第百三十五話【ある日――】
――――すごく――すごく賑やかで、楽しげで、誇らしい景色が広がっていた。
私は今日、お父様に連れられて記念日の式典に出席している。
今まではずっと遠くから見ているだけだった大切な式に、王女として並んでいるのだ。
「――フィリア。まだ、緊張しているのか」
「……はい。けれど……すごく、嬉しいです」
そうか。と、お父様は優しく微笑んで私の頭を撫でてくださる。
大きな手で、小さな私の頭を。
今日はこのアンスーリァ王国が現在の形になった記念の日――王政が始まった特別な日だ。
お父様のお父様の、そのお父様。初代の国王が王様になった日、国の生まれた日。
何よりも大切な日の、大切な式典。
「陛下。お願い致します。フィリア王女はこちらへ」
私を呼んだのはケルビン先生だった。
私に魔術を教えてくださる先生の、そのひとり。
跡継ぎにはなれない私の未来を案じ、多くのことを教えてくださる偉大な先生だ。
その人に呼ばれて私はお父様のそばを離れ、そしてお父様が――国王陛下が宣誓するのを見守った。
国の礎として、そして民全ての父として君臨するというお父様の言葉は、とても誉れ高いものに思えた。
「……フィリア王女、どうかなさいましたか。少し、顔色が悪うございます。ご気分が優れませんか」
「いえ。まだ緊張しているので、きっとその所為で……」
胸の奥の方にちくりと毒が湧いた。
羨ましい。そう思ったのだ。
誰からも尊敬されるその姿が、とてもとても羨ましかった。
国王という立場に憧れたのではなく、誰からも愛される存在であることが羨ましかった。
誰をも愛するお父様の心の大きさが、すごく羨ましかったのだ。
「……私は跡継ぎにはなれない。だから……」
私は女で、王にはなれない。
弟が生まれれば、お父様はその子の教育に力を入れ始めるだろう。
もちろん、それで私を蔑ろにするようなお方ではない。
けれど、私を構うばかりで、肝心の跡継ぎに手を掛けないようなお方でもない。
それを理解した時から、私の胸の奥には毒の湧く泉が出来てしまっていた。
お父様は偉大な方だ。
それは、国王としての振る舞いだけを指すのではない。
お父様は、王座を継げない私のことも見てくださる。
聞けば、お父様にはお姉様が三名いたという。
しかし、先代の国王陛下――お父様のお父様は、その三名に今の私のような恵まれた環境を与えて差し上げなかったそうだ。
少なくとも、生家でもある筈のこの宮への出入りは許されていない。
それほどの冷遇をされているらしい。
そんな冷遇を知っているからこそ、本来ならば不要なほどに私を厚遇してくださるのだろうか。
その話を聞いた時にはそんな疑念が頭に浮かんだ。
けれど、それはすぐに消えた。
お父様は、心から私を……いいや。
この国全ての民を愛してくださる。そういう優しい方なのだ。
だから……私はそんなお父様のように生きられないことが、何よりも悔しかった。
「――フィリア。パレードが始まるぞ、付いて来なさい」
「きちんと胸を張って、国民に顔を見せなさい」
「お前がフィリア=ネイであることを、今日この式典に出席した全ての民が覚えられるように」
「はい、お父様」
気付けば宮での式典は終わっていた。
緊張と、それから身を焼くような羨望が私の気持ちをどこか遠くへ追いやってしまっていたみたいだった。
宮での式が終われば、次は兵士による観兵式だ。
このアンスーリァを守ってくださる強靭な兵士達による統率の取れた行進と、それから戦車隊も列を成す……らしい。
――歩兵隊――前進――っ! と、声が小さく聞こえた。
お父様が指差して教えてくださった方が指揮官らしい。
その方は私のいる場所からはるか遠くに見えて、いったいどれだけ大きな声を出したのだろうかと驚いてしまう。
「どうした、フィリア。怖いのか」
「……少し。けれど、この方達が皆、お父様を……アンスーリァを守ってくださるのですよね」
式典には、今まで一度も出席したことが無かった。
だから、段取りこそ知らされていたものの、こうして実際に行進を目にするのは初めてのことだった。
屈強な男達が鎧を身に纏い、刀剣を携え、たった一部の乱れもなく歩く姿は、感激もしたが、それ以上に怖かった。
「そうだ。これだけの兵士が……いいや」
「これだけの民が、国を守る為に戦ってくれている。彼らの家族を、そして彼らの隣人の家族を守る為に」
「そしてフィリア、お前を守る為に」
「……私を?」
お父様はまた優しく笑って、大きな手で私の頬を撫でた。
がさがさしていて、節が立っていて、それでも優しさがたくさん詰まった、たまにしか触れることの出来ない大好きな手だった。
「そうだ。王である私を、私の娘であるフィリアを。私達の住む宮を、宮のあるランデルを守ってくれている」
「だから、彼らには心から敬意を払わなければならない」
