第百四話【その背中が意味するもの】
馬車は激しく泥水を跳ね上げながら南へ進み、ぬかるみに嵌まることも無く砦へと到着した。
もうカンビレッジの街は見えないが、しかし地図の上ではまだそう呼ばれる範囲にいる。
私達はこれから、歩いてチエスコという街を目指すのだ。
「おら、お前ら。さっさと隊列組め、死んでも女王様をお守りしろ」
「なんかあったら全員もれなく首が飛ぶぞ。しゃきしゃき動きやがれ」
そうとあれば、当然準備は十全にしなければならない。
先の砦から付いて来た若者の他に、この砦からも新たに七名が加わって、私達を取り囲むように十一名の男が列を組んだ。
「ユーゴ、お前はフィリアちゃんから離れるな。んでもって、そこから魔獣の気配を探り続けろ」
「で……後ろの指示をお前が出せ。俺に言うのは嫌なんだろ」
「……分かった。お前の言う通りにするのは嫌だけど、確かにそれが一番良さそうだからそうしてやる」
私達……というのは、私とユーゴと、そしてジャンセンさんの三人だ。
その三人の前方に三名。左右に二名ずつ。後方に四名。
更に隊列の先頭に、ひとり飛び出す形でマリアノさんが剣を担いで立っている。
軍の演習にも何度か顔を出したことがあったが、それと変わらないだけの隊列が組まれているだろう。
「こんなこともやっていたのですね」
「いえ……これだけのことをやっていたからこそ、今まで魔獣を相手に人々を守ってこられた……ということでしょうか」
「お褒めに預かり光栄です……って言いたいとこだけど、あんまり見てくれに騙されないでね」
「姉さんはともかく、今日いるコイツらは特別な訓練なんて受けてない。付け焼き刃で形だけ揃えさせただけ」
「なんかあれば簡単に崩れるだろうから、もし隙間が空いてもパニックになんないでね」
ジャンセンさんはそう述べた上で、またユーゴに忠告じみたことを告げた。
何があっても私から目を離すな。
交戦するまでは察知と指示に専念。
ぶつかった後は私を守ることだけを考えろ。
決して、飛び出して戦おうとするな、と。
「言われなくても、わざわざお前らを守ってまで戦うつもりは無いよ。もし邪魔なら、お前なんて蹴飛ばしてやる」
「お前なあ……はあ。ま、そんだけ言えるなら緊張なんて無いよな」
そんなもの最初からあるわけ無いだろ。と、ユーゴはふんふんと鼻息を荒げてジャンセンさんに食って掛かる。
その関係は確かに不信という形なのだが、しかしお互いにお互いを信頼はしている。
そういう形を知っているから、多少は安心出来なくもないが……
「ユーゴ。あまりそういう言い方をしてはいけませんよ」
「ここにいる皆は、ジャンセンさんの人格と能力に惹かれて集まっているのです」
「それをそんな貶すような言い方をすれば、気分を害してしまいます」
「あっはっは。そんなのフィリアちゃんが気にしなくていいよ」
「そもそも、社会的に俺がどう扱われるかなんてのは、とっくにみんな知ってんだ」
「今更こんなガキひとりの言葉で変わんないよ」
ジャンセンさんはそう言ってユーゴの頭を撫でるが、やはりそれはばしんと叩き落されてしまう。
子供じゃない。と、ユーゴはまたむきになって彼を睨むが……
「そんじゃ、お前らはコイツの言うことちゃんと聞けな」
「姉さんと同じ、頭のおかしい怪物だ。コイツが来るって言ったら、魔獣は必ず来るもんだと腹括っとけ」
「頭がおかしいのはお前とマリアノだけだ。もし魔獣が出てもお前を盾にするから、誰も身構える必要なんて無い」
……なんだかんだと仲が良さそうに見えてしまうのは、これまでのふたりのやり取りをずっと見てきたから……だけだろうか。
周りの男達も、ユーゴに対して嫌な感情を抱いている様子は無い。
