第百二十三話【ナリッドという場所】
今朝もやはり、私はユーゴの声で目を覚ました。
いつまで寝てるつもりだ、と。そんな言い方をされたから、うっかり寝坊してしまったのかと飛び起きたものだ。
「……ま、まだ外も暗いではありませんか。もう」
「早くから準備するんだろ。お前の仕事が終わらないと外に行けないんだから、さっさとしろ」
私を急かすばかりのユーゴだったが、しかしどうにも……あくびをしたり、うつらうつらと舟をこいだりと、眠たそうと言うか、明らかに寝不足に見える。
「あまり眠れなかったのですか? そんなに期待していた……のですか? それとも、もしや緊張があるでしょうか」
「貴方とて、完全に見知らぬ土地での戦いには、不安を覚えて当然ですから……」
私の問いに、ユーゴはむっとして顔を背けてしまった。
不安なんて無い。と、そう言いたいのだろう。
しかし、そんなところで意地を張っても仕方が無い。
弱みを見せることは弱さの証明ではないのだし、怖いという感情は恥ずかしいものでは……
「お前のいびきがうるさかったんだよ。いいから早く支度して出てけ、俺はちょっと寝るから」
「っ⁉ い、いびきなんてかいて……か、かいているのですか……? 眠れないくらいうるさいいびきを……」
いいから! と、ユーゴは私を馬車から追い出して……ま、待ってください、まだ荷物がっ。
しかし……そうか、私はそんなにも寝相が悪かったのだな……っ。
ユーゴに出会ってからというもの、どんどん自分の悪い面が浮き彫りになっていく感じが……
「……おい。俺に手伝えることあるか?」
「ユーゴ……そうですね、書類の整理をお願い出来ますか」
「リリィも褒めていたのです。ユーゴは几帳面だから、細かい仕事を安心して任せられると」
出ていけ。と、そう言ったばかりのユーゴだったが、私が立ち去るのを待つことも無く馬車から降りてきた。
私をひとりにするのは心配……か。相変わらずの甲斐甲斐しさだ。
「ですが、休める時間があれば休んでくださいね」
「魔獣の数は予想することも困難なほどです」
「ジャンセンさんは私に無傷で帰れとおっしゃいましたが、私以上に危険に晒され、私以上に欠かせない存在なのです、貴方は」
「万全でないのならば、今日は休息に充てると言っても、誰も文句は言いませんから」
「万全じゃなくても余裕だし、そもそも万全だ。でも……まあ、ちょっと眠いから。どっかで横にはなる」
素直なのか素直じゃないのか。
言うことは聞くのだが、どうにもひと言入れないと気が済まない。
そんなユーゴと共に、まだ白み始めたばかりの空の下、街の中へと足を運んだ。
昨日は暗かったし、それに時間も無かったから、しっかりと見て回れなかった。
今日はまず、守るべきものをしっかりとこの目に焼き付けなければ。
「それにしても、本当に意外と言うか……国からも誰からも守られること無く、よくぞこれだけ残ってくれていましたね」
「他の街と連携を取っていた……のは間違いないでしょう。単独では、とても物資を揃えられませんし」
少なくとも、ジャンセンさん達はそうしていた。
そうしなければならないと判断し、ジャンセンさんはあちこちの街を繋げて物資を融通し合っていた。
その上でもまだ足りなかったからこそ盗賊行為を働いていたのだから、この街の状況は奇跡的なものに他ならない。
「……フィリア、一応顔隠しとけ。起きてるやついるな、もう。働き者……なだけじゃない気がする」
「警戒されている……と。そうですね、私達は突如やって来た余所者ですから、疑われて当然でしょう」
しかし、顔を隠すのは不要だ。
そもそも、この街が最終防衛線の外に切り出されたのは先王の代の話。
誰も私など知らないとしてもおかしくない。
変に隠せば疑われる。
堂々と、けれど謙虚に振る舞おう。
「……そういえばさ。ここ、海が近いんだよな。港がどうとか言ってたけど」
「ええと……近いと言うと少々語弊がありますが、街の東端は港に面しています」
「ここからでは距離がありますが、街そのものは海に近い街ですね」
それでなのかな。と、ユーゴは久しぶりに湧き上がる好奇心を瞳に宿し、きょろきょろと辺りを見回したり、背伸びをして遠くを眺めようとしていた。
あまり目立つ行動は……まあ、このくらいなら問題にならないか。
「海のニオイ……ウェリズにはちょっとあったニオイが、ここにはあんまり無い」
「後で地図見せてくれ。もしかしたら、俺が何かを察知出来る範囲が分かるかもしれない」
「魔獣やジャンセンさん達を感知する能力は、嗅覚と結びついているかもしれない……と?」
先にニオイを感知して、しかしそれが何なのかを彼の脳が判断するよりも先に、本能的な部分で答えが出る。
