているから、気付きさえすれば戻ってこられる子だと思う。
だが、のめり込んでしまったら……そして、周りが気付けなかったら、多分……っ。
「フィリアちゃーん、なんか見つかったー? って……顔色悪いね。具合悪い? それとも、やっぱ怖い?」
「攻撃されたとあったら、そりゃ嫌にもなるってもんだよね」
「い、いえいえっ。その……ええと……け、今朝はあまり食事を摂る時間が無かったので……」
意外と食いしん坊なんだね。と、ジャンセンさんは私の言葉に目を丸くする。
違……うと言ったら、私は意思疎通の図れない精神異常者に思われてしまいかねない。
自分でそう言ったのだし。
また微妙な勘違いを生みつつ、私達は林の奥へ奥へと向かって歩き続ける。
その先には誰かがいる――何かがあると、私だけが知らされた状態で。
ユーゴだけが待ちわびている状況へ。




