第百六話【まだ誰もいない朝に】
声と物音はしばらく聞こえていたけれど、それももう今はどこにも無い。
ジャンセンさんもマリアノさんも、そして砦から付いて来てくれた若者も。誰もが揃って来た道を引き返しているらしい。
往路だけでは見えなかったものを見る為に。
割り当てられた部屋は立派なものではなかったけれど、掃除も手入れも行き届いているのが分かった。
この街にはお客さんが良く来るのだろうか。
答えは……分からないが、しかしそういう理由で綺麗になっているのでもないだろう。
ジャンセンさんからの連絡があって、急いで準備してくれたに違いない。
「……伯爵の時と同じですね、これでは。はあ」
「……? カスタードと?」
そして、そんな静かな部屋の中で、私はユーゴと一緒に窓から外を見ていた。
何か言葉を交わすでもなく、初めて来る街をのんびりと眺めているだけ。
そんな呑気が許されてしまっている。
私はそれを、少しだけ悩ましいと思ってしまう。
「バスカーク伯爵は私達を子供扱いしています」
「未熟である、世間知らずである。そして、守るべきものである。そういう認識を持って、優しく接してくださっています」
「彼らも……ジャンセンさん達もまた、同じように私達を庇ってくださっているように思えて……」
「……まあ、子供扱いはされてるな、カスタードには。でも、あれはアイツが変な奴だからで……」
変ということについては一切否定出来ないが、しかしあの人物は、確かに私達よりもずっと高いところから多くのものを見据えている。
その上で、守ってやる必要があると判断して、これまでに何度も手を貸してくださったのだ。
そしてそれは、ジャンセンさんにも同じことが言えそうなのだ。
「優秀な人間からすれば、私達の歩みはきっと悠長で遠回りなものなのでしょうね。見ていてあくびが出るくらいに」
「けれど、そんな私が女王だから……この国の未来を決めるものだから」
「見るに見かねて、手を貸さざるを得ない……と、そういうことなのでしょうか」
こんな情けない王に任せていては、国はすぐにでも潰れてしまう。
そんな焦燥感から手を差し伸べてくださったのではないか。
それがどれだけ無礼な考えかと自分を戒めるのだが、しかしどうしても頭から離れてくれない。
自分の不出来の所為で、彼らに無駄な負担を掛けてしまっているのではないか、と。
「そんなに凄いと思わないけどな、カスタードもゲロ男も。そんな風に嫌々手伝ってる感じも無いし」
「そう……でしょうか……」
しかし、それもまたユーゴが特別だから……優秀な人間だから、そういう風に思えるだけ……なのではないか。
そもそも、ユーゴだって私に対して守ってやろうという意思を見せてくれるのだし。
やはり、私だけが……
「……フィリアってやっぱり王様っぽくないよな。もっと偉そうにしてればいいのに」
「お前、バカみたいに呑気な割に、たまにネガティブだよな」
「ば……いえ、言いたいことは分かります。私も楽天家である自覚はありますから」
以前はそうでもなかったのだけれど、ユーゴにも何かある度に間抜けだ呑気だと言われていては、流石に実感も得るというものだ。
宮の中の狭い世界から飛び出してみれば、私はとにかく周りと歩調の合わないのんびりとした性格だったのだ、と。
それを咎められることも、気付かされることも無かったのだと嘆くのは、パールやリリィに申し訳無いからしないようにはしているが……
「はあ。休むように言われたというのに、勝手に気を揉んで疲れていては意味がありませんね」
「ユーゴ、今日はもう休みましょうか。明日、きっと彼らの役に立って……貴方はずっと活躍していますね。はあ……」
「お、おう……別に、フィリアだってやることはやってるんだから、そんな後ろ向きにならなくても……」
うっ……ゆ、ユーゴに励まされると、遂にこんな子供にも気を遣わせてしまったのかと思ってしまう……
彼を侮っているという意味ではなく、普段から厳しい言葉を使う彼に……という意味で……
私の落ち込み具合が相当なものに見えたのか、ユーゴは凄く心配そうな顔のまま私の部屋を後にした。
早く寝ろよ、変に考え過ぎるなよ。と、そんな言葉だけを残して。
気を……遣わせてしまっている……
「……っ。いけませんね。浮かれていたのです、だから気落ちしてしまうのですよ」
ぱちぱちと両手で腿を打って、大きく深呼吸をしてベッドに入った。
ようやくひとつの問題が解決した、それどころかとても頼もしい仲間が出来た。
そんな達成感に浮かれているから、こうした細かいところで落ち込んでしまうのだ。
ユーゴが来たばかりの頃と違って感じるのは、私が彼に気付かされたからだけではない。
彼に甘え、他の人々に甘え、堕落してしまっていたからだ。
ぎゅっと目を瞑って、私は自分への戒めの言葉をいくつも浮かべながら眠りに落ちた。
きっと明日は……と、そう誓いを立てて。
今朝は水の音は聞こえなかった。
けれど、やはりユーゴの声で私は目を覚ます。
もしかして、打ち解けて距離が縮まったのではなく、布団に絡まって窒息死していないかなんて、突拍子も無い不安に駆られてやって来ているのでは……と、そんな風に思ってしまうくらい心配そうな顔で、彼は私が起きるのを待っていた。