「覚えておきなさい。王とは、皆から敬われるものではない」
「皆を敬い、その誠意を以って民に愛されるものなのだと」
お父様の言葉は、ずっとそばで見てきたその生き方によく表れていた。
私へ優しくするように、お父様は国民にも優しく振舞った。
魔獣による侵攻で、人々の生活はどんどん苦しくなっている。
税を払えなくなってしまった街も少なくない。
お父様はそれを許し、弱り切った街の民を救う為に、大きな街での受け入れに補助を出し続けている。
観兵式も終わって、段取りは最終項に差し掛かる。
お父様の――国王陛下のパレードが始まるのだ。
屋根の無い大きな馬車に乗り、この広いランデルの街を一周する。
誰もが笑顔でお父様を敬い、そして……お父様の言葉をそのまま引用するのならば、パレードを見ている民全てに手を振って、その生活に敬意を払う大切な催しだ。
「フィリアも一緒に乗りなさい。全員の顔を覚えるつもりで、愛を以って手を振るんだぞ」
「今日顔を覚えた人々が、将来きっとお前を助けてくれる」
「お前が民を愛し、そして敬意を払う限り、誰もがお前を愛し、守ってくれるだろう」
自信は無かった。
ランデルにいったいどれだけの人が住んでいるのかと考え始めたら、とてもではないが全員を覚えるだなんて不可能だと。
けれど、お父様はきっと覚えていらっしゃるのだろう。
ならば、私もお父様に恥じない娘でありたい。と、強くそう思えた。
お父様は私を優しく抱き上げて、大きな馬車の上に乗せてくださった。
そこには、大人の人すらもずっと下に見下ろす景色が広がっていて、ランデルの全てが一望出来てしまいそうだとすら錯覚した。
「それでは出発致します。国王陛下、合図をお願い致します」
お父様の号令をきっかけに、ぴしゃんと鞭の音が響いた。
馭者が五人もいて、何頭もの馬が引いてようやく馬車は動き始める。
厳格な空気がそこにはあって、けれどその中心ではお父様が笑っていた。
「ほら、フィリア。顔を見せなさい。笑顔で、皆に手を振るのだ」
「お前がフィリアだと、皆が覚えられるように。皆がお前を守れるように」
「は、はいっ」
パレードが始まると、私の心臓はどんどんと音を大きくしていった。
緊張……だけじゃない。高揚感があった。
私は王にはなれないけれど、王よりも大勢を敬う立派な人間になりたい。
胸の奥の毒はだんだんと澄んでいくようで、きっと私は次第に笑って手を振れるようになっていたと思う。
「――お父様、素晴らしいですね。ランデルにはこんなにも多くの笑顔があったのですね」
「そうだ。その笑顔を覚えておきなさい。そして、それが絶えることのないように努めなさい」
「その為に、お前も笑顔で――――」
突然、世界から音が無くなった。
そして私の目の前には赤いものが飛び散って、それから……?
――ああ、なんだ。
これは夢か。
やっと気付いた。
そうだ、私はもう王女ではない。
これは、幼い頃の出来事の夢。
私に決心をさせた瞬間の焼き直しだ。
――――お父様が殺されたあの時の――――
「――――リア――フィリ――――フィリア――っ! 起きろ! フィリア――っ!」
「――? ああ、いけない。まさか眠ってしまって……あれ。ユーゴ、ここは……私達は林を目指して――」
夢から覚めると、そこには知らない部屋の天井とユーゴの顔があった。
すごく心配そうで、今にも泣きだしてしまいそうな顔。
ええと……あれ。夢……?
「……私は何故、眠っていたのでしょうか。ユーゴ、あの……」
「――っ。知るか! このバカ!」
ぺちん。と、ユーゴはいつもの彼からは考えられないくらい弱々しく私の頭を叩いて、バカ、アホ、間抜け。と、いつもの罵倒を繰り返してそっぽを向いてしまった。
「あ、あの、本当に何故私は眠ってしまっていたのでしょうか……?」
「疲れていた……といっても、突然気を失うほどではなかったと思いますし、それに眠気などもまったく無くて……」
「――だから……っ。知るかって……言って……っ」
ユーゴ……?
そっぽを向いたままのユーゴの背中が小さく震え始めて、彼は何も言わなくなってしまった。
そんな彼に、私は何もしてあげられることが無くて……
「……勝手に倒れたのはフィリアだろ……っ。こっちが聞きたいよ……っ」
「……心配を掛けてしまってすみません。もう、大丈夫ですから」
私はその小さな背中をそっと撫でた。
ユーゴはそっぽを向いたままだったが、しかし逃げることも拒むこともしないでくれた。
ああ、もしかして。
なんだかんだと言いながら、ユーゴは私を心配してくれているから。
私よりも彼の方が敬意を払っているのだぞ、と。そう警告する為の夢だったのだろうか。
もうとっくに枯れて消え失せた胸の奥の毒の泉には、相変わらず清水も泥水も溜まっていない。
けれど、もしかしたら花くらいは咲いているのかもしれないな。




