第百三十四話【知る由のない】
もう何度目かの調査となるヨロクの街の北側の荒野も、今日ばかりは景色が違って見える。
普段なら馬車に乗って進んでいる道を歩いているのだから、そんなのは当然だ……と、それだけの話ではない。
「……フィリア、大丈夫か? この前みたいな顔色になってるぞ」
「大丈夫です。心配してくださってありがとうございます」
ユーゴは不安そうな顔でそう言った。
この前……とは、ナリッドで無茶をして体調を崩した時のことだろうか。
また恥ずかしい話を持ち出してくれたものだが、しかし遠からず……か。
徒歩移動による疲労もある。
だが、最大の要因は恐怖心だろう。
以前に訪れた際には、この場所はただの不明でしかなかった。
しかし今は違う。
少しずつ、それも仮定の話ではあるが、この場所に巣食っているものの輪郭が見えてきている。
この先へ進めば何が待っているのか、それを思うと身体が強張ってしまうのだ。
「――ふぅ。ユーゴ、少しだけ休憩を…………いえ、水分補給だけして進みましょう。帰りのこともありますから、あまり時間を掛けられません」
「……フィリアがそう言うならそうするけどさ」
無理はするな。と、言葉にはしなかったが、ユーゴは態度でそう伝えてくれた。
本人としては、私の決定を――彼が信じてみようと思ったものを尊重しようと考えてくれたのだろう。
「それで……その……どう、ですか? すみません……漠然とした問いになってしまって、情けないとは思います。ですが……」
私にはユーゴの言う感覚は分からない。
魔獣の気配など察知出来ないし、脅威の接近にも気付けない。
だから……ではないが、私からは彼になんと問うたらいいのか分からないのだ。
今この場所は、これから向かう場所は、その更に奥は、いったいどういった状況にあるのか。
それをユーゴは感知出来ているのか、と。
「……まだ、前と変わらない……気がする」
「だけど、もしマリアノが言ってた通りなら――ウェリズから来て、ナリッドを経由して、この場所に何かが運び込まれたなら。もうそろそろもっと遠くまで運ばれててもおかしくない」
「今のところはアテになるような気配無いけど、近付いたら分かるのかどうか」
ユーゴもその感覚について、自分でもはっきりと理解出来ているわけではないともっぱら口にしている。
故に、もしも前回感じたものと違ったとしても、それが誤差程度ならば見落としてしまいかねない。
彼はそれを危惧しているらしくて、僅かに焦った顔をしていた。
「一番嫌なのは、近付いてもそれに気付けないことだな」
「でも、魔獣はちゃんと分かるし、それは大丈夫だと思ってる」
「だから、その次に嫌なのを心配する方が良いと思う」
「二番目に嫌な可能性……と言いますと?」
こっちが分かんないまま、向こうに先に気付かれること。と、ユーゴはそう言って、今向かっている林の方をじっと睨んだ。
ユーゴよりも、問題の脅威の方が探知能力が高かった場合という想定か。
なるほど確かに、それは非常に厄介だろう。
「今回は避難指示出してないだろ、勝手に出て来てるんだから」
「そうなると、もしそいつが暴れ出したりして、それも俺を無視して街へ向かったりしたら……」
「……ユーゴも脚は速いですが、より速い動物はいますから。当然、魔獣の中にもいる筈です」
「そういった能力の魔獣があの奥に潜んでいた場合は……ど、どうしたら良いのでしょうか……」
どうしようもない気がしてしまうな。
もちろん、最悪も最悪、可能な限り対処が難しい……不可能にも近い問題である想定だ。
現実的に、そこまでの悪い奇跡は起こらない。
ユーゴよりも鋭敏で、ユーゴよりも速く、獰猛で手も付けられないような魔獣が、今まで見向きもしなかったヨロクの街へと一直線に向かってしまう。
そんなことは起こり得ない。偶然にも限度がある。
「どちらにせよ、急いだ方が良いのは間違いないでしょう」
「対処が必要とあらば、日の暮れるよりも先に済ませてしまわなければ。暗くなればこちらは不利になる一方です」
「暗い程度なら俺は平気だけど。でも、フィリアがな……うーん」
お荷物だなんて思わないでください……
いいや、事実足を引っ張るばかりではあるのだが。
「……ま、急がないと、ここへ来たこともバレかねないしな。行けるんだったら早いとこ進もう。休みたかったら休むんでも良いけど」
「いえ、大丈夫です。進みましょう」
ユーゴは私の言葉を聞いて、一瞬だけ表情を曇らせた。
けれど、すぐに笑って私の前を歩き始めてくれる。
こんなに心配させてしまって、なんとも情けない話だ。
馬車よりも遅いことは当然として、それを抜きにしても林が随分と遠くに感じる。
緊張や不安もあるだろうが、景色が変わらないことも一因だろうか。
歩いても歩いても近付いている感じのしない目的地に、私はもちろん、流石のユーゴにも消耗が見られた。
「馬車、やっぱり便利だな。無くなってみるとそう思う」
「あんなの、古臭いし遅いし揺れるしで、全然良いと思ってなかったけど」
「そうですね、やはり徒歩よりもずっと……? ユーゴ、それはもしや、貴方の……」
元いた世界の話をしているのだろうか?