だから、彼にはそれが何故なのか、何によるものなのかが分からない。そう言いたいのだろうか。
「地図ならちょうど持ち歩いていますから、確認してみましょう。何ごとも早いに越したことはありませんから」
もしこれで、彼の能力がその手中に収まってくれるのならば。
その時にはきっと、これまで以上の活躍を見せてくれるようになる筈だ。
原理は分からないが、とにかく理解が出来る。
そんな不安定なものでは、彼も自身の力に信頼を持てない。
だが、それを噛み砕き、飲み下したのならば話は変わる。
未知の能力に根拠が付けば、可能と不可能の線引きがはっきりするのだから。
「……ここがウェリズだったよな。で……今ここか? 距離は……あんまり変わんないのか」
「ええと……そう、ですね。いえ、少し……ここはナリッドの西端…………ここです、この林の…………あれ」
期待を込めて地図を覗き込んでいた私達は、揃って首を傾げて顔を突き合わせてしまった。
思っていたのと違う答えに、ふたりとも混乱してしまったのだ。
「ウェリズの方が遠い……? あっちより海に近いのに、なんでニオイが分かんないんだ?」
「ここが盆地になっている……わけでもありませんし、むしろウェリズは海との間に林が在りましたから、ニオイが届きにくいというのならばあちらの方が……」
風向きの関係だろうか。
こちらは東、あちらは西。風が西から東へだけ吹いているのならば、それで理屈は通るだろう。
だが……だが、海からは潮風が吹き込んでくる。
事実、今この街で肌で感じる風は、東から西へと流れているではないか。では……
「海からのニオイをかき消すものがある。或いは……」
「やっぱりニオイじゃない……俺が海のニオイだと思ってたものが、実は全然違うものだった……とか」
勘違い。海が近いという前提条件を教えられていたから、別のニオイをそれと勘違いした……とか。
しかし、もしもそうなら、海を目の前にした時に気付くだろう。
「……やっぱりアテにならないな、この力。何かが来る時には便利だけど、こっちから何かしようとした時は……」
「あ、アテにはしています。していますが……そうですね」
「貴方の言う通り、こちらから手を打つと思った時にばかり、理由も不明なまま機能不全を起こしているみたいで……」
ちぇっ。と、ユーゴは地図をくるくると丸めて拗ねてしまった。
けれど、それが全てではないのは見ていれば分かった。
拗ねていたし、がっかりもしていた。
だが、楽しそうにも見えた。
きっと、自身の内にあるものに対しての興味が強まってきているのだ。
「いつか貴方がその力の全貌を把握した時、いったいどうなってしまうのでしょうね。今でもずっとずっと頼もしいというのに」
「別に、変わんないだろ。やれることは変わらないんだから」
その折にはきっと、ユーゴは指導者としての資質を花開かせるだろう。
根拠のある能力は、誰かに伝えることが出来る。
もしも同じように感知出来る人が他にいないとしても、感知する道具や手段が発達すればそれを代用出来る。
そうなれば、彼はそれを活かすアドバイスをしてあげられるのだから。
私とユーゴはしばらく街の中を散歩して、その光景をゆっくりと噛み締めた。
多分、この街には市場というものは無い。
全員が全員同じものを食べて生きている。
そうしなければ耐え切れない。格差などを生んで争っている余裕など無いのだ。
「……もしそうだとしたら、早くに到着出来て良かった」
「ひっ迫した平等は、必ず不平等を生みます」
「そうなってしまえば、人はもう手を取り合えない。そうなる前に辿り着けて本当に良かった」
飢えていれば食物を独占したくなる。
それは悪ではない、自身の生存を尊ぶことが悪であってはならない。
だが……そうして生まれた軋轢は悪だ。
悪が入り込めば、平等は誰の目にも不平等に映ってしまう。
本当に平等だったとしても、誰もがそれを信じられなくなってしまうから。
「ユーゴ、この後は私の手伝いをしなくても構いません。私の作業中、そばで眠っていてください」
「先ほどは後日に回しても良いと言いましたが、すみません、撤回します」
「この街に一刻も早く溶け込み、彼らの生存を報わなければ」
「最初からそのつもりだって、バカ」
街のニオイ、空気、そして人々の生活の証。
そういうものを見ているうちに、ここがランデルとはかけ離れた生活を送っているのだと分かった。
彼らに刺激を与えてはならない。
不平等であるという不満を、ひとかけも与えてはならない。
つらい感情を抱く暇など与えず、ユーゴの力を以って奇跡を起こさなければ。




