第百三十六話【警戒すべき時】
どうやら私は、林を目指して歩いている最中に倒れてしまったらしい。
疲れていた自覚も、眠たかった覚えも無かったのだが、なってしまったのだから、何かしら無理をしてしまっていたのだろう。
そんな私を担いで、ユーゴはヨロクの街へと戻ってくれたらしい。
そして今、私達は街の病院にいる。相変わらず頼もしい限りの対応の早さだ。
「ありがとうございました、ユーゴ」
「私としてはなんともないつもりですが、心配して病院にまで運んでいただいて。本当に感謝しています」
「別に、心配なんてしてない。うるさい」
この、うるさい。という言葉、彼の口癖だとばかり思っていたけれど、どうやらそれだけではなさそうだ。
きっとこれは、本心を隠したい時に出てしまう言葉なのだろう。
そう思うと、なんとなく可愛げが増したようだ。
「それにしても……はあ。貴方に口うるさく言っていたのに、私の方が体調管理出来ていなかったのですね」
「食事も睡眠もしっかり摂っていたつもりだったのですが……」
調査を打ち切らせてしまって申し訳ありません。私がそう言って頭を下げると、ユーゴは眉をしかめて首を傾げた。
そんなことでどうして謝るのか……と言いたいのか。
それとも、まったくその通りだと怒っているのか。
「そんなんじゃないだろ。やっぱり、誰かいたんだ」
「声がしただろ、女の声。そいつが何かしたんだって考えるのが、状況的には自然だ」
声……?
ユーゴは次第に怒った顔になって、少しとげとげした口調でそう言った。
誰かがいた……それも、ユーゴが姿を確認出来ないほど遠くからでも、こちらに何か出来る人物が。
それは……
「……それは……どうなのでしょうか」
「私には声なんて聞こえませんでした。貴方がようやく声を聞き取れるかという場所からこちらへ攻撃するなど、とても可能とは思えません」
「……俺もそう思うけどさ。だけど、実際になんかされたから倒れたんだろ」
「そりゃ、最近は忙しそうにしてたけど。だからって、倒れるほど疲れてるとは思えなかったし」
そ、それはどういう意味ですかっ。大変でしたよ、ずっと。
ええ、ようやく今になって理解しました。
あんな夢を見たのはきっと、疲労が祟って精神が弱っていたからに違いありません。
「……ほんとに覚えてないのか? 結構しっかり聞こえたし、倒れる直前にはフィリアにも聞こえてるっぽい感じだったぞ?」
「そ、そう言われましても……そもそも、私の耳で聞き取れる距離なら、貴方がとっくにその姿を見付けている筈ですよ」
それはそうだけど、そうじゃなくて。と、ユーゴはもどかしそうにしていた。
そうじゃないのならばどうなのだ。
確かに、私も自分に不調があったとは思えない。
けれど、それ以上に何かをされたという可能性の方が低いのだ。
事実、私にはなんの自覚も無い。
何か良くないことが起こっている実感が無いのだ。
「どちらにせよ、調査を進めるだけです。むしろ、進めなければならない理由が増えました」
「ユーゴ、行きましょう。まだ今からでも……」
「い、今から行くのか? 俺は大丈夫だけど……フィリアは絶対やめといた方が良いと思う」
大丈夫です、もう倒れたりしません。と、私は出来るだけ元気にそう言って立ち上がると、ユーゴは小さく首を振ってため息をついた。
な、なんですか。ついさっき倒れたばかりだから、今は安静にしていろ……と言いたいだけには見えないが。
「大丈夫ですってば。ほら、行きましょう。日が暮れる前には戻りたい……ですから……?」
「……日ならもう暮れてるよ。大丈夫じゃないだろ、どう考えても」
荷物を手にして病室から出ると、廊下の窓から黒い空が見えた。
もしや……もう夜なのだろうか。いや、そんな筈は。
だって今朝早くに出発したのだ。
歩いて向かったからそれなりに時間も掛かっただろうが、しかし私を運んでくれたのはユーゴだ。
慎重にやってくれたのだとしても、きっと昼を少し過ぎたころには戻れている筈。なら……
「……ずっと寝てたんだぞ、お前。疲れてたとしても、こんなのそうそう無いだろ。やっぱり、何かあったんだよ」
「ずっと……朝出発して、林に到着することもないまま倒れて、それからずっと……ですか……?」
ユーゴは小さく頷いて、そして私の手を引っ張ってベッドへと座らせた。
なるほどこれは……
「……心配させてしまったみたいですね。私が思っていた以上に」
すみません。と、私はまたユーゴに頭を下げた。
ただの心配性や考え過ぎではなく、現実として目の当たりにしたものが異常だったからこそ、奇妙な可能性を疑っている、と。
ユーゴは真面目な顔で黙り込んで、あの場所で起こったことがなんだったのかを考え始めた。
「しかし、やはり私には想像出来ません」
「貴方の感知出来る範囲ギリギリから攻撃するなんて……そんなことが果たして可能なのでしょうか」