私が首を傾げると、ユーゴは少し歩みを遅くして私に近寄ってくれた。
私に疲れが見えるから、少しでも気を紛らせようとしてくれているのだろうか。
代り映えの無い道中に、少しでも娯楽を、と。
「うん、そう。俺の知ってる車は、馬車じゃなかった」
「エンジン……えっと……仕組みは知らないけど、とりあえずガソリンで……燃料で機械を動かして走るんだ」
「機械仕掛けの車……ですか。燃料で動く……となると、蒸気機関のようなものなのでしょうか」
蒸気機関車なんてもう走ってないよ。と、ユーゴは笑った。
この国はまだあまり機械産業は発達していない。
外国では既に実用化されているものらしいのだが、その技術が国内に入って来た時、残念ながら国は既に新しいものにお金を回す余裕を失っていたから。
そんなまだ半分未来の技術である蒸気機関を、ユーゴはもう古いものだと言って笑ったのだ。
「貴方は本当に、ずっとずっと先に生きていたのですね」
「もしや、魔獣は技術の発展の過程で淘汰されたのでしょうか」
「魔獣を完全に打ち滅ぼすだけの進化が、人類には約束されている……とか」
「……いや、魔獣がいたとかは聞いたことない。妖怪とかがそれなのかな? でも、それだってこんな時代にはいなかった気がする」
こんな時代……とは?
ユーゴの言葉に、私はつい首を傾げてしまった。
もしや、彼はこの国のこの在り方に覚えがあるのだろうか。
そしてその国は、魔獣によっては苦しめられていなかった、と。
「えっと……どうせ分かんない言葉がいっぱい出るから、理解は出来ないと思うぞ」
「その……習った範囲で考えると、ここは産業革命の頃くらいなのかな……って。蒸気機関が出始めたばっかだって言ってたし」
「だとしたら、その頃には神話とか妖怪とかはもういなかったっていうか……」
「産業……魔獣がいることを除けば、この世界のこの国の在り方は、貴方の知るものに近い……ということでしょうか?」
習っただけだから、見てはないけど。と、そう付け加えた上で、ユーゴは小さく頷いた。
なるほど、以前から話を少し聞かされるたびに思っていたのだが、彼の住んでいた世界は、相当未来にあったみたいだ。
少なくとも、今のこの時代が、史学史の一端に収まる程度に。
「……やはり、貴方にはかなりの苦労と不便を押し付けてしまっているみたいですね……」
「別に、それはいいよ。無いなら無いで、慣れたら困らないし」
「それに、こっちに来てからの方が楽しいことも多い」
そう言って貰えると幸いだが……
それからもユーゴは、自分の知っている“この世界に近しい文明”の話をしてくれた。
どうやら彼の世界では、この時代より科学文明が爆発的に成長したらしい。
なんでも、言葉で聞いた限りではまったく理解のしようもない彼の生活から、二百年ほど昔の話らしい……のだが。
か、彼は本当に、どんな時代に生きているのだろうか。
驚きと嘆きとが入り混じった、ふたつの世界の差異と類似点との話で盛り上がるうちに、私達は問題の林へと到着した。
話を始めてからはあっという間だった。
やはり、退屈は負の感情を肥大化させてしまうものだったのだな。
それが取り払われてからは、ずっと笑っていたような気さえする。
「――こほん。ユーゴ、ここからは真剣に……話をしながらでは少々危険かもしれませんから、慎重に進みましょうか」
「ん、そうだな。でも、相変わらず魔獣の気配なんて無いぞ。マリアノもいないし、ここには何も…………?」
……何も?
ユーゴは少しだけ顔をしかめて、しかし歩みを止めることなく林の奥をじっと見つめ始めた。
もしや、何かがいるのだろうか。
それはまさか、外国より運び込まれたという例の組織と縁深いものでは……
「……誰かいるな。ひとりだ」
「うーん……? 前にマリアノがひとりでいたことを思うと、アイツらの仲間が調査に来てる……とかかな?」
「誰か……人なのですか。ならば……ええと……」
ユーゴが感じたのは、人の気配だったらしい。
以前にジャンセンさんから聞いた話を思うと、マリアノさんによって特別に鍛えられた部隊があるというから、そこの誰かなのだろうか。
特別任務――重要である可能性が高いこの地点の調査を、ジャンセンさんかマリアノさん、或いはその両名に命じられて訪れていた……とか。
「……? 声……今の、フィリアじゃないよな? 女の声が聞こえた気がする」
「声……ですか? 私は何も……」
喋っていないし、聞こえてもいない。
こういう時、どうしても彼の感覚に置いて行かれてしまう。
両手を耳に当て、目を瞑って音を探ってみる。
しかし……私ではとても、風に揺すられ擦れる木の葉の音しか――――
「――――? ユーゴ、今何かおっしゃいまし――」
「――? フィリア? 俺は何も……っ⁈ フィリア――っ!」
――声が――
ユーゴの言う女性の声というのがそれかは分からない。
けれど、私の耳にも声が届いた。
女性の――まるで何かを呪うような声。
それが何かは分からなかったが――ただ――私はどうやら、聞いてはならないものを聞いてしまったらしい。
フィリア。フィリア。と、ユーゴの声が聞こえる。
もう、女の声は聞こえない。
けれど……私の意識はどんどん薄くなっていって、彼の顔も次第に見えなくなって――――