或いは、私だけでなく皆に感じられるほど、このふたりの間にはしっかりとした信頼関係があるのだろうか。
「ジャンセン、出ンぞ。テメエらもちゃんと付いて来いよ。はぐれても探さねえし、食われても弔わねえからな」
「はいはーい、後ろは任せて。そんじゃお前ら、気合入れてけよ」
この徒歩での遠征の目的は、チエスコまでの道を完全に拓いてしまうことにある。
かつて作られた道路は、魔獣の増加に伴って自然へと還りつつあって。
ジャンセンさん達が現在使っている道は、それを無理矢理踏み歩いて出来た獣道程度のものだ。
隊を送り込めるだけの広い道を繋ぎ直す為に、魔獣を倒して安全を確保する。
「フィリアちゃんはもうちょっとリラックスしてていいからね」
「というか、守られる側は出来るだけ楽にしてて。いざって時危ないからね、ガチガチになられちゃうと」
「ま、どんな状況でも守ってみせるけどさ」
「は、はい。ありがとうございます」
リラックス。と、ジャンセンさんは笑ってそう言ってくれるが、しかし……っ。
隊はゆっくりと動き始め、そして次第に早歩きくらいの速度で進み続ける。
悪路に加えてこの人数だから、マリアノさんを先頭にしていてもこれ以上の速さでは進めない。
だが、私の心臓を逸らせるものは、この焦れるような進行速度ではない。
「……ま、無理も無いか」
「ユーゴ、お前も一回深呼吸しとけ。もうあんなことは無いし、あったとしてもお前なら大丈夫だろ」
「この距離なら、合図する暇も無く殺せる筈だ」
「――っ。分かっててそこに立ってんのかよ。やっぱりお前、頭おかしいやつだな」
私の胸を冷たくするものは、他の何よりもユーゴのかもす緊張感だった。
無理も無い……と、ジャンセンさんの言葉に、私も全く同じ言葉を連ねてしまいそうになる。
この状況は――ジャンセンさんとマリアノさんがいて、そしてその部下の男が私達を取り囲んでいる状況は、いつかの出来事を――裏切りを思い起こさせてしまうから。
「……ユーゴ。顔色が悪いですよ。ほら、水を飲んでください」
「大丈夫です。ジャンセンさんは私を試そうとしただけ。そして、もうその試験は終わったのですから……」
「うるさい。別に、そんなの気にしてない。喉も渇いてない、うるさい」
どうにもぴりぴりしたままのユーゴの様子に、ジャンセンさんも苦い顔を浮かべたままだ。
ユーゴの中にある苦い思い出は――あの出来事によって掘り起こされてしまった過去の恐怖は、相当に根深い問題らしい。
それを打ち明けてくれ……とは言わないが、しかしつらいなら頼って欲しいとは思ってしまう。
「……魔獣、来るな。前の方。でも、これくらいはマリアノなら問題無い」
「ん、どうやら勘は冴えてるままみたいだな。姉さんも同じもん見付けたらしい」
ユーゴの言葉に、若者達は少しだけ身構える。
そして、それから数十歩歩いたところでマリアノさんが剣を大きく振りかぶったのが見えた。
鳴き声も無ければ荒い息遣いも聞こえなかったが、それはばちゃばちゃと水しぶきを上げながら林の陰から飛び出してきた。
「――オラァア――ッ!」
魔獣の姿が私の目に映った頃には、既にマリアノさんの大剣が血に塗れていた。
ユーゴの言う通り、魔獣は前方から現れて、そしてマリアノさんひとりの力で全て切り払われた。
魔獣を見付ける感覚に狂いは無く、同時にそれがどれだけの戦力かを判断する冷静さにも陰りは無い。
だが、それでもユーゴの表情は晴れない。
いつもの澄ました顔すら浮かべられずに、額には汗をかいていた。
それからしばらく、私達は何度も魔獣に襲われながら道を進み続けた。
しかし、その間にも私達は――十一名の隊も、私とユーゴも、ジャンセンさんも、列を乱すことはおろか、剣を抜くことも無く進み続けられた。
