第百二話【雨はあがるから】
まずどこへ向かい何を見るのか。
それだけを手短に決定して、私達は少しだけ慌てて役場へと――併設されている宿へと戻った。
あまり遅くなれば皆に心配を掛けてしまう。
もちろんそれは、帰りの遅い娘に対するものなどではない。
何かあったら自分達はどうなってしまうのか……という、私の立場と兵士や役人といった役職が引き起こす、どうしようもない不安の話だ。
ジャンセンさんとマリアノさんに見送られて帰ってみれば、やはりそこには青い顔が並んでいた。
その……こういうリアクションは仕方無いのだと分かっていても、結局これまでと変わっていないような気がしてきてしまう。
皆がもう少しだけジャンセンさん達を理解して、そして安心して私を送り出してくれればな。
それと、もう少しだけ投げやりに仕事をしてくれれば……とは、流石に口にはしないでおこう。
そうして日を改めて、私はユーゴの声と窓を叩く小さなものの音で目を覚ました。
どうやら天候には恵まれなかったらしい。
カーテンの隙間からも、それを開けた窓からも、あまり光は入ってこなかった。
「雨だな。やめとくか?」
「いえ、この程度の雨でしたら問題無いでしょう」
そうだな。と、ユーゴはのんびりと窓から外を眺めながら頷いた。
それにしても、嵐の中に引っ張り出した人間の言葉とは思えないな、今のは。
魔獣と戦いたい。
約束したんだから天気は関係無い。
そう言って彼は、私を引っ張って宮から飛び出したことがある。
少しだけ懐かしい思い出になりつつあるが、まだそう昔の話でもないのだな。なんだか……
「……貴方と出会った日が随分遠くに感じられます」
「それだけ打ち解けたのでしょうか。それとも、忙殺されてしまいそうなほどの出来事の多さにら麻痺してしまっているのでしょうか」
「ボケっとし過ぎててボケたんだろ。よく言うぞ、歳取ると時間が一瞬で過ぎるって」
歳……っ。
嬉しさも風情も何も無い容赦無い言葉に、やはり昔に比べてずっと打ち解けたのだと理解した。
ユーゴは何も、最初からこうではなかった。
出会ったばかりの頃――召喚したばかりの頃は、むしろ未知の世界に怯えている様子さえ見られたのに。
だんだんとそれに慣れたら、どんどんとぶっきらぼうになって。
それも過ぎた今となっては、妙に当たりが強くなってしまった。
「俺はまだ昨日みたいに感じるけどな、この世界に来たのが」
「なんなら元の世界にいた時のことだってまだ思い出せる。あんまり良い思い出も無いけど」
「……それが若さだとでも言いたいのですか。そんな……まるで私が耄碌しているとでも……っ」
違うってば。と、ユーゴはさっきの言葉を撤回する……わけではなかったが、少しだけ申し訳無さそうに頭を下げた。
これも……こういう悩みについても、ユーゴに出会うまでは気付かなかったのに……っ。
体型も年齢も、ユーゴとジャンセンさんの所為で凄く気にするようになってしまった。
歳自体はジャンセンさんよりも下なのに……
「それだけ俺にはまだ余裕があるって話だ」
「思い出自体は楽しいのばっかりだけど、そもそも暇な日が多過ぎる。だから間延びして感じるんだよ」
「分かったらさっさと準備しろ。昨日の話だと、俺が戦える日はまだあんまり増えなさそうなんだろ。なら、調査なんてとっとと終わらせるぞ」
「余裕……ですか。はあ……凄い……と言うよりも、少しだけ呆れてしまいますね」
「いつか建物よりも大きな魔獣を倒したこともあったのに、それすら思い出程度の扱いなのですか……」
ユーゴは私の言葉に不満げに頷いて、外で待ってるからと部屋を出て行ってしまった。
あの反応を見るに、彼にとってはあの巨大な魔獣も、取るに足らない相手だったのだろうか。
タヌキのような小型の魔獣についてはそれなりに苦戦していたから、アレくらいは苦い思い出になってくれていると……良くはないのだけれど、少しだけ安心もする。
「暇な日……ですか。そうですよね。私が仕事に追われている間、ユーゴは本当に退屈しているわけですから」
彼の心の問題もあるが、それ以上に彼の力を持て余してしまっているというのにも困ってしまう。
やはり、ジャンセンさん達と行動を共にさせた方が良いだろうか。
そうすれば、望んでいるという戦いを多く経験出来るし、その分あの力の上限も更に突き抜けていくだろう。
けれど……彼はそれが分かっていても拒むくらいには、ジャンセンさんに不信感を抱いているみたいだし……
これ以上退屈を感じさせてはいけないと、私は大急ぎで身支度を済ませて彼に追い付いた。
空からは目覚めた時よりも激しく雨が降り注いでいて、地面には泥のしぶきが浮かんで見えていた。
「……これ、アイツら今日はやめにするとか言わないよな……? このくらいの雨なら……」
「ど、どうでしょうか……」
「魔獣はいない……と、そう分かっていても、しかし万が一の可能性もあります」
「林の中へ進むのならば、ぬかるみに足を取られることも、土が流れて地面が崩れることも考えられますから……」
私の言葉に、ユーゴはがっかりした顔をしてしまった。