「……出来ると思う。というか、それは一回やられてるだろ」
「むしろお前が一番近くで見てたのに、なんでそんな間抜けな考えでいられるんだ」
え……? 私の目の前で……そ、そんな出来事があっただろうか。
ユーゴと行動を共にし始めてからというものの、彼の能力の高さ――異常さに驚かされるばかりだった。
彼が出し抜かれたり、後れを取ったりするところなど一度も……
「……っ! そうでした。いつかジャンセンさんに……」
「そうだよ。あのゲロ男、どうやったか知らないけど、俺が全然気付けないうちに攻撃してきた」
「悪いこと考えてるのが見抜けなかっただけなら、アイツが性格終わってるクズってことだけで済む。だけど、俺達は……」
そうだ、そうだった。
今ある特別隊が出来上がる前、ジャンセンさん達と協力関係を結び始めるころ。
私達は彼に――私の真意を確かめる為の演技だったとはいえ――裏切られて取り囲まれてしまったことがある。
そしてその際、銃器による威嚇射撃が行われた。
その時、ユーゴはそれの出どころを見付けられなかったのだ。
「やり方はあるんだ、多分。それをあのクズ以外のやつがやったのか、それともアイツがまた裏切ったのか」
「どっちにしても、俺がいれば攻撃は全部分かるわけじゃない」
「……で、ですが、あれは最初から威嚇が目的――私達を害するつもりの無い発砲でした」
ユーゴは無害なものを感知出来ない。
それを確認したうえで、ジャンセンさんが事前に口裏を合わせた部下を手配した……と考えれば、あの一件には説明が付かないでもない。
だが……その場合は……
「悪意の無い威嚇なんてありえないだろ。どんなつもりでも、威嚇も攻撃の内だ」
「だったら分かる、絶対。少なくとも、マリアノの威嚇は全部分かるんだから」
「……では、あの時も今回も、ユーゴの感覚をすり抜けるなんらかの方法を用いられた……と? しかし、そんなもの……」
あるんだよ、実際に! と、ユーゴはちょっとだけ怒鳴って私の頭を叩いた。
な、何故叩くのですか。
分からず屋と言いたいのかもしれないが、何も叩かなくても。
もしや、自分の欠点を自分で口にしなければならないことに腹を立てているのか……?
や、八つ当たりではないですか……
「ナリッドへ行くぞ、調査はその後だ」
「あのクズに、あの時何やったのか聞くんだ。なんにも分かってない状況で、今度は倒れるだけじゃ済まない攻撃が飛んできて終わりなんてバカ過ぎる」
来ても今度は絶対なんとかするけど。と、そう付け足したが、しかしユーゴの不安は相当大きそうだ。
彼にとって、あの一件は大きな傷になってしまっている。
事情も知って、ジャンセンさんへの信用も少しずつではあるが回復してきている。
それでもやはり、幼い彼には酷な出来事だった。
「では、明日の朝早くに街を出ましょう」
「ここからナリッドとなると……マチュシーから直接カンスタンを目指す方が早いでしょうか」
「カンスタン……港があるんだっけ。ってなると、前に造ってた船に乗るのか?」
陸路でここからナリッドを目指そうと思うと、まずはハルの街で足を止め、次にマチュシーを訪れ、それからランデルへと戻り、またバンガムで一泊してからカンビレッジへ向かう。
そこからようやくあの険しい道を進んで到着出来るのだ。
日数も補給も手間もかかり過ぎる、こんなことをしていてはまた宮の仕事が溜まってしまうだろう。
「はい、少しだけ楽しみですね。実は、帆船というものには乗ったことが無いのです。ユーゴはどうですか?」
「俺も無いけど……なんか、うーん」
「自分が襲われたから、それを対策しようって話をしてるのに……やっぱりフィリアって……」
ユーゴはすごく冷たい目をして、能天気で羨ましいと言わんばかりに肩を竦めた。
もう……もう、この際呑気でも能天気でも間抜けでも構いません。開き直りました。
私はそういう風に振る舞って、ユーゴが気を張り詰めてくれる。そういうバランスで進めばいいのです。はあ。
「明日はハルまで、翌日にマチュシーへ。マチュシーを明朝に出発してカンスタンを目指します」
「そこで一泊して、海路でナリッドへ。四日あれば到着するでしょう」
「海の状態にもよりますが、そう荒れる季節でもありませんから」
「ん、四日か。馬車で行くと結構かかったもんな、確かに早くなってるかも」
二日から三日は短縮出来ますね。
ユーゴはその決定に満足そうな顔をして、今日はゆっくり休めよと言い残して部屋を出て行った。
けれど、きっと宿や役場には戻らないのだろうな。
まったく、なんとも心配性な子だ。
ここへ来ての迂回は少々痛いが、しかしユーゴの不安は可能な限り取り除いてあげたい。
私の安全の為でもあるのだし。
そう自分に言い聞かせて、私は眠たくもない身体をまたベッドに横たわらせた。
睡魔は案外早くにやって来て、考えごとに圧し潰される時間は一瞬も無かった。




