後編
「母上ではないが俺も王宮<こんなところ>いられるか。こんな形だが俺は男だぞ!?男とヤるとか死んでもごめんだ。死ぬ気で逃げる。というか王族を強姦は不敬の極みだろうが」
サナが何度も王宮を振り返る頃。
リエルにのんきにサナを見送る時間などなかった。
鞄に1日分の着替えと、夕食から残したパン、それから換金できそうなものを詰める。
部屋の外にはオルディナか貴族院どちらの息のかかった人間かわからないが、兵士がふたり見張りとして立っている。
日中は役に立つが、夜になると途端に無能になり、高貴な男の侵入を許すクズ兵士たち。
「窓から伝って降りてもいいがすぐバレる。というかこの筋力じゃ無理だ」
リエルは鍛錬用のシャツとズボンに着替え、鞄を横からかける。
その上から黒の外套を羽織り、すっかり筋肉の消えた細腕に触れる。
「……隠し通路を使うか。よくも悪くもオーランドのやつが何を考えているかわからないのが救いか」
落胆しながらもすぐに気持ちを切り替え、隠し通路のある備え付けの浴室に向かう。
扉の鍵をかけ、さらに念を入れて濡れたタオルでぐるぐるとドアノブを縛る。
オルディナは大変な野心家であるが、半分血の繋がった兄のオーランドはそうは見えない。
オルディナの傀儡というには、リエルと同じ赤紫色の瞳には知性の光が感じられる。
ほとんど会話もしない間柄なので、オーランドが内心何を考えているのかはわからない。
【すごいな。本当に女になったのか。―――誕生祝いに一つ小話をしてやる。王宮の鏡はハイシュテルン王家の血を引くものしか映さない。せいぜいうまくやることだ】
女になった翌日、ドレスまで着せられてオルディナに呼び出された屈辱的な帰り道。
偶然廊下ですれ違ったオーランドが驚いたように目を見開き、去り際に声を落としリエルの耳元に秘密を囁いた。
「これでオーランドに裏切らていたなら諦めるしかないが」
オーランドの言葉の意味を察するのは容易い。
だからこそ、唯一の個人的空間である自室の、それも備え付けの浴室の鏡を選んだ。
指を思い切り噛んで、血を出す。
「俺の名はリエル=ツヴァイ=ハイシュテルン。鏡よ、秘密を示せ」
リエルは赤い血と古からの誓いを、曇り硝子に捧げた。
「へえ。本気で出来た」
リエルの血が鏡に吸われ、蜘蛛の巣状に一瞬で広がる。
そして曇りが消え、女となったリエルの姿が完全に映し出される。
そのまま鏡に手を伸ばせば、指先が沈み込み、ずぶずぶとリエルの身体が鏡の向こう側に飲み込まれる。
「なかなかにかびくさいな」
人がふたり通れる程度の薄暗い通路に放り出される。
灯の類いはないのに不思議なことに、薄ぼんやりと自分の手足と道が見える。
リエルは深く考えないことにした。一本道なら問題ない。
とにかく王宮の外へ。
かび臭さに涙目になりながら、鼻を外套の袖で押さえながら進む。
太陽が落ちる少し前にこの秘密の抜け道に来た。
食事は毎回自室の扉の外に置かれる。
そうして夜も更けて来た頃、食事の回収と同時に男が送り込まれてくる。
言い換えると、その時間までリエルは自由だった。王宮からの逃走に気づかれる猶予がある。
「お」
リエルの部屋は3階。
息切れするほど長い通路を歩くと、不意に開けた場所にたどり着いたことに気がついた。
狭い通路特有の閉塞感がない。空気の流れもかすかに感じる。
踊り場といっても差し支えないほどの広さ。
「出口が近いか?…あ?」
同時に、リエル以外の気配を急に感じた。
腰に手をやり、短剣の柄に触れる。
「おい。誰がいる」
誰か、あるいは、何かがいるという確信がリエルにはあった。
壁は分厚い。秘密の抜け道の外の音が聞こえないのであれば、中の声も然り。
リエルは女にしては低い、ハスキーボイスですこし大きな声で呼びかけた。
「―――呪われても王族なのですね。魔の気配に敏感ですこと」
おっとりとした少女の声が通路に響くのを合図に、ライトグリーンの火の玉がいくつか宙に現れる。
「魔?お前は―――いや、一度見たことがあるな。レッドゲイト辺境伯の娘だろう」
薄気味悪い光に照らされたベールを被っていない修道女の服を着た美しい少女に、リエルは見覚えがあった。
「ふふ、まさかわたくしのことを覚えてくださっているなんて。そうです、わたくしはラーファ。ラーファ=レッドゲイトですの」
少女は自らのことをラーファと名乗った。
首元をすっぽり覆い隠した漆黒の修道服に、はち切れんばかりの豊満な胸。
腰までの白銀の髪を頭の両端でふたつに結んで垂らしている。
金色みがかった黄緑色の眠たげな瞳をさらに細め、もぎたての果実のような瑞々しい淡い色の唇が僅かに笑みを形作っている。
「ラーファか。お前はどうしてこんな場所にいる?……正妃の手の者だというなら、女といえど容赦しないが」
リエルは今度こそ短剣の柄をしっかりと握りしめ、牽制するように刃をラーファに向ける。
「ふふふ。女といえど、ですか。ご自分もそうなられてますのに、リエルさまは威勢がよろしいんですね」
