第百三十一話【すれ違う時間】
伯爵とすれ違ってしまった翌日から、予想通り私は仕事に追われるようになってしまった。
気の休まる時も無い……というほどではなかったが、しかし一日を費やして伯爵のもとを訪れるだけの時間は確保出来そうもない。
そんな私に気を遣ってか、ユーゴは自分ひとりで連絡だけでもしてこようかと提案してくれた。
それもやむなしかとも思ったが、私が直接出向かないという無礼を許容して良いものかという懸念もある。
そうして仕事と訪問とのふたつの悩みに挟まれて忙しくしているうちに、かれこれ八日の時間が経ってしまった。
「パール、今日は……今日こそは伯爵を訪問したいのですが、まだ時間は取れそうにありませんか……」
「お言葉ですが、まだ数日は不可能かと」
「お気持ちは理解いたしますが、しかし優先すべきはご公務です」
「陛下が尽力し、ナリッドへの道を拓いたからこそ、今のこの忙しさがあるのですから」
「重大な人物であることは私も理解しておりますが、挨拶や報告であれば、落ち着いてからでも遅くはないでしょう」
社会的に見ればそうなのかもしれませんが……しかし、伯爵に話を聞いて貰うことも、この国を建て直す為の大切な一手であって……
これも公務の内と優先したいのだが、伯爵との会話の全ては他言出来ない。
あの人物の素性も、議会はおろかパールとリリィにすら打ち明けていない。
もっとも、素性などと詳しい話は私も知らないのだけれど。
「フィリア、やっぱり俺だけでも……」
「……そうしたいのはやまやまなのですが……」
伯爵と例の組織についての会話が出来るのは、私とユーゴだけだ。
ならば、彼に頼んでも問題無いように思える。
思えるが……しかし、どうだろう。
王として、責任あるものとして、自らは宮にとどまりつつ使者を送るというのは、確かに当然のことかもしれない。
だが、伯爵と対面している私は女王ではない。
あの人物が私を王として認識していないのだから、そこへそんな無礼を働けば、機嫌を損ねてしまうかもしれない。
「そんな方ではないと、頭では理解出来ているのです」
「出来ているのですが……しかし、一度軽んじれば、関係は必ず変わってしまうものですから……」
あの方との縁が途切れるなどという事態には、絶対になってはならない。
これが女王としての私が出した結論。
それとは別に、やはり尊敬すべき人物を相手に非礼を働きたくないという個人的な感情もある。
「なんにせよ、次に会った時には事前に連絡を取る手段を相談しておきたいものですね」
「向こうからこちらへは手紙を送っていただけますが、こちらから約束を取り付ける方法が……」
「こっちからもコウモリ飛ばせたらいいのにな。なんか無いのか? 伝書バトとか」
調教したとして、ハトやほかの動物が洞窟の中を進んで手紙を届けられるだろうか。
最も単純で最も私達に都合の良い解決策としては、やはり宮で働いて貰うのが一番だろう。
だが、そうはしないとはっきり言われてしまっている。
ううん……どうしてあんな場所にこだわるのだろう。
「バスカーク伯爵について苦心なさるのはそこまでにしてください」
「陛下、今はこちらの仕事を優先していただかねば。まだまだ、やることは山のようにあるのです」
「今日の内にクロープと他の街の造船所への指示書を完成させなければなりません」
「それが遅れれば、運航事業の新規開拓もまた遅れます。遅れは積み上がるほどに大きくなりますよ」
っと、そうだった。
カンスタンの港からナリッドへ向けて船を出す。
街の復興に必要な物資と人材を送り届けるには、この部分のテコ入れは不可避だ。
医者と医療品、それから軍については派遣したものの、補給の度に危険な陸路を行くのでは効率が悪い。
だから、まずはここを決めてしまおう……と、そう話し始めてもう四日が経ってしまっている。
パールもいい加減頭が痛いのだろうな。
「……理解しています……していますよ、私も。ですが……」
ジャンセンさんの言う通り、有志を募って援助金と報酬だけで収めるか。
それとも、多額の資金と人材を投入して、国営事業として安定させるか。
どちらを選んでも致命的な問題に直面してしまう。
悩んでも悩んでも答えなど出なくて、私もパールもそれにリリィも行き詰ってしまっているのだ。
「せめて、彼らの傘下にあった街からだけでも税を徴収出来れば良かったのですが……」
「……そんなわけにはいかないでしょう」
「ウェリズやチエスコの生活が無事に見えるのは、あくまでも希望があるから……ジャンセンさん達によって守られているという安心があるからです」
「その恩は彼らにのみ向けられるもので、それを横からやって来た私達が、義務だなんだとのたまえる筈がありません」
これまで、多額の資金をつぎ込んで解放を進めてきた。
だが……それももう限界が来てしまった。
何度計算しても、もう国には予算が無い。
もしも国営で船を出したならば、ナリッドへの支援を完遂する頃には、もうどこへも遠征に出かけられなくなるだろう。
「……仕方ありませんね。カンスタンからの定期船は、民間に委託することにしましょう」
「その代わり、解放を進め、国が活気付き、税収が増えた暁には、必ず国で買い取って従事者の安全と収入を保証すること。これを条件に加えて募集を掛けます」
「少々背負い過ぎにも思いますが……それが陛下の目指す国の姿だとおっしゃるのならば、私は従うのみです」
民を背負わずして何が国か。と、私がそう息巻けるのも、パールやリリィ、それに宮の役人皆の助力のおかげだ。
呆れた様子で頷いてくれたパールに深く頭を下げて、私はまた書類に並べられた数字ひとつひとつに目を通す。
これだけ多くのことをやったのだと、伯爵に胸を張って報告出来るように頑張らなければ。
それからまた五日経って、私の目の前に積み上げられた仕事にはひとつの段落が付いた。
もっとも、議会からの返事や各地区での募集状況によっては、またすぐに忙しくなるだろう。
だが、一瞬でも暇が出来たのだ。
「エリー、今日もお願いしますね」
「うん! 分かった!」
えへへ。と、エリーは笑って、そして私達が車の中へ入るのを見届けたかどうかも分からないうちに、マルマルさん……馬車馬の手綱を握った。
ああ、いや。毛の色が違う気がするから、この馬はあのマルマルと呼ばれた馬ではないのかな。っと、それはどちらでも良いか。
「はあ。ようやく伯爵に相談出来ます。忙し過ぎて、何を話すのかさえも危うく忘れてしまうところでした」
「フィリアが忘れても俺が覚えてるから大丈夫だ。そういうとこもちゃんと補佐するように言われてるからな」
だ、誰にですか……
パールですか、リリィですか、ふたりともにですか。
それとも……もしや、マリアノさんに……?
