第百三十話【留守】
馬車はいつもよりずっと静かに進み、伯爵の住む洞窟の近くに停車した。
相変わらず馬の扱いが上手だな、エリーは。
そんな彼女が、さっきまでの静けさ、落ち着きを打ち破って、車の中へと飛び込んでくる。
「フィリア! 着いた! ます! どこ行くの!」
「落ち着いてください、エリー。今日は凄く偉い方に会いに行くのです。なので、いつもより少しだけ静かにしていないといけません。出来ますね」
私の願いに、エリーは両手で口を覆ってこくこくと頷いた。
ここで待っていろ。と、そうお願いするのはもう諦めた。
すごく嬉しそうに、楽しそうに私の手を引く姿に、留守番を頼むのはあまりにもかわいそうだと思ってしまって……
「では、馬車の見張りをお願いします、ゴルドー」
「今日お会いする方は……ええと……気難しい人物でして。あまり人と会いたがらないのです」
「決して、貴方がふさわしくないという意味ではなく、機嫌を損ねる可能性を少しでも減らしたいだけなのですよ」
「はい、承知しております。ですが……ならば、エリーはここで待たせた方がよろしいのではないでしょうか」
それが可能ならばそうしています。と、私は言葉にせず彼に念を送った。
そして、悲しいかなそれはあまりにもあっさりと理解されてしまったらしい。
以前のクロープ訪問にも同行してくれたゴルドーは、エリーがどういう行動を取るかを知っているのだろう。
そうでなくとも、そもそもは同じ組織で働いていたのだし。
「では、馬車は必ずお守りします。どうかご無事でお戻りください」
「はい、必ず。では行きましょう、エリー。ユーゴも、今日はいつもよりゆっくりお願いしますね」
はいはい。と、ユーゴは呆れた顔で私とエリーを見ていた。
エリーは洞窟の中へ入るのに少々抵抗を感じているみたいだったが、私が負ぶっていくと伝えれば、嬉しそうにくっ付いて来た。
「もしかして、暗いのは怖いですか? なら、ゴルドーと共に馬車で待っていても……」
「ううん、平気。ます。だけど、こういうとこは入っちゃダメってみんな言うから」
エリーは少しだけ不思議そうな顔で、私とユーゴとを交互に見ていた。
危ない場所に入ったらいけないんだよ、だろうか。
確かに、洞窟というのは、たいていの場合で危険だ。
魔獣が住処にしている可能性も高いし、そうでなくても獣や毒蛇が出る可能性も高い。
そもそも暗くて足下も悪い、崩落の危険だってぬぐえない。
「はい、本当はこういう場所には入らない方がいいです」
「今回はどうしても、この奥に住んでいる方に用があるので、特別に許可を貰っているのですよ」
許可など誰にも取っていないが、まあこればかりは方便というものだ。
エリーはまだ幼い。大人の真似をして生きていく歳だ。
それを、私が悪い見本となってはいけない。
無断で入ってはいけないという前提を強調して、この子がどこかで無茶をしないようにしないと。
「こんなとこに誰か住んでるの? です? 危ないのに?」
「はい、そうなのですよ。その方は……ええっと、洞窟や魔獣についてすごくすごく詳しい方でして」
「危ない場所だからこそ、しっかりと調べたうえで上手に使えないものかと苦心……頑張っているのです」
変な人だね。と、エリーは困った顔でそう切り捨てた。
まあ……変な人物であるのは否定出来ない。
だが、私の作った建前の所為であの人物を勘違いされるのは、いささか心が痛むな。
「エリー。この先は暗いですし、天井も低くなっています。頭を下げて、じっとしていてくださいね。ぶつけると痛いですよ」
「はーい。フィリアも気を付けてね。です」
やはり人を気遣える優しい子だな、エリーは。
ぎゅっと抱き付いて首をすぼめた彼女の手を撫でて、私はユーゴに先導して貰って洞窟の中を進み始めた。
もう道は覚えているが、しかし今回はいつも以上に転ぶわけにはいかない状況だ。
ゆっくり、慎重に進もう。
「こうなると、こちら側に道があったことは大きいですね。エリーにはあの湖は越えられないでしょうから」
「湖? 洞窟なのに、湖があるの? ます?」
ええ、地底湖があるのですよ。この洞窟の奥の方には。
私がそう言うと、エリーはちょっとだけ鼻息を荒げた。
もう顔は見えないけれど、きっとわくわくして目を輝かせているのだろう。
或いは、そんなものが本当にあるのかと首を傾げているかな?
