22:00 暴虐の群れ
胸の、奥底が熱い。
熱い。
焼けるようだ――
目が覚めたとき、頭上には火の粉が舞っていた。
夜空にチカチカと赤色が差し、噴き上がった黒煙が大きな塊を形成していく。
「う……ごほっ! ごほっ!」
喉に鋭い痛みが走り、何度か咳き込んだ。
体をゆっくりと起こせば、重い金属がガチャッとこすれて音が鳴る。
どうもメイルなどを着込んでいるようだ。
「ここは……」
だだっ広い庭園のような場所に一人。
辺り一面は夕焼けが落ちたかのごとく染まり、背中に痛いほどの熱気を感じて振り向いた。
「城が……燃えてる」
大きく、立派な城だった。
しかし居館の窓は割れ、壁は崩れ、炎が中から噴き出してきている。
炎は外壁を舐めながら、さらに上階へと燃え広がっている。
まるで生き物に思えた。
「俺は、なぜこんなところに」
なにも記憶にない風景。
炎上する城もそうだが、身につけた装備にも思い当たる節はない。
それどころか、よくよく考えてみれば自分の名前すらも――
ふと、首から下がるペンダントを手に取った。
トップには凝った装飾の丸いチャーム。
バネで開閉できる仕組みらしく、中は時計になっている。
「22時ちょうど、か」
わからないことだらけの中、現在時刻だけは把握した。
ともかく、現状をもっと理解する必要がある。
燃え盛る城を背にして、再び庭園らしき広場を見渡す。
視界の悪い濃霧の中、必死で目を凝らした。
奥に見える城壁らしき高い壁は、そこかしこが崩壊している。
無惨に踏み荒らされた草花、そして火の手をあげる城から察するに、戦いの最中なのだろうか。
問題は、俺は果たしてどちら側だったのか。
城へ攻め入った兵なのか。
それとも――
「た、隊長!? こちらにいらしたんですね! ご無事でよかった!」
大声に身構えるも、小走りで駆けてきたのは、まだあどけない顔立ちの少女だった。
鉄の胸当てを装着し、腰には剣を帯びている。
こんな少女でさえ、戦いに参加しているのだろうか。
「王が討たれて、みんな隊長も死んだって噂してました! でもやっぱり隊長がやられるはずなんかないって、ボク信じてたんです!」
拳を握りしめた少女は、感極まった様子で何度も小さな体を跳ねさせる。
そのたびに側頭で結った金髪が揺れ、輪をかけて幼く見える。
とても戦場に似つかわしくない。
「隊長とは……俺のことだな?」
「え? そ、そうですよ! 王国屈指、竜の七騎士でありその筆頭! そしてボクら王城守護隊の誇り高き隊長です!“フェンサー”と呼ばれる隊長の華麗な剣技はボクの、みんなの憧れなんですから!」
「フェンサー……」
通り名のようなものだろう。
説明的な口調に違和感を覚えるものの、ともかく明解な情報は助かる。
少女の口ぶりからするに、どうやら俺はこの城を守る立場にあったらしい。
華麗な剣技と言われても覚えはないが、腰に差していた片手剣をそろりと抜いてみる。
細身で刃の形状は三角形。
先端の研ぎ澄まされた刺突剣だ。
「守護隊のみんなは、たぶんもう。副隊長も、ボクをかばって、敵に……っ」
懸命に涙をこらえる少女の姿は痛々しく思うが、それ以上に胸へ響くものはない。
しかし、記憶を失くしたなどとあえて言う必要もないだろう。
縋る対象を失ったと知れば、少女の心が折れてしまってもおかしくはない。
そうなっては、この苛烈な状況から生還できる可能性が著しく低くなるだけだ。
「城内は、まだ敵がいるのか?」
「は、はい! でもまだ、生き残った人もいるはずです! 奴ら鉄球みたいな物で壁や柱を破壊してて、早くみんなを助けないと城が崩れちゃいます!」
