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影の八月

 影の少年は、喜んで死ぬつもりだった。みんなもそうだろうと、本気で信じていた。

 だれもかれもが影だった。黒く、顔を持たず、没個性だった。大人も子どもも、影だった。空には死があり、みなそれぞれが死に晒されて、澄んでいた。死に浸されて、濁っていた。

 新聞を読めば、死があった。ラジオを聞いても、死があった。周りの影たちの噂話。すべて死に関するものばかり。

 影はみな、淡く薄かった。明日にもいなくなって不思議ではなかった。また事実、いなくなる影は多かった。建物でさえ、そうだった。

 影の少年の友達も、ある日に消えた。別れすら言えなかった。哀しくはなかった。自分もほどなくして、そうなるのはわかっていた。同じ道をたどるのだ。

 学校。まだ消えていない学校。影のみんなで、写真に敬礼した。写真には影ではない顔が写っていた。それでもその写真は、御真影と呼ばれていた。意味はよくわからないが、影であるらしい。

 影の少年は、空き地で興味深い玩具を見つけた。家に持ち帰って遊んでいると、爆発した。玩具ではなく、死だったのだ。幸いなことに、だれも死にはしなかった。影の少年の指が、何本か欠けただけで済んだ。

 好奇心は猫をも殺す。君子危うきに近寄らず。影の少年が、痛みによって思い知らされた、苦い教訓だった。とはいえ、それも無意味ではあった。どうせみな、もうすぐ消えるのだから。影は遠からず死ぬ運命にあるのだから。なにせ、死は奨励されていた。誇りのために、矜恃のために、喜んで死ねと、言葉によって、沈黙によって、あらゆる影が、そう言い聞かせられていた。死に囲まれていた。日々はうつろい、次々に影が消えていく。時は、死のためにあった。死を待つことが、生きるということだった。それが影の生だった。

 影の少年は、喜んで死ぬつもりだった。少なくなった影の友達と、死の練習をして遊んだ。殺す役、殺される役。英雄のように殺し、英雄のように殺された。子どもたちの想像力によって、死はすべて輝いていた。影の影による影のための、透明な日々だった。

 八月のある日。正午。晴れていた。大人も子どもも、いたるところで影たちは集まり、ラジオに耳をそばだてていた。やがて、くぐもった声が聞こえてきた。

「……堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、以て万世の為に太平を……」

 なにを言っているのか、影の少年にはわからなかった。だが、この声は、驚くべき効果をあげた。ふと見ると、さっきまで影であったはずの大人が、影でなくなっていた。黒い影がぱらぱらと剥がれ落ち、下から薄汚れた顔がのぞいていた。泣いていた。

 その魔法は、瞬く間に広がっていった。黒い影たちは、遅かれ早かれ影ではなくなっていった。なにが起こったのか、影の少年にはわからなかった。ただ、ぼんやりとわかったところでは。もう死ななくていい、ということらしい。

 影の少年は、喜んで死ぬつもりだった。だから、急にそう言われても、戸惑うばかりだった。死ねと。ずっと、そう言ってきたではないか。言葉に出さずとも、沈黙のうちに、そう告げていたではないか。これからは死ななくていい。それならばなぜ、死ねと、死ぬべきだと、そう教えてきたのだ。そして、そのとおりに消えていった影たちは、どうすればいいのだ。何のために消えたのだ。

 だれもが影でなくなっていくのに、影の少年は、欠けてしまった指を見つめながら、相変わらず、いつまでも黒い影のままでいた。


「……なに、これ」

 祖父の家にあった古くさいノートを読んで、幼い子どものわたしは、不平そうにつぶやいた。

「つまらなかったか?」

 祖父は笑っていた。読めない旧字などは、祖父が読み方を教えてくれた。というか、ほとんど朗読してもらった。祖父が昔に書いた、童話とも詩ともつかない、奇妙な文章だった。

「よくわかんない。だいたいこれじゃあ、オチになってないよ。台無し。どんでん返しなら、もっとこう、すごいやつとか、胸のすくようなハッピーエンドとか」

 わたしは好き勝手に論評した。祖父はただ笑って、なにも言わなかった。湯呑みを手にとって、お茶を飲んだ。欠けた指を器用に使っていた。猫がトマトの形のタイマーにじゃれついて、にゃあと鳴いていた。夕暮れの光が窓からさしていた。

 後年、祖父が亡くなったとき、その影の物語を思い出した。ノートを探してみたが、見つからなかった。とっくに捨ててしまったのかもしれない。

 記憶によってその物語を再現しながら、わたしは、なにも言わなかった祖父の気持ちが、以前よりはわかるような気がした。

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