今日は雨だから何も出来ない。またつまらない日が続いてしまう。
そんな風に思っているのだろうか。
彼の考えをわがままだとか無謀だと思わないでもないが……その落胆の大きさは、私にも少しは分かる。
「なら、雨でも問題無い場所を調査しよう……と、ジャンセンさんならおっしゃる筈です」
「危険は回避するでしょうが、しかしただ足踏みして待つだけとは思えません」
「貴方も、そういう部分は分かっていますよね」
「……そうだな」
「ま、こっちの方を調べる以上、そもそも魔獣と遭遇する可能性の方が低いんだし。雨降ってても降ってなくても同じだよな」
ずっとずっと不満があって、それが解消される明るい情報なんて望めない。
そういう停滞を、私も感じたことがある。
魔獣によって街が荒らされて、盗賊の問題もあって、先王の最期を知っているという焦りもあって。
とにかく苦しくて、何をやっても正しいと思えない。
退屈とは違うかもしれないが、しかしその焦れる感じは確かに私にも覚えがある。
そして……
「……? なんだよ。顔に泥でも付いてるのか?」
「いえ、そういうわけでは。ただ……その……」
じっとユーゴを見ていたら、彼は首を傾げて顔をぬぐい始めてしまった。
そう、私にも覚えがあるのだ。
焦れて焦れて、苦しくて。
そんな中からやっと顔を出せるかもしれない。
そういう期待を抱いて……そして、落胆してしまった日が。
私にも確かにあるのだ。
打開したかった。
何をやってでもあの息苦しさから抜け出したかった。
国を救いたかった、民を守りたかった、そういう感情は確かにあったけれど、しかしそれだけではなかったのだと今なら思える。
あの頃は……そんなことを考えたら、もう二度と立ち直れないと思ってしまっていたけれど。
「……ユーゴ、行きましょう。こうして立っていても雨はやんでくれません。多分ですが」
「お、おう……多分なんだな。そうか……別に天気予報なんて出来ないもんな……」
ユーゴの姿をひと目見た時、私はひどく落胆したのを覚えている。
こんなに小さな少年に何が出来る。
召喚は失敗に終わってしまった。
この国はもう、どうしても救われないのだ。
そんな風に思ってしまったことを、私は忘れていない。
それでも、その少年が怯えているのが分かったから――見知らぬ景色への不安で押し潰されそうになっているのが分かったから、私は声を掛けた。
出来るだけ優しく、温かく。
こうしてこの世界に――この国に呼び出された以上は、その少年もまた民なのだから、と。
「――っ。おい、フィリアっ。ちょっと待て、さっきより雨強くなってるぞ。せめて傘かなんか……」
「砦まではそう遠くありませんから、大丈夫ですよ。さあ、急ぎましょう。あっ。転ばないように気を付けてくださいね」
それを俺が心配してるんだよ! と、ユーゴは怒鳴って、けれど私に追い付いた彼の顔は笑っていた。
笑ってくれていた。
ユーゴで良かった。
今ではもう、彼以外には考えられない。
この小さな少年には、民に希望を見せるだけの気高い精神がある。
誰かの模範となろうと、強い力に溺れず自らを律し続ける心がある。
少しだけやんちゃでわがままでも、大切なところを間違えない優しさがある。
私はこうして落胆の後にきちんと報われた。
ならば、ユーゴにもそういう日が必ず来るだろう。
「――はあ、はあ。結構濡れてしまいましたね」
「ごめんください。おはようございます、フィリアです。入ってもよろしいですか」
「ったく…………っ! お、おい。フィリア、ちょっと待った。いや、挨拶じゃなくて……」
役場から砦までを、結局ずぶ濡れになりながら走り抜けて、私達はその厚いドアを開けた。
ユーゴは何やら慌てた様子だったが……?
なんだろうか。まさか、今朝は返事を待つ前にドアを開けるな……などと言うのだろうか。
もしや、挨拶と礼儀の大切さについてようやく理解してくれたのだろうか。
「朝っぱらからうるせえ、デカ女。呑気にギャーギャー騒いでンじゃ……うおぉ……お、お前……デカ女……」
「……? あの……マリアノさん……?」
そんな私達を最初に迎えてくれたのは、朝早くから既にぴりぴりした空気をかもすマリアノさんだった。
もしや、眠っている時にまでこんな緊張感を帯びているのだろうか。
それは……もう少しだけ休ませてあげられないだろうか。
ユーゴの力があれば、彼女の負担も軽減してあげられる筈だが……
「おー、おはようふたりとも」
「ユーゴ、なんかお前……濡れるとなおさらみすぼらしくなるな、元がチビなだけあって」
「フィリアちゃんも、そんなだと風邪引く……よ…………えっ。でっ…………」
「……あの……ジャンセンさん……? おふたりとも、どうなさったのですか……?」
とりあえず着替えて来い。と、マリアノさんに乱暴に引っ張られて、私は砦の奥にまで連れて行かれた。
もともとは存在しなかった筈の浴室まで備えられていて、よくもまあこれだけの改造を施したものだと感心して……いる暇も無く、私はまるで犬でも扱っているかのような乱暴な手つきでタオルに包まれた。
わぶっ……じ、自分で出来ま――むぐぅっ。