燃える城内に留まるとは、敵もそれだけ必死なのだろうか。
だがこの少女は“王が討たれた”と言っていた。
敵国の将を討ち取り、それでもなお留まる理由。
この城がどんな奴らを相手取っているのか知らないが、考えられるとすれば……
「あの、隊長……?」
いずれにしても、今から城内に戻るなど自殺行為でしかない。
行き先は一つだ。
「こっちだ、ついてこい」
「は、はいっ!」
俺は少女と二人、王城を背に走り出す。
濃い霧のため足もとに注意を向けながら、迅速に城から遠ざかっていく。
離れても離れても、焼けた風が、軋む城の悲鳴を運んでくるようだ。
「はあっ、はあっ、隊長! ど、どこに行くんですか!? そっちは」
崩れた外壁を踏み越え、少女に手を貸して引っ張りあげた。
ひとまずは逃げる。
今の俺と、少女の知る俺の行動が合致するのか気になるが、現状では他に手がない。
城に残っているという仲間は失望するかもしれない。
だが俺の脳裏には、誰一人の顔すら浮かんではこなかった。
せめて、偶然にも鉢合わせたこの少女と共に脱出し、機会を伺うのが最善だろう。
「……空気が薄いな」
どこまで行けば安全を得られるのか、まだ判別はつかない。
炎の明かりから逃れた俺達は真っ暗な道へ出た。
石畳みは踏み壊され、いたるところで土肌が露出している。
道は、闇へ向かって真っ直ぐ下っている。
呼吸がしづらく感じたのは、城が標高の高い場所に建っているためか。
「急ぐぞ、走れるか?」
「でも、下は! ……もしかして、打って出るんですか? そ、そうですよね! せめて、華々しく」
微かに震えながらも、勇敢に笑んでみせる少女。
あまり見たくない類いの笑顔だ。
少女の態度に不穏を感じた俺は、道に沿って積まれた石壁に駆け寄り下を覗き込んだ。
暗い。
しかし眼下の真っ黒な空間に、星と見紛うほどの無数の煌めきがある。
何百、何千にも見える煌めきは揺らぎ、少しずつ動いているようだ。
「松明……か?」
まさか、あれが全て敵だと言うのか。
城内も、城外もすでに逃げ場は残されていないのか?
さっきの考えが頭をよぎる。
俺達を皆殺しにするつもりか?
「ボク、命が尽きる最後まで隊長と戦います」
「やめろ」
そんな決意は聞きたくもない。
今の俺にとっては、ついさっき会ったばかりの少女だ。
年端もいかない少女の奮戦など、誰が望むというのか。
地面が揺れる。
僅かだった揺れが、段々と大きくなっていく。
決断しなければ。
早く。
早く。
城内に戻るか、一か八か暗がりにまぎれて突っ切るか。
もはや幾千の足音は怒号となって轟き、地を揺るがす原因となっているのは明白だった。
焦りから、なんとはなくチャームを開けば、時刻は22時20分を指している。
やはりここから逃げるのは不可能だ。
一度、城へと引き返す。
その決断を伝えるよりも一瞬早く、少女は剣を抜きつつ暗がりへ駆けていく。
「ボクは王城守護隊、剣士ルイセ・カーベルク! 隊長には指一本触れさせるものか!」
「待て、戻れ!」
少女を追って走り出した俺は、闇から姿を現した複数の影に足を止めた。
「ゴフ……ゴフ」
「ゴフルルル……」
なんだ……あれは。
身の丈は、優に人間の二倍から三倍。
獣じみた垂れた耳に、上向きの鼻と、口から覗くのは太い二本の牙。
人にはとても装備できない重厚な鎧を纏い、手には柱のごとき剛槍を持っている。
狭い道幅にみっちりと、化物どもは進行を妨げるかのように隊列を組んでいた。
暗い道の先は松明が途切れなく続き、おそらく化物は下までずっと――
想像もしていなかった異形の群れを前に、思考が停止してしまう。