「……おはようございます、ユーゴ。その……だ、大丈夫ですよ……? 私は何も問題は……」
別に何も言ってない。と、ユーゴはそう言ってそっぽを向いてしまった。
どうやら、一晩経って私が元に戻ったのだろう。
彼もいつも通りのそっけない態度で、なんとなく安心してしまう。
「……っと、まだ日も昇っていなかったのですね。昨日は随分早くに休ませていただきましたから、おかしな話ではありませんが」
「まだアイツらは起きてないだろうな。どうする、ちょっと外出るか?」
その提案は、むしろ彼がそうしたいからなのだとすぐに分かった。
さっきまで不安そうな顔をしていた少年が、そわそわとしながら窓の外をちらちらと見ている。
私には、遠くに白い雲があるだけで、他はほとんど暗い闇が広がっているだけにしか見えない。
しかし、彼の視力では、それ以外のものも見えているのだろう。
「皆が……特に、マリアノさんが起きるよりは前に帰ってくるようにしましょう。勝手な行動をすれば、怒られてしまいかねません」
「……お前、やっぱり呑気だよな。まあ、その方がフィリアらしいっちゃらしいけど」
ユーゴはそう言ってすぐに部屋を出て行った。
自室に戻って出掛ける準備をするのだろう。
昨日、窓からよほど興味深いものが見えたのだろうか。
それとも、調査に行けなかったのが不服だったのか。
どちらにせよ、待たせては不満を買ってしまう。私も急いで準備をしなければ。
身支度をして部屋を出ると、そこには既に剣を携えたユーゴの姿があった。
もしや、魔獣を倒しに行くつもりなのか。と、そう問えば、一応持ってくだけだ。と、答えてくれる。
この街は安全かどうかもまだ分かっていない。だから、念の為。
そんな言葉が示す、安全ではないというものには、きっと魔獣だけが含まれているのではないのだろう。
「ゲロ男は何するか分かんないからな」
「ここはアイツらが纏めてる街だし、剣持ってるくらいじゃ驚かれないだろ。だから、持っていけるなら持っていく」
それだけ言って、ユーゴは私を背中で引っ張るようにずんずんと歩き出した。
なんとなく楽しそうに見えるから、やはり面白そうなものを見付けたのだろうな。
まあ……今までに語られた彼の面白いの基準、つまらないの基準を考えると、あまり安心は出来ないのだけれど……
「ユーゴ。楽しそうにしているのは良いのですが、マリアノさんが起きるよりは前に戻るのですよ。きっと良い顔はされないのですから――」
「――オレがなんだって、このバカ女」
――っっ⁉︎ 部屋を出て、廊下を進んで、そして建物から出た時、私とユーゴは悲鳴も上げられないくらい驚かされてしまった。
噂をしていたマリアノさん本人が――よりにもよって、勝手な行動に一番厳しそうな彼女が、私達の進む先、建物の出入り口のすぐ外で待っていたのだ。
いや、これは……
「み、見張りをしていらしたのですか……っ⁈ 昨日あれだけ歩き回った後だというのに……」
「別に、ずっとじゃねえからな。一晩寝なくちゃならねえのは、テメエらみてえな弱っちい奴だけだ」
まるでこちらを少数派のように言うのはやめていただけないだろうか……
マリアノさんは眠たそうな顔も疲れた顔もせず、私達をぎろりと睨み付けている。
外見は小柄で、幼い少女にさえ見えるのに、魔獣のそれよりもずっとずっと威圧感のある眼光に、足が縛られてしまった気分だった。
「……マリアノ、お前どこにいた……? ずっとここに……? でも、気配なんて……」
「アァ? 見張りが気配消さなくてどうすんだ、ボケが。クソガキ、テメエもデカ女に毒されてンじゃねえのか」
私と同じように驚いていたユーゴは――本来ならば何ごとにもなかなか驚かないだけの察知能力を持つ彼は、マリアノさんの言葉にため息をついていた。
彼が何かを見落とすのはこれで二度目。
ジャンセンさんに続いてマリアノさんにまで……と、落胆しているのだろう。
しかし……ユーゴの感知を潜り抜けるほど気配を消す……というのは、そもそも気配を感じ取れない私では、何がどうなっているのかも理解出来そうにない。
「で、テメエらどこ行くつもりだ。まさか、たったふたりで工事でもしようってか」
「違うよ。来た方とは別の、街の外の林。あっちが気になったんだ」
あっち。と、ユーゴはまだ真っ暗な空を指差してそう言った。
しかし……林ということは、やはり魔獣が絡んだ問題なのでは……
「……やっぱりテメエは特別みてえだな。オレも昨日気に掛かってたとこだ、調べに行くなら案内してやるぜ」
「っ! ほ、本当ですか? ありがとうございます、マリアノさん」
付いて来い。と、マリアノさんはそう言って私達の前を歩き始める。
お、怒られなかった。絶対に怒られると思っていたのに、むしろ手を貸して貰えるなんて。
しかし……彼女も乗り気ということは……やはり……
真っ暗な街の中を進み、私達は朝日が影を作る頃に林の手前へと到着した。
この奥に何かある。
ユーゴとマリアノさんのふたりが揃ってそう感知したということは、まず間違いなく何かがあるのだろう。
視界の悪さに不安はあるが、しかしこれ以上無く頼もしいふたりと一緒に、まだ足下のぬかるむ樹林へと踏み入った。