現れる魔獣の全ては、マリアノさんひとりの手によって打ち払われる。
私達が通るよりも少し前に、道は奇麗に掃除されていた。
「……また来る。やっぱり、数はそこそこいるんだな。でも、どれも雑魚ばっかだ」
「姉さんのとこにばっかり来る辺り、知能も低けりゃ危機感知能力もお粗末だな。これなら仕事も楽そうでいい」
ユーゴが魔獣の襲撃を予知して、それと同時にマリアノさんが私達から更に二歩前へと離れて行く。
そして魔獣が現れれば、それが吠えるよりも先に彼女は一撃で叩き潰して道の端へと蹴飛ばしてみせる。
もう何度目かも分からないが、一度の狂いも無くそれは繰り返された。
一度の討ち漏らしも無く、一度の戦闘も無く……
「……暇だな。つまらない」
「お前な……暇なのはいいことだぞ。少なくとも、無駄に忙しいよりはな」
「理由も無く忙しい街が多いんだ、暇をもっと大切にしろよ」
ユーゴはもうジャンセンさんにうるさいとすら返さなくなっていたが、同時に少しだけ肩の力が抜けたようにも見えた。
退屈と慣れが緊張をほぐしてくれたのだろう。
ならば、こうして何度か同じような遠征を繰り返せば、彼の中にある恐怖も払拭出来るかもしれない。
そうなれば、ジャンセンさんを嫌うことも無くなるかも……
「――っ。後ろ、来るぞ。さっきまでのとは違うのだ。動きも、大きさも」
「っと、遂に来ちまったか。お前ら、後方警戒しろ。でも脚は止めるな、立ち止まると囲まれるぞ」
っ。私の呑気な安堵を咎めに来たわけではないだろうが、気分としてはそう感じてしまう。
ユーゴはもう汗も引いた涼しい顔を後方に向けて、少しだけ私を列の前へと押し出した。
どうやらマリアノさんも魔獣の気配には気付いたらしく、時折こちらを振り返って様子を見ている。
しかし、彼女がそれを撃退しに隊列の後ろへとやって来る気配は無かった。
「姉さんは前方の警戒がある。お前らがやんだぞ、分かってんな」
「女王陛下とその子分と、それから俺をしっかり守れよ」
「誰が子分だ。それに、お前も戦え。お前が戦え。お前なんて盾になって勝手に死ね」
そう言い終わるのが先か、それとも剣を抜くのが先か。
ユーゴはくるりと向きを変えて列から飛び出そうとした。
飛び出そうとして――ジャンセンさんに制されて、また私のすぐそばまで戻ってきて、そして目を丸くした。
「――言われるまでもねえよ、このクソガキ」
魔獣は現れた。
先ほどまでのものとは違う――種も違い、そしてマリアノさんによって切り捨てられていない魔獣。
それが五頭――いいや、七頭。
ものすごい勢いで林の中からこちらへと突っ込んでくるのが見えた。
ユーゴならこの程度の魔獣は敵ではないと、私はすぐにそう判断した。
けれど、そのユーゴは私のすぐ隣にいた。
代わりに魔獣と交戦していたのは、列を組んでいた筈の若者達だった。
だが……彼らの力量は、とてもユーゴやマリアノさんには遠く及ばないものだった。
出発前にジャンセンさんが言っていた通り、隊列も剣術も付け焼き刃だったのだと、ひと目見ただけで分かってしまった。
そんな彼らでは、七頭もの魔獣は相手し切れなかった。
出来るわけが無かった。
列は乱れ、しかし迎え撃った男達では魔獣を抑えきれずに。
七の内の三がこちらへ迫って来るのが見えて――
「――もう裏切らねえよ。裏切れないよ。言ったろ、その理想を信じるって――」
――しかし、それが私達のそばまで来ることは無かった。
ジャンセンさんは三頭の魔獣をいっぺんに相手取り、そしてそれを後ろへと逸らさなかった。
私達を守って――ユーゴの憎まれ口の通り、盾となって戦ってくれていた。
そんな背中を、ユーゴは目を真ん丸にして見つめていた。