「おまえらになんか、王国は屈しない! 隊長に教えてもらったこの剣で――がッ!?」
最前に立つ化物が、得物を雑に払った。
たったそれだけで、ルイセと名乗った少女の剣は弾け飛び、小さな体が石壁に叩きつけられた。
体が無意識に動く。
反射的に刺突剣を引き抜き、ルイセの元へ駆けながら叫ぶ。
「よせッ!!」
石壁にぐたりともたれ掛かるルイセの腹が、太い槍に深々とつらぬかれる。
「あ――」
化物は穂先に縫いつけたルイセの体ごと槍を持ち上げると、勝鬨のように高く掲げた。
片側だけを結わえた金髪が上下に揺れる。
槍を伝って、おびただしい量の鮮血がボタボタ石畳へ落ちていく。
「隊、ちょ……ボクらの夢、ここで終わっても、最後、隊長と一緒で、嬉し、かっ……」
ルイセはにっこりと微笑み、動かなくなった。
どうして笑える。
どうして、俺にそんな笑顔を見せる。
ルイセの遺体が、乱暴に投げ落とされる。
瞳の輝きも失われた白い顔が、人形のように俺を見ていた。
俺は、知らないんだ。
ルイセという名も、おまえとの間にどんな日常があったのかも。
そんな俺に、どうして笑いかけたりなどするんだ。
「ゴフッゴフッ」
「フゴゴッ、ゴフ」
笑っているのか……貴様らも。
貴様らに、誰が、笑うことを許可した。
胸の奥底が、ふつふつと熱を持ち始める。
体に、炎の匂いが染みついているせいかもしれない。
握り込んだ刺突剣の柄が、俺に教えてくれる。
その扱い方を――
俺は化物の目前まで一息に踏み込んで、刺突剣をぶ厚い鎧に突き立てる。
切っ先は正確に鎧の継ぎ目を射抜き、異形の胸板をぞぶりと貫通した。
「ピギィ――ッ」
わかるぞ、心臓を穿った感触が。
引き抜き様に血を払い、倒れ伏せた化物の頭を踏み越える。
後ろの化物にも同様に鉄を突き刺す。
わかる。
動ける。
記憶は失くしていても、俺はどうやら戦えるようだ。
「フェンサー……と、俺はそのように呼ばれているらしい」
雄叫びをあげた化物どもが、槍を手に俺を取り囲む。
ルイセに目を向ければ、まだこちらをじっと見ているような気がした。
何匹だ?
何匹そっちに送れば、許してもらえるだろうか。
少しは隊長らしいところを、見せられるといいんだがな。
「串刺しの恐怖と痛み、存分に味わわせてやる」
俺は周囲の化物どもを一瞥し、手近な一匹へ飛びかかった。
――どれくらいの時が経っただろう。
「ふぅッ! ふぅッ! ふぅッ!」
息はすっかりあがっている。
刺突剣を持つ手も、先ほどから痺れでぶるぶると震えが止まらない。
足もとに転がる、化物どもの死骸が邪魔で仕方なかった。
三十を超えた辺りで、もう何匹殺したか数えるのを止めた。
ただ、それでも一向に減った気はしないが。
多勢に無勢とは、このことだろう。
「フゴォォォッ!」
足が止まった矢先、槍の先端に太ももを抉られる。
「ぐ――ぎ……ッ」
がくんと折れた膝が、地に落ちた。
ちょうど、ルイセの遺体が目の前に横たわっている。
もう、ここまでのようだ。
ルイセに心中で詫びた。
最後に手くらい握ってやろうと腕を伸ばす。
だが化物の巨大なグリーブを装着した足が降ってきて、手の甲を踏み潰されてしまう。
これ以上、なす術がない。
状況を理解できぬまま、俺もここで死ぬのだろう。
「ゴフルルルル……」
見上げると、頭上で化物が槍を構えていた。
あの城の惨状で、この異形の大軍に対抗できる人員など残っていまい。
城は落ち、俺達は負けたのだ。
わかることは、それだけだった。
槍の刃が落ちてくる――
頭蓋がベキベキと砕かれる音を聞いた瞬間、俺の意識はぷつりと途切れた。