第百七話【奇妙な痕跡】
日は昇った。けれど、林の中に差し込む光は随分限られたものだった。
薄暗い獣道を、あまり見慣れない頭の並びが進んでいる。
どちらも見下ろす高さにいるのに、その背中はとんでもなく大きく思えた。
「フィリア、ちゃんと付いて来てるか。勝手にふらふらしたりするなよ」
「この辺はデカい魔獣もいねえ。狼も熊もいねえから、はぐれたって三日は死なねえよ」
そんなふたつの頭が――ユーゴとマリアノさんが、時折こちらを振り向いてはどうにも引っ込む気配の無い毒を吐く。
このふたりは、何故こうも私を誹りたがるのだろうか……
「……なんだか不思議な光景なのに、どうしてか違和感が無いのですよね。何故でしょうか」
私の呟きに、ユーゴはまた苦い顔でこちらを振り返った。
変なことを考えていないで、はぐれないようにしっかり付いて来い……と、そう言いたいのだろうな。
「ところで……その、魔獣は近くにいるのでしょうか」
「私は気配というのを察知したり出来ませんから、こう視界が悪いと……」
安心はしているものの、しかし怖いものは怖い。
このふたりがいて後れを取る魔獣など……ヨロクでの一件では苦戦こそしていたものの、ユーゴはあの頃から更に進化を遂げている。
まず大丈夫だろうと一任してしまえる実績が、目の前の小さなふたりにはあるのだ。だが……
「今のところ、近くにはいないな。ちょっと遠いところにはいそうだけど、そっちに行く予定も無いし」
「街の近くはオレがたまに掃除するからな。そうそう居着きゃしねえよ、魔獣どもも」
そうか、それは良かった。
もっとも、このふたりの大丈夫の基準が、私にとっては大丈夫ではないものの可能性もある。
気を緩めることはしないでおこう。
「それで……ユーゴ、貴方は何を見に行きたいのですか?」
「私はてっきり、強そうな魔獣の気配を感じたから、それと戦いたい……と、そう言い出すものかと……」
「……俺をなんだと思ってんだ」
だ、だって……
いつもいつも、強い魔獣と戦いたい、弱い相手ではつまらないとぼやいているのはユーゴではないか。
どうやら彼にもその自覚はあるらしくて、それ以上は怒ったり拗ねたりはしないでくれた。
「何かは分かんねえ。分かんねえから気に掛かってんだ、オレも」
「分からない……ですか」
「ユーゴも、マリアノさんも、それが何かまでは分からない……ふたりでも分からないものだから、こうして調査をしよう、と?」
そういうことだ。と、ユーゴは小さく頷いてそう言った。
なんとも不安にさせてくれる答えだったが、しかし納得もした。
ここは、マリアノさんにとっては拠点のひとつだ。
近辺にいる魔獣なら、今更何がどうと気にすることも無いだろう。
数が増えていると思えば、何も言わずに自らの手で減らしてしまえるのだから。
「前にヨロクで変なこと起こっただろ。いきなりデカい魔獣が出てきたり、やけにすばしっこい小さい魔獣が出てきたり」
「もしかしたら、あの時にもこういう予兆が出てたのかもしれないと思って」
「魔獣が多過ぎて気付けなかっただけで、やっぱり何かは感じ取れてたとかさ」
「どうだかな。そんな面白いモンでもねえと思うぜ」
だったらお前はなんだと思うんだよ。なんてユーゴが噛み付いたから、マリアノさんは、どうせ下らない、時間の無駄だったって思わされる程度のモンだと笑った。
今までに見た中で、一番……なんと言うのだろう。
楽しそう――魔獣と戦っている時のギラギラした感じではなくて、のんびりとお茶を飲んで談笑している時の笑顔に思えた。
そんなところを見たことは無いのだけれど。
「下らないものだと思うならなんで行くんだよ。お前もやっぱりゲロ男の仲間だな、頭おかしい」
「ァア? テメエだって気になって寝れなかったんだろうが。バカ女に泣きついてまで連れ出しといて、何言ってやがる」
泣きついてない! と、またユーゴはマリアノさんに噛み付いて、彼女はそれをまた笑ってあしらった。
もしかして、彼女はユーゴをからかうのが楽しいのだろうか。
ユーゴの方も、警戒心は見せるものの、しかしジャンセンさんの時ほど露骨な嫌悪感は向けない。
こちらももしや、知らぬ間に打ち解けていたのだろうか……?
「おい、バカ女。そういう話になってるからな、テメエの命は守ってやる」
「だが、死なねえと分かってりゃわざわざ守ってやる義理も無え。間抜けなツラしてねえで前見て歩け」
「わっ、は、はいっ」
マリアノさんは私がふたりのそばまで追い付くのを確認すると、林の奥の方……少し上った先をじっと睨んでまた進み始めた。
そこに何かが……?