ラーファはほっそりとした手を口元にもっていきリエルを小馬鹿にしたように笑う。
「さすがに不敬だが」
むっとしたようにリエルが唇を尖らせる。
「というか、俺がリエル王子だとわかるのか。正妃か?それとも貴族院?どちらの手の者だ」
レッドゲイト家が治めている辺境の地にまで己の呪いが知れ渡っているのかと、リエルはぞっとする。
もとより中性的とは言われていた。髪も瞳も同じとはいえ、明らかに女となった容姿で、リエル王子だと疑われていないことにより警戒心を強める。
「わたくしは魔ですの。リエルさまがご心配になられているどちらの派閥のものでもありません。強いていうなら、わたくしは、ハイシュテルン王家のしもべといいましょうか」
刃を向けられているにも関わらず、ラーファはリエルのほうに歩き出す。
一歩、二歩、三歩。
「近づくな。俺は短剣を下ろさないぞ」
「構いませんよ。そんななまくらではわたくしを傷つけることはできませんから」
「なにを、あ?」
あと一歩で、ラーファの突き出した膨らみに刃が埋まるというところで、短剣がぐにゃりと曲がった。
ひとりでに。まるで薄い紙でできているのではないかと錯覚するほどあっさりと。
驚くリエルを尻目に、己の手がラーファに向けていた短剣を後ろに放り投げた。
「そんな物騒なものを振り回してはリエルさまの可愛らしいおててが傷ついてしまいますの。ね?」
からんからんと短剣が床に落ちる音が通路に響き渡る。
「魔……魔女か?レッドゲイト家の娘なのは間違いないな?」
「怖がらないでくださいな。わたくしはレッドゲイト家の娘だからこそ、魔女ですの。リエルさまは王家の中枢から遠ざけられ、またお父上から何もお聞きになられていらないので知らないのも仕方ありませんの。卑しい魔の血が流れる我が家の娘はみな、ハイシュテルン王家のしもべとなるためにいますの」
リエルの手が拳を握り構えをとろうとするのを、ラーファがふんわりとした手で包んで止める。
「ずっと、ずっと。わたくしははじめてリエルさまにお会いしたときから、あなたを待っていましたの」
ラーファの言葉に、リエルの遠い記憶が鮮やかに彩られる。
母親がまだ王宮にいた頃、数少ない自分に謁見を申しにきた家がいくつあった。
その中で銀色の髪をした表情の薄い少女を連れた男がいた。
自分と年の近い子どもを見るのは久しぶりだった。
不躾なほどまじまじと少女を見つめていたリエルに、あの男はなんと言っていたか。
【娘はオーランド殿下ではなく、リエル殿下のモノです。どうぞご随意に】
「わたくしはハイシュテルン純血の王族であるリエルさまのモノです。我が魔の力はリエルさまに捧げます」
土埃で汚れた床にラーファの瞳と同じ黄緑色の鮮やかな魔方陣が広がる。
風もないのにラーファの銀色の髪が持ち上がり、リエルの金髪に絡みつく。
「さあリエルさま。わたくしを使ってくださいな。たとえば、そう――――そのお身体を元に戻して、わたくしとハイシュテルンの王冠を奪うなんてこともできますの」
そう言って、白銀の魔女は艶やかな笑みを浮かべて誘惑し。
「―――いいだろう。王位なんぞに興味は無いが、この身体を元に戻せ。そして俺と一緒に、この国の外に逃げるのを手伝え」
「王位に興味がないなんて無欲な方と言いたいですが、呪いの解呪に加えて国外逃亡のお手伝いですか?ふふ、そちらのほうが骨が折れそうですの。でもリエルさまの命令ですもの。ラーファが必ず叶えて差し上げますわ」
ラーファは修道服の裾をつかんで、恭しくカーテシーをする。
「戯れ言の類いだったら許さないからな。必ず成し遂げろよ、ラーファ」
赤紫色の鋭い眼光が、ラーファをまっすぐ射貫く。
「そんなに怖いお顔をなさらないでくださいな。リエルさまの望みは必ず叶えて差し上げますの。それでは契約を結びましょうか」
ラーファが服から手を離し、片手をあげる。
金と白銀のお互いの髪が激しくたなびく。
そうして魔方陣が一際強く輝き、収束する。
「これでリエルさまは正式にわたくしのご主人様ですわ。うふふ、ラーファのこと、かわいがってくださいね?」
契約の証として、リエルとラーファのそれぞれの頬に、黄金色の一条の紋様が刻まれる。
「……男に戻ったらその言葉、別の意味で可愛がってもいいということか?」
得体は知れないが、外見だけでいえばラーファはリエルの好みだった。
熱のこもった赤紫色の目で、ラーファを食い入るように見つめる。
王を知る人間が見れば、女の姿であるといえ、リエルの今の表情が側妃に執着していた王にそっくりだと断言するだろう。
「まあ。わたくし、リエルさまにどんなことされてしまうんでしょう」
欲望に忠実なリエルの言葉に、ラーファはふざけたように己の身体を抱きしめて笑う。
―――こうして呪われ女となった王子は、いかにも怪しい美少女魔女の力を借り、ハイシュテルン王国の追っ手から逃げ出した。そうして中途半端にかけられた結果複雑化した呪いを解いたその地にふたりで永住し、末永く暮らすことになるのだった。