第百三話【道は繋がる】
がしゃがしゃと乱暴にぬぐわれてぼさぼさになった髪を梳かす暇も与えて貰えず、私はまたマリアノさんに手を引かれてユーゴ達のもとへと戻っていた。
彼は何やらジャンセンさんと話をしていたみたいだけれど……もしや、私のいないところでは意外と打ち解けているのだろうか。
以前にも、ふたりきりにしてみたらサクサクと予定を決めてしまっていた……なんてこともあったし。
もしかしたら、ユーゴは私に気を遣って……内心では裏切られたと傷付いているかもしれない。
と、そう考えて、表面上では敵対心を向けている……なんてことがあるだろうか。
「うん、ちゃんと乾かして来たね。うんうん、良かった良かった」
「うん……フィリアちゃん。これからは、身なりにちゃんと気を遣おうか。いつか事故が起こる」
「うっ……すみません。出る頃には、まだここまで雨脚が強まるとは思っていなかったので……」
いつかバスカーク伯爵に言われた言葉が脳裏をよぎる。
そう……だな。
女王ともあろうものが、あんなにもずぶ濡れになっていては威厳も何も無い。
それに、礼儀を大切にしろと私が口酸っぱく言っているのに、その私があんなに無礼な姿で現れていては話にならない。反省しよう。
「さて、予定は昨日立てたから、今日こそは調査に行こうか……って、思ってたんだけど」
「この雨だからね、行けるところは限られる」
「残念ながら、一番行きたかった東は川があるからね。近付くのは得策じゃない。となると……」
ジャンセンさんはそこまで言って、しかし言葉を口の中に留めてしまった。
そして、何か期待を込めたような眼差しを私へと向ける。
決定は私が――昨日マリアノさんが言った通りに、彼らへの指示を私が出せと言いたいのだろう。
「……っ。では……まず、道なりに南へ進みましょう」
「そう離れていない場所にもうひとつ砦がありましたよね。一度そちらへ向かって、そこからまた更に南の情報を――チエスコの街の情報を集めましょう」
「危険が無いようでしたら、そのまま現地の調査へ向かいます」
「東の確認より前に、先に南へ……無事が確認されてる街を完全に囲っちゃおうって腹だね」
「民を守るって方針を考えたら、それは確かに筋が通ってる。分かった、そうしようか」
まだ少しだけ緊張があったのか、ジャンセンさんの肯定の言葉に、私はほっと胸を撫で下ろした。
女王としての立場では、こういった決定を下すことも多かった。
しかし、それは請われてのこと。
この場において、私はまだ認めて貰う立場の人間だ。
ジャンセンさんとマリアノさんの顔色とを窺う……ではないけれど。
彼らにがっかりされないだけの解を、必死に紡がなくてはならない。
「南に行くンなら、ちょっと待った方が良いだろうな。この後、南から雨雲が来る」
「チエスコならそう遠くない、多少遅くなっても十分に調査は出来ンだろ」
「……マリアノは天気が分かるのか。そういうのって、なんか予報とか出てるのか?」
予報は知らねえけど、予兆はあるよ。と、マリアノさんはいつもよりもずっと優し気な口調でそう言った。
いつもがいつもだから……というだけで、世間一般的には普通か、それよりも少しだけ荒い言い方ではあったが。
けれど、なんとなく優し気な……子供に何かを教える大人の喋り方だった気がした。
「晩に星を見て、朝に雲を見ンだよ。多少の知識と慣れが必要だけどな」
「姉さん、こう見えてなんでも出来ちゃうからね」
「料理も裁縫も、なんなら俺達の装備も、姉さんが教えてくれたから作れるようになったんだ」
「基本的に器用なんだよね、生きるのは不器用なくせに」
ばぁん! と、破裂音がして、ジャンセンさんは前のめりに吹っ飛んで地面を転がった。
どうやらマリアノさんが何も言わずに蹴飛ばしたらしい。
痛みは相当なもののようで、ジャンセンさんはうめき声をあげることも出来ないままのたうっていた。
「知恵と知識は詰め込める時に詰め込ンどけ。テメエもこのバカとそこのバカ女みたいになりたくなかったらな」
っ⁉ な、何故私に飛び火したのですか……
マリアノさんの言葉に、ユーゴはまだ悶えているジャンセンさんと私とを交互に見比べて…………小さく頷いて、彼女の言葉に従う意思を見せた。
何故……私はいつの間に反面教師の役割を押し付けられたのだろうか……
「うぐ……うぅ……いや、ちょっと、マジで痛いんだけど……っ」
「ユーゴ、姉さんの言葉はまあ大体的を射てるけど、だからって全部鵜呑みはそれこそダメだぞ」
「俺は言うまでもないけど、フィリアちゃんだってちょっと抜けてるだけで女王様だからね」
「その椅子から蹴落とされてない時点で、並じゃ収まらないだけの能力はあるんだから。ちょっと抜けてるけど」
「……言うほどちょっとじゃないからダメなんだろ、コイツの場合は」
ユーゴの返答に、ジャンセンさんは閉口した。
それは痛みが故に……ですよね?
