紀州の追跡者~始まりの福音~
茄子が嫌いだった
完全な食わず嫌いだ。見た目もそうだが、あのなんとも言えない無機質でのっぺらぼうのような、つるりとした質感がとにかく苦手で、あれを食べようだなんて思いもしなかった
だが、今俺が一番好きな食べ物は麻婆茄子なのだ。近所にある行き付けの台湾料理屋『ウォーゲン』その店の麻婆茄子がとても美味しく、毎週金曜、仕事終わりは必ずそこで、愛想はいいが何を言っているか分からない店主の出す麻婆茄子を食べるのが日課となっていた
茄子を食べるきっかけなんて覚えちゃいない。記憶なんてそういうものだろう?
つまらぬものは捨てられる。この薄汚れた人生も記憶も、簡単に捨てられたら良かったのに
大学一回生の春。俺が通っていた大学は介護系の大学で、場所はというと、それはもう深い山の中に鎮座していて、お城かと言わんばかりの豪勢な門柱を越えると、キャンパス内は廃村かと見紛うほどの荒れようだった。恐らく門柱に金を使いすぎたのだろう。こんな山の中じゃ生徒などろくに来るはずもなく、廃校寸前だった記憶がある
そんなオレンジデイズとはほど遠い中、寮生だった俺はそんなことは気にもせず、今から始まる大学生活に胸を高鳴らせていた。
気合いを入れて寮を出ると、刹那、絹を切り裂くような悲鳴が隣がら聞こえた。寮の隣は森である。隣が森と言うより寮が森に侵食されているイメージであり、その証拠に建物のそこかしこに木の根や植物の蔦が張り巡らされていた。
その森から女性の悲鳴が聞こえてきて俺は身構えた。女の人が襲われている?否、田舎育ちの俺にはこの声の主が何なのか分かっていた。そいつは俺が完全に身構える前に茂みから飛び出し、俺へと目掛けて突っ込んできた。
鹿である。
森から放たれたその茶色い弾丸は目の前で跳躍すると、がら空きになった俺の頭に、その黒々とした蹄で容赦ない一撃を食らわしてどこかへと走り去っていった。
今日が入学時であるとか、彼は気を配ってくれない。当たり前の話であるが。
思わずうずくまり、頭を押さえる。理不尽な怒りよりも沸き上がってくるのは鋭い痛みだ。頭を押さえていた掌が血で真っ赤に染まっていた。
「えっ、ちょっと大丈夫?」
大自然と融合した大学からのこの洗礼を受け、声にならぬ叫び声を上げていた俺は、パニックで目の前に人が立っていることすら気付かなかった。ハッとして顔を上げる
まるで舞い散る桜の花びらの中から現れたように思えたその子は、薄紅色のカーディガンを羽織り、困惑した表情で、真っ白なハンカチを俺にさしだしていた。
その瞬間だ。痛みも、鹿に対する怒りもどこかに飛んでいった
鈴鳴 小梅との出会いだった。
そして
血と憎悪が交差するブラッドオレンジデイズ
忌まわしくも美しい血に塗れたその幕が、ゆるりゆるりと上がったのだ
ああ
また夜が来る
逃げなければ
闇に溶けなければ
彼 女 に 見 つ か ら な い よ う に