第百三十八話【思い出が綺麗とは限らなくても】
私にとっても、ユーゴにとっても、それは初めての体験だった。
大きな帆船に乗って、潮の匂いのする海の上を走る。
小さな舟で地底湖を渡った時とは全く違う、広々とした解放感と高揚感が私達の胸を満たしてくれただろう。
「フィリア。おい、フィリア。おいってば。フィリア。おい……だ、大丈夫か……?」
「……は、はい。大丈夫です……」
そんな感激と興奮冷めやらぬ中、私の身体は容赦なく不調を訴えた。
寝不足が祟ったのか、それとも宮での仕事が本当に疲れを積み上げに積み上げていたのか。
理由など今更分からないが、とにかく私はゆったりと大きく揺れる船にやられて酔ってしまったのだった。
「酒には酔わないのに、船には酔うんだな。なんか……やっぱり変だな、フィリアって」
「ふ、船酔いをしただけで変人だなんて……いくらなんでも言いがかり過ぎます……」
吐き気を催すほどではないが、短い周期でやってくる頭痛と、熱があるかと錯覚してしまう倦怠感に、船室のベッドから動けなくされてしまった。
「ユーゴ、貴方は外で海を見ていても良いのですよ。せっかくの船旅なのですから、私の看病などばかりしていてはつまらないでしょう」
「そういうのはせめてもうちょっと回復してから言えよな。まだ顔真っ青だぞ。ほら、水飲め」
そんな私を、ユーゴは付きっ切りで介抱してくれていた。
もしかしたら、彼の中では、私は手のかかる妹か何かに分類されているのかもしれない。
ぐちぐちと小言をこぼしながらも、ひと時も立ち止まることなくせっせと世話をしてくれる。
「……いつか、ジャンセンさんには親子にさえ間違えられたのですが。こうしていると、まるで私の方が子のようですね」
「何言ってんだ、このバカ。ただでさえ変なのに、へろへろになってもっと壊れたのか」
こんなにも甲斐甲斐しく世話をしてくれるのに、どうして言葉はいつにも増してとげとげしいものになってしまうのだろう。
なんだかんだと長くそばにいるが、未だに彼の真意は掴めないでいる。
「これでなんかあって死なれたら困るからな。パールとリリィには約束してるし、クズ男にもなんか言われそうだし」
「っていうか、フィリアがいなくなったら俺もあそこでは暮らせなくなりそうだし」
「死……大袈裟ですね、貴方らしくもない」
それと、ひとつ聞き捨てならない言葉があった。
私がそう言うと、ユーゴはしかめっ面でまた文句を続ける。
アイツは間違いなくクズだろ、他にどう呼べばいいんだ、と。
いえ、そこも重大な問題ではあるのですが、そこではなくて。
「たとえ私が死んでいなくなっても、宮は貴方の家ですよ」
「パールもリリィも、他の役人も。使用人も、作業員も、皆が貴方をあの場所の一員だと思っています」
「それは間違いありませんから、追い出されるかもしれないだなんて言葉は撤回してください」
「な、なんだよ……まあ、いさせて貰えるならなんでもいいけど……」
っと、少しだけ言葉が強くなってしまったかもしれない。
ユーゴはちょっとだけたじろいで、けれど少しだけ口角を上げて、どうでもいいなんでもいいと繰り返す。
分かりやすい時はこんなにも分かりやすい子なのに、どうして怒っている時は全然分かってあげられないのだろうか。
「それに、私は死にませんよ。いえ、死ぬわけにはいきません。少なくとも、こんなことでは」
私が死ぬとしたら、それはきっと誰かの期待に応えられなくなった時だろう。
王として不要だと断ぜられた時こそ、父と同じ結末を迎えるのだ。
それ以外には、私の最期を飾るものはあり得ない。
だって、ユーゴがいるのだ。
彼と共にいて、外敵に殺されるなんてことは起こり得ない。
病も、彼の体調を気に掛けるのと同じだけ自分をいたわれば、流行り病だって患わないだろう。
「……もっとも、現状ではそれこそが最大の悩みなのですが……」
「……? フィリア? なんか言ったか?」
いえ。泣き言などこぼす筈がありませんよ……はあ。
もしもユーゴに言った今の言葉を嘘にしてしまうとしたら、それはこの私の呑気さや間抜けさが原因になってしまうのだろうな。
たとえば……あまりの能天気さに、マリアノさんが耐えかねて特別隊が崩壊する……とか。
そうなれば、当然私にはなんの権限も無くなるわけなのだから。
王としてのフィリア=ネイは、宮にもこの国にもいられなくなるだろう。
その後も私の体調が快復することは無く、結局初めての航海は、ずっと船室にこもってやり過ごすだけという寂しい思い出だけを残した。
私だけでなく、ユーゴにも。
けれど、ユーゴに介抱されながらのんびりしているだけでも、なんとなく楽しかったのは彼には黙っていよう。
また怒られてしまいかねないから。
そうして私達は、ナリッドから近い港でようやくぐらぐらする地面から脱せられ……
「な、なんだかまだ揺れているような……」
「揺れてない。フィリアがふらふらしてるだけだ」
硬くて平らな地面に戻って来た……筈だったが、どうにも私の平衡感覚はまだ狂ったままのようだ。
まっすぐ歩いているつもりが、右へ左へ身体が勝手に……
「……はあ。ほら、フィリア。まっすぐ歩け。バカみたいだぞ」
ば……
しかし、ユーゴは乱暴な言葉とは裏腹に、優しく私の手を引いてくれた。
さっきまでの献身ぶりといい、この子の中には本当に温かな優しさがあるのだな。
「なんか……これ、覚えがあるな。ボケたばあちゃんがこんな感じだった気がする」
「いっつもふらふらしてて、危なっかしくて、微妙に話通じなくて、なんか知らないけどずっと笑ってて」
「っ!? ま、まだそんな歳ではありませんっ! ひとりで歩けます!」
まだ耄碌するような歳では……というか、それを心配されるような歳ですらありませんから!