まだマリアノさんに蹴飛ばされた痛みがあるから、あまり喋る余裕が無いだけ……だと信じたいのだけれど……?
「並じゃ収まらない程度じゃ話にならねえンだよ、その椅子に座ってンならな」
「そういうこと言わないの……って言いたいけど、まあ……それが国民の気持ちだよね」
「民はいつでも幸福を――現状よりも更に良い待遇を求めてる」
「毎日奇跡を起こし続ける、それこそ神の遣いの所業を王に求めるもんだよ」
そんなのコイツには無理だろ。と、ユーゴは冷たい目を私に向けた。
彼の言葉が嫌みや蔑みであるかどうかは関係無しに、私としてもそれだけの期待にはとても応えられないと言わざるを得ない。
もちろん、それに応えようとするだけの努力は惜しまないつもりだが……
「無理だよ、そりゃ。人間だもの、王様も」
「でも、求められてしまう。完璧を求められて、それに完璧に応えたとしても更に上を求められる」
「だから人は政治に不満を持つし、それによって国はより良い方向へと進む」
「だから、そういう嫌な言葉を真摯に受け止められるフィリアちゃんは、それだけでも結構すごいことしてるんだって」
「分かってあげろよ、誰よりもお前が」
「……それはまあ……納得した。でも……すごいかは……」
本当に素直じゃねえなぁ。と、ジャンセンさんは大きなため息をついて、そしてユーゴの頭をぐしゃぐしゃと撫で回した。
そんなことをされれば当然ユーゴは逃げ出すし、それを面白がってジャンセンさんは彼を追いかける。
やはりこのふたりは、もう打ち解けているのではないだろうか……?
「そんなわけだから、姉さんもこれでフィリアちゃんのことは認めてるんだよ。言葉通りに受け取り過ぎてへこまないでよ」
「姉さんがこれだけ突っかかる相手なんて、俺以外には今までほとんどいなかったんだから」
「テメエほどのバカをコイツ以外に知らねえだけだ、このボケが」
ばしぃん! と、また破裂音が響いて、ジャンセンさんはまたしても腰を押さえて床を転がった。
認めているからこそ厳しい言葉を使う……か。
もし本当にそうであったなら、それはなんと誇らしいことだろうか。
そうでなかった場合は……な、なんと情けない話だろうか……
「どちらにせよ、気を張って取り組まなければなりませんね」
「ジャンセンさん、マリアノさん。先に、おふたりの知るチエスコの状況を教えていただけませんか」
「いってて……うん、良いよ。さて、何から説明しようか」
「まずは……うーん。調査に向かうわけだから、まず何を見るべきか……からだろうね」
チエスコ周辺にはまだ魔獣が数多く生息している。
そんな言葉から始まったジャンセンさんの説明は、どことなく緊張感のあるものだった。
最終防衛線の外、それもウェリズの時と違って、魔獣が確認されている地域だ。
もう誰にも真面目な顔が戻っている。
「街の周囲は、昔に比べて……先代の王様の頃に比べて、随分と林が減ったかな。ま、これは俺達がやったんだけどさ」
「魔獣の問題がある間は、自然ってものはこっちにとってただ不利になるだけの地形だからね」
「ただ……それに伴って、地面はちょっと緩くなってる」
「今日みたいに天気の悪い日は、馬車で行けるのは途中の砦まで。そこからは徒歩で街へ向かうことになるかな」
「生息してる魔獣も、こっちにいるのとは別モンだ。特に、街の東にあるイプス湿地が厄介だな」
「完全水棲じゃねえが、泥沼の中に潜む魔獣まで確認されてる」
「腹括っとけよ、クソガキ。テメエがヘマすりゃ、そこのバカ女は音も無く沼の底だぜ」
お、恐ろしい話をしないで欲しい……
しかし、その点については不安も少ない。
ユーゴは魔獣の気配を感知出来るのだ。
相変わらず本人にも理屈が分かっていないから、その点だけが少し不安なのだけれど……だが、これまでに一度として魔獣を見逃したことは無いのだから。
「……雨後の沼地に接近するのは、いくらユーゴとマリアノさんがいたとしても危険でしょう」
「空も暗いですし、足下の不安はどうしてもぬぐえません」
「ならば……湿地周辺、街の東部は後に回して、カンビレッジからの道路を確保するというのはどうでしょうか」
「そうだね……今までは俺達が通れれば良かったけど、これからは国軍を呼ぶことも考えられる。道路の整備は価値が高そうだ」
ならば、まずは街の北部――このカンビレッジからチエスコとを繋ぐ道路の確保、その為の調査を行おう。
地図の上に線を引いて、私達はそう決めて荷物を纏め始めた。
出発はそれからしばらく後――雨が小降りになって、南の天気が回復したであろうころのこと。
またマリアノさんに先陣を任せて、馬車はぬかるんだ地面を駆け始めた。




