一章 賽は投げられた 2
「フランー!」
名前を呼ばれて思わず振り返る。私の名前を呼んだ人を見て、瞬時に後悔した。その次の瞬間、こげ茶色の物体が私の腹部に激突した。
「ったぁ…」
思わず腹部を押さえて、アマネを睨めつけてしまう。全く、なぜこの人は他にはそつがないのに、私には幼い行動ばかりするのか。周りの人には無垢な微笑みを浮かべて、自然と場を和ませてくれるから、みんな休み時間にはアマネのそばに寄っている、らしい。
私はアマネとクラスが違うから、実際には見たことがないのだが。ただ、同じ学校だって事以外に私とアマネの接点はない。なぜそんな私とアマネが仲が良いかと言うと、入学式から数日していきなりアマネが私のクラスにやってきたのだ。
今でも思い出せる。この髪と目の色があまりにも他の人とはかけ離れていて、周りから距離を置かれていた時に、早くも人気者となっていたアマネが私のそばに近寄ってきたのだ。
ほかの人が注目する中、アマネが最初に言ったのは『わぁあ、翡翠みたいにきれいな目だねー! いいなぁ、私もそんな綺麗な目が欲しかったなぁ。しかも、髪も天の川を写したみたいに輝いてる! 銀色の髪の毛って神秘的だねー!』という大絶賛だった。
それから周りにいきなり距離を詰められるようになったので、それは良かったのだが、やはりあの頃は大変だった。
そんな私の思いとは裏腹に、アマネは周りに花を飛ばしている。私が半眼な事に気付くと首を傾げた。
「どうしたの? 葵・ソフィア・フランチェスカ?」
「あのさぁ…。私の名前を全部言ってる時点で気付いているでしょ?」
「あはは、フラン、どうしたの? 朝からそんなに不機嫌じゃ、いろんなものが逃げてくよ?」
アマネが笑うと同時に、横に一房ある三つ編みが揺れる。毎朝、眠い目をこすりながら三つ編みをしているのだそう。別にカチューシャでもいいのでは、と言ったら「三つ編みの練習がしたいの! それでフランの髪をいじって豪華にしたいの!」と言われた。別に私は髪は下したままでいいのだが。
「別にいいよ。それよりほら、このままだと遅刻するよ?」
「あっ! やばっ!」
アマネは走り出した。私の手を掴んだまま。
「ちょっと、アマネ!」
駅に向かう人々は、銀髪翠眼の少女がブロンドの髪の少女に連行される様を不思議そうに見ていた。少し微笑ましそうにも見ていた、気もする。
フランは席に着くと、一つ息を吐いた。朝から疲れた。少し不機嫌なのが伝わったのか、いつもは周りに来て喋る子達も今日は来ない。別にそこまで不機嫌なわけではなく、ただ疲れた、というだけなのだが。
そう、数分か放心していると、担任がやってきた。大きなカートを引いて。
(…何?)
周りもざわついている。クラスでもリーダー格の斎森暮葉が手を上げる。
私の学校、私立乙霧女子学院は入学方法に学校から2・3キロの通学圏内に入って受験時に加点を得る人と、通学圏内に入っておらず、加点なしで受験して入学する人の二種類がある。通学圏組の人は元は同じ小学校の人が多く、初めのころからグループができていた。
斎森さんは通学圏組で、とても明るい。ただ、初めの方は私の事を無視していた節があって、私と斎森さんは同じクラスにもかかわらずあまり話さない。斎森さんはアマネと仲良くなりたいらしく、よくアマネと話している私を見てくるのだが。
「せんせーい。何ですかそれぇ?」
「HRで話すからちょっと待て。…よし、全員いるな」
その後、担任が話した内容は不思議なものだった。
近年、仮想現実の研究が進んでいる。あと数年で社会に出る来年度の中高校生、つまり現小6から現高2までに、国から仮想現実を体感できる機械が配られたそうだ。
高3に配られなかった理由としては、大学受験などもあるため、あまりVR機械を体感できないだろう、ということに有識者会議で話が落ち着いたためだ。それを教えられたとき、高3はいったいどういった顔をするのだろう、とぼんやりと頭の隅で考える。
「今日の俺の授業はそれの設定だ。最初に名前を入れるが、本名を入れろ。後で名前は変えられる。顔の造形、身長等は変えられないがな」
そのように慌ただしく、その日の学校は終わった。
私は習い事として、フルートをしている。習い事の教室は楽器屋さんと併設しており、お手入れグッズや楽譜が手に入りやすくて助かっている。しかも、学校と図書館に近いのだ。早く着いてしまえば、図書館で自習が出来る。
ただ、今日はVRの機械について話そうと、アマネに捕まってしまい、急いで向かっても間に合うか微妙なところであった。私が出来る最大限の速度で、しかし歩きながらフルート教室に向かっていると、目の前にボールが飛び出してきた。
「あ! やべっ!」
そう言いながら小学3・4年に見える男の子が出てきた。ちょうど私の目の前に転がってきたので、その男の子に向けて軽くボールを蹴った。幼少期は母の母国、ロシアで過ごしたので学校での暗記科目は成績が悪いのだが、運動神経はとてもいいので体育だけは成績が良い。
探していたボールが転がってきた男の子は、目を見開いて私を見た。そしてすぐに破顔し
「ありがとう! アンタ、サッカーやったほうがいいよ!」
と言って去っていった。初対面の人を「アンタ」呼びはどうかとも思うが、ちゃんと礼は言っていたので、まぁ、いいか。
そう目を細めて男の子が戻っていった公園を眺め、あと数分で習い事が始まるのに気付き、今回はさっきまでとは違って思い切り走った。
習い事の時間になってもいつもとは違うことのオンパレードだった。
「葵さん、どうしたの? なんだかボーっとしていたようだけれど」
「あぁ…。更級さん。今日、学校であったことが意外で」
フランに話しかけてきたのは同じフルート教室に通っている更級瑞羽という少女だった。見るからに「お嬢様」という制服を着てローポニーテールをしている。「聖アミマ学園」に通っているのだったか。
「それって、ファントム・トゥーレの話?」
「そう。凄かったなーって。あんなに現実に似た景色が見えるとは思わなかったから」
「凄いといえば、費用もたくさんかかっていそうよね」
「ちょっと、そこの二人。話はレッスン後にして」
コーチに注意され、二人は笑い合うと練習に戻った。