優しさは優しさでも、まるで私の思っていたのとは違う優しさだった。
というか、それを思っても口にしない優しさは持っていないのだろうか。
「陛下、馬車を準備しますのでもう少々お待ちください」
「もしもまだご気分が優れないようでしたら、薬をお持ち致します」
「陛下の施策のおかげで、船着き場の小屋にも多少の薬を常備出来ていますので」
「いえ、薬は大丈夫です。すみません、お見苦しいところをお見せしました」
もう、同行して貰った兵士にまで気を遣わせてしまったではありませんか。
そんな恨みの念を込めて視線をユーゴに向けると、彼は困った顔で首を振った。
俺の所為じゃないだろ。と、そう言いたいらしい。
「しかし、もうこんなところにまで薬を置けるほど物資の援助が進んでいるのですね。それとも、ここを優先する理由があったのでしょうか」
「人が多く出入りする場所ではありますから、ジャンセンさんが気を回してくださったとか」
大まかな指針は私が決めたが、しかし細かいところは現場経験の多い彼らに任せてある。
と、そんな背景など関係なく、ユーゴはやっぱり不機嫌な顔でふんと鼻を鳴らしていた。
ジャンセンさんを褒める発言をすると、必ずと言っていいほど不貞腐れてしまうのはどうかと思うが。
「そうだ。ユーゴ、ここから魔獣の気配は分かりますか?」
「街までの道と、街の周囲と、それから川や林……は少し遠すぎるでしょうか」
「ん……んー……どうだろう。魔獣の気配自体はある。あんまり減ってないな、多分。だけど……うーん」
うーん? 珍しく感覚が鈍っている様子だ。
もしや、船旅の影響は私だけに出ていたわけではない……とか。
「街の近くにはいない……と思う。数が多過ぎてちゃんとは分かんない」
「でも、多分あんまり近寄らなくなってる。あの後マリアノも派手に暴れたんだろうな」
「本当ですか? それなら、街の人々に危険が及ぶ可能性もずっと下がったのですね」
それは間違いないと思う。と、ユーゴは自信を持って答えてくれた。
断言したということは、その点については確証があるのだろう。不真面目な発言はしない子だから。
「けど、川の方は分かんない。遠いのもあるけど、そこまでに魔獣の気配が多過ぎて」
「そんなに多いのですか……ここから街まで向かうのに、どのくらい危険なのでしょうか。その程度によっては、常駐させる護衛隊を増員しなければ」
ここから街までなら大丈夫だと思う。と、今度はすっごく苦い顔で応えてくれる。
な、何故。それは良いことではないか。何故そんなにも嫌そうに……
「……あのクズ、仕事は早いんだな。港と街の間を最優先で整備したっぽい。進めば分かるけど、結構すごいぞ」
「すごい……ですか」
すごい。と、ユーゴはやっぱり険しい顔で吐き捨てた。
そんなにもジャンセンさんの仕事ぶりを褒めたくないのか。
しかし、それでもすごいと言わざるを得ないほどの成果があるのだな、この先に。
「お待たせしました、陛下。馬車の準備が整いました。少々狭い馬車ではありますが、ご容赦ください」
「構いません。では、すぐに出発しましょう。ユーゴの言う、ナリッドの成果というものも気になりますから」
私達は積み荷を降ろし終えた馬車に乗り込み、そして獣道へと向けて出発した……筈だったが、それから少しすると、ユーゴの言葉の意味が理解出来た。
地面には綺麗に均された土の地面が広がって、舗装こそされていないものの、立派な道路が街まで繋がれていたのだ。
まだそう長い日数は経っていないのに……こ、これはすごい……