「フィリア、あんまり無駄話するなよ。足下、濡れてるから滑るぞ」
ユーゴの忠告通り、足下はランタンの光を浴びてちらちらと照り返っていた。
こういう場所は、一度雨が降るとしばらく水浸しになってしまう。
奥へ進めばもっと滑るようになるだろう、気を付けて進まなければ。
いつもよりゆっくり。出発前に決めたそのゆっくりよりも更に慎重に進み、私達は伯爵の住む最奥の部屋……空洞にまで到着した。
したのだが……
「伯爵。バスカーク伯爵、おられませんか。フィリアです」
いつもならば出迎えてくれる陽気な声が、今日は待っても呼び掛けても聞こえてこない。
エリーがいるから出てこない……のではなく、今は留守なのだろうか。
「なんだよ、いないのか。タイミング悪いな、アイツ」
「まあまあ。あの方にも生活があるのですから」
「買い物にも出ているとのことでしたし、少し留守にしていてもおかしくはありませんよ」
どうしたの? と、エリーはまだ首をすぼめたまま私の顔を撫でた。
もう顔を上げてもいいかの許可を待っているのだろうか。
素直ないい子だなと、何度も何度も思ってしまう。本当に愛らしい子だ。
「エリー、今は顔を上げても大丈夫ですよ」
「といっても、ここには何もありませんし、暗くてあまり見えないかもしれませんが」
どうやら出かけてしまっているらしいと伝えると、ここに人が住んでいるという事実がいまいち理解出来無いらしくて、エリーはきょろきょろと周囲を見回し始めた。
まあ、そうなるのが自然か。
「どこにおうちがあるの? まだ着いてないのに、いないって分かるの? それとも、いなかったからもう帰るとこなの?」
「ええっと……ここがその人のおうちなのですよ。暗くて寒いですが、しかし本当に住んでいるのです。不思議ですか?」
嘘だぁ。と、エリーは眉間にしわを寄せてそう言った。
それは初めて見せる表情だったが、この子も人を疑って不機嫌になることもあるのだなと何故か感心してしまった。
「本当なのですよ、私も初めは信じられませんでした。でも、ずっとここで暮らしているのです」
ですが、エリーは絶対に真似をしてはいけませんよ。
その人は本当に特別で、ここでしか出来ないことの為に離れられないのです。
そう説明しても、エリーはまだ私を疑ったまま周囲を見回していた。
「テーブルが無いよ? 椅子も無いよ? 窓も無いし、ベッドだってどこにも無いよ? ねえ、本当にこんなとこに誰か住んでるの? です?」
「そう……なのですよね。食事を摂るテーブルも無い、眠る為のベッドも無い」
「果たしてここで、あの方はどうして暮らせているのでしょうか……」
おい。と、ユーゴに頭を叩かれて、お前まで巻き込まれるなと怒られてしまった。
い、いけない。エリーの純粋過ぎる疑問に引っ張られて、見て見ぬふりをしていた疑問に私も取り込まれてしまっている。
「カスタードはそもそもおかしいやつなんだから、こんなとこに住んでても変じゃないだろ」
「むしろ、アレで普通の家に住んでたらそっちの方が気持ち悪い」
「な、なんてことを言うのですか、貴方は。もう」
しかし……なんとなくユーゴの言葉に納得してしまう自分がいた。
た、確かに……伯爵が普通の屋敷に暮らしているところを想像出来ない。
初対面ならば……いや、もう少し面識の浅かった頃ならば違っただろう。
だが、もうすっかりこの場所とあの人物が強く結びついてしまっている。
「で、どうする。待つか? プリン買いに行ってるだけなら、そのうち帰って来そうだけど」
「そうですね。せっかく訪ねたのですから、少しだけ待ってみましょう」
えー、本当にこんなとこに人が住んでるのー。と、エリーはまだ私を信じてくれない。
となると、こんな暗くて何も無い場所で待たされるのは、この子にとっては大きなストレスになってしまうだろうな。
あまり長い時間は待てないか。
「では、その間に手遊びでもしていましょうか。エリーは何か知っていますか? たとえば……」
「そんな歳じゃないもん。フィリアは子供だね」
ぐぅぅ……
侮ったわけでも子供に見過ぎたわけでもなかったつもりだったが、あまりにもそっけない態度が胸を抉る。
気を遣ったのは私の勝手ではあるが、普段の人懐っこさとのギャップに泣いてしまいそうだ。
それから私達は、雑談をしながら伯爵の帰りを待った。
だが、エリーが眠ってしまって、ランタンの燃料がぎりぎりになって、遂には帰らなければならなくなっても、伯爵が姿を現すことは無かった。