「マリアノさん、この先はいったいどうなっているのでしょうか。このまま樹林が続いているのか、それとも……」
「行きゃ分かるモンをいちいち尋ねんな、殺すぞ」
登った先は丘になってて、そのまま進めば林を抜けて崖に出る。と、乱暴な言葉とは裏腹に、マリアノさんはこの先の地形をこと細かに教えてくれた。
今から向かう先は林の外……か。
「では、やはり魔獣がいる可能性は低そうですね」
「しかし……聞いた限りでは見晴らしも良さそうな場所なのに、いったい何が潜んでいるのでしょうか」
「知るかよ、ンなモン。別に、潜んでるとも限らねえだろうが」
言葉は悪いのだが、しかしマリアノさんは私の疑問にもユーゴの問いにもきちんと答えてくれる。
ジャンセンさんよりも大人で、若者達を指導していると言っていたな。
なるほど、確かに雰囲気はある。
「……マリアノ、一回止まれ。魔獣がいるな」
「気にするまでもねえだろ、この程度。潰して進めば解決だ」
ユーゴは剣に手を掛けて私に停止の指示を出すのだが、反対にマリアノさんは剣を握り直して一目散に走りだしてしまった。
同じように魔獣の気配を感じ取れるふたりでも、優先する行動は随分違うものだ。
もっとも、ユーゴも私がいなければ、躊躇無く魔獣を倒しに走ったのだろうけれど。
「――オラァ! ったく、小せえのがまだいんな」
「おい、クソガキ。ゴミは無視してさっさと調べて帰るぞ。この程度なら、うちのバカどもに任せても平気だろ」
「分かった。フィリア、一応気を付けろよ。転ぶなよ、止まるなよ、どっか行くなよ」
私は子供ですか。なんて反論する暇も無く、先行するマリアノさんを追い掛けて、私もユーゴもまだ滑る泥の地面を走り出した。
マリアノさんが倒した魔獣は確かにどれも小型で、昨日見た若者達の腕前なら問題無く対処出来そうに思える。
しかし……
とりわけ危険な魔獣がいる様子も無い。
しかし、魔獣が全くいないわけでもない。
私から見ると、ここは本当にどこにでもある林のようにしか思えない。
ふたりはいったいここに何を感じているのだろうか。
「――マリアノ、動いたぞ。ちょっとペース落とせ、逃げられるかもしれない」
「だったら逃げる前にとっ捕まえればいいだろ、ボケ。さっさと来い」
問題に対するふたりのアプローチが正反対過ぎる。
ユーゴも大概無鉄砲と言うか、無茶をしがちだと思っていたのだけれど。
マリアノさんのそれは、彼の比ではない。
見ればその背中は既に遠くなっていて、ユーゴは諦めたようにため息をついていた。
「フィリア、ちょっと急ぐぞ。転ぶなよ」
「こ、転びませんってばっ。私は大丈夫です、貴方も思うようにしてください」
ひとりにしては危険だなんて、そんな心配はいらないだろう。
むしろ、こちらがはぐれてしまうのを危惧すべきだ。
背の高い草を鬱陶しそうに踏みながら、ユーゴは前後を交互に――私をマリアノさんとを交互に確認しながら走り続ける。
置いて行かないように、置いて行かれないように、と。
「っ。マリアノ! 待てって! ああもう、アイツ脚は速いんだよな。フィリア、ちゃんと付いて来いよ」
「は、はいっ」
もう私からはマリアノさんの姿は見えない。
けれど、ユーゴが言うにはもう既に林を抜けてしまったようだ。
そうなると、足場が改善されて一気に距離が離れてしまうかも。
転ばないようにとこれまで慎重に走って来たが、もうそれどころではなさそうだ。
気を遣ってくれているユーゴを追い抜くくらいの気概で、思い切って地面を蹴り付ける。
途中何度か足を滑らせそうになりもしたが、私もやっと林を抜けて、マリアノさんの背中が見えるだけの視界を確保出来た。
そこまで進んでみると、彼女の背中は思っていたよりも近くにあった。
待っていてくれた……わけではなさそうだ。
マリアノさんは何かを踏み付けて、それをじーっと観察していた。
「マリアノ、捕まえたのか。それ……うん? なんだ、それ」
「……なんだろうな。トカゲ……か? まあ、魔獣なんだろうが」
彼女が踏ん付けていたのは、鶏ほどの大きさのトカゲ……のような魔獣だった。
鱗は黒くて、朝日に照らされてところどころ紫に輝いて見える。
爪も牙も長く、見るからに獰猛そうな姿だが……
「これ……なのですか? ユーゴとマリアノさんが感じた違和感は……」
「……多分。これな気はするけど……なんか、見てると違う気もしてくる」
なんて不安な答えだろう。
このよく分からない魔獣について、はてさてどう調べたものか。私とユーゴはふたりして頭を抱える。
「どうもこうも、潰してバラシてみりゃ早いだろ。オラッ」
潰……と、発言の過激さに驚いているうちに、マリアノさんは魔獣をそのまま踏み潰してしまった。
あ、ああっ。もしも血に毒があったりしたらどうするのですか。
それに、危険な魔獣かどうかも分からないうちに、無暗な殺生は…………っ!
「――っ! これは……マリアノさん、足を退けてください。私の眼が変になったのでなければ……っ」
「ァア? なんだ、デカ女。見覚えがあったのか?」
見覚えは無かった。
けれど、それには知っているものが刻み込まれていたのだ。
マリアノさんに踏み潰されることで――その肉を無残にも飛び散らせることで、小さかったその痕跡がうっすらと見えたのだ。
そして、彼女が足を退ければ、その痕跡はありありと浮かび上がる。
「――魔力痕――っ。まさか……この魔獣は、魔術によって作り上げられた……?」
見えたのは魔力痕――魔術による改造の痕跡だった。
私の言葉に、ふたりは少しだけ険しい顔を浮かべ、何かを探るべく魔獣の死骸を睨み付けた。