或いはジャンセンさんからも言われていたりしないだろうか。
ユーゴの言葉にやや疑心暗鬼になったものの、この十数日の忙しさからの解放は、思いのほか身体を軽くしてくれる。
気分も良くなって、小さな覗き窓から見える景色にも心が躍るようだった。
そんな晴れ晴れした気持ちでのんびり馬車に揺られていると、意識もまばらなうちにまたエリーの声が飛び込んできた。
どうやら私は、いつかのユーゴのようにうたたねをしてしまっていた……のだろうか?
起きていたのか眠っていたのかも自覚出来無いまま、小さくて温かい手に頬を撫でられて目を覚ました。
「フィリア、寝てたの? お昼寝? あはは! ちっちゃい子みたい!」
「エリーが手綱を握ると、眠ってしまえるくらい静かに進むものですから。今日は暖かかったのもあって、つい」
小さい子とエリーに言われるのは……いいや、こんな幼い子の言葉でいちいち心を乱されはしないが。
それはそれとしても、しかし小さい子とは……ごほん。
どうやらユーゴもゴルドーも同じようにくつろいでいたみたいで、ふたりとも大きく伸びをして荷物を降ろし始めていた。
「ゴルドー、また馬車をお願いします」
「今日もまた留守のようなら、書き置きを残して戻りますから。先日は待たせてすみませんでした」
「いえ、それが私の使命ですから。本日もまた、何に変えても馬車をお守りし、女王陛下をお待ちしております」
ですから、何に変えずとも自分の安全を優先して欲しいのですよ……
なんとも堅物なゴルドーに見送られて、私達はまた以前のようにゆっくりと洞窟の奥へと進み始める。
二度目で慣れたのか、エリーはもう不安そうな顔はしなかった。
しばらく雨は無かったから、先日よりも乾いた地面に、到着は少しだけ前倒しに出来た。
しかし、一番奥――いつも伯爵が出迎えてくれる広い空洞に踏み込んでも、誰の影も見当たらなかった。
「また、今日も留守でしょうか。すみません、フィリアです。バスカーク伯爵、おられませんか」
えー、またー。と、エリーはあの時よりも更に苦い疑いの目を私に向ける。
ち、違うのです、本当にここには人が住んでいて、決してエリーを騙したり、からかったりしているわけでは……
「――フィリア嬢――であーる――? よく来たであーる」
「――っ! 伯爵! 良かった、いらしたのですね」
今日もまた留守かと諦めかけた時、聞き馴染んだ特徴的な言葉づかいで名前を呼ばれた。
声は洞窟の中に反響して、いつもより低く、ややくぐもって私達の耳に届く。
それが少し怖かったのか、私に抱き付いたエリーの身体は少々強張っていた。
「伯爵……? あの、どちらにおられるのですか、バスカーク伯爵。本日は報告したいことが――」
「――すまないのであーる。久しぶりの再会を我輩も祝したいのであるが――今日は歓迎してやれんのである」
歓迎出来ない……今日は忙しい、用事があったのか。
もしや、私達のお願いの為に忙しくしているのだろうか。
「今日はお忙しいのですね、分かりました。突然押しかけてしまって申し訳ありません」
「構わんのである。我輩とフィリア嬢の仲である。時間を作り次第、また文を送るのである」
そうしていただければ、その際には必ず参りますので。
私はどこにも見当たらない伯爵に頭を下げて、またエリーを負ぶって伯爵の屋敷を後に――
「――すまないのである、ふたりとも。また――また、会える日を心待ちにしているのであーる――」
「――? はい、私もその日を楽しみにしております」
伯爵……だったのだろうか。
今の声は、本当にいつもの陽気な伯爵の声だったのだろうか。
違和感と、そして何とも言えない寂しさのようなものに後ろ髪を引かれながら、それでも私は真っ直ぐに洞窟の出口を目指した。
忙しそうだから、邪魔をしてはいけないから。そう自分に言い訳をして。




