気付けばそこは、
いつの間にか部屋の中は薄暗くなっていた。作業の手を休め、ふと窓の方へ顔を向けると外は厚い雲が覆っていて、今にも降りそうになっている。
外は随分寒そうで、私はぼんやり外を眺めながら、そういえばあそこも寒かった、と突然懐かしい記憶を思い出していた。
あの場所はどこだったろう・・・と、そっと目を閉じる。
まだ、自分が小さかった頃の記憶。
私が覚えている限り、記憶の中に自分を守ってくれるはずの親の姿はなかった。
一番古い記憶は、寒い部屋。
テーブルもベッドもない、広くもない石畳の部屋で、何人かの同族の子供達と共にいた。頭の上に小さな耳と、尾のある仲間と。
その場所は、人が出入りする所には木の戸ではなく鉄格子がはめられ、その先には階段があった。
隙間からの風が寒くて寒くて、他の子供達と身を寄り添ってじっとしている他には何もなかった。
みんな喋らず、暗い瞳を下に向けて動かなかった。
きっと自分もそんな目をしていたんだろう。
泣くことも、助けを求めることもなく。
どれくらいの間、そうしていただろう。
ただ、順番が来るのをじっと待っていた。
次は誰だろう、と
そんな事を考えていた事をぼんやり覚えている。
日に1度、人が来る。
子供達の中の1人を連れて行って、残った子供に食事が与えられた。
連れて行かれた子供達がどうなったのか、知らない。
帰って来た子はいなかったから。
この部屋を出ていった子供は、誰ひとり帰って来なかったから。
階段を下りてくる足音がする。下に向けていた目を少し上げた。
鉄格子が鈍い音を立てて少し開き、中に入ってきたのは2人。汚れた泥水に近い色のフードを、髪も顔も見えないくらいしっかり被って、体ごとすっぽりつつんでしまっている。
先に部屋に入った人が、子供達1人1人の顔をのぞき込んでゆく。片足が悪いのか移動はゆっくりとだが、こちらへと段々近づいてくる。
自分の前に立った時。目が合って、腕を引かれた。フードの中は顔中にシワと傷がある男の人だった。
その日は私の番で、その日から、老人が私の持ち主になった。
生きるために、私の手には刃物が握らされた。与えられた得物は手になじむ大きさのナイフで、透明な刃は鋭く、とても美しかった。
初めての、自分のもの。
私はそれを片時も離すことはなかった。
暗い目をした私に差し伸べられたのは、寒くて冷たい場所からすれば、ほんのわずかな温もりを与えてくれるものだった。
私の持ち主は、ダンジョン攻略が好きなようだった。何度も何度もダンジョンに入った。私の仕事は持ち主の進行の邪魔になるもの、すべての排除。
進む先で罠が発動すれば庇い、魔物がいれば戦い、体が動く限り持ち主の代わりに傷を負い続けた。
その時何を考えていたかは覚えていないが、初めは確かに痛みを感じていたはずだ。その内にそれが当たり前になっていた。
体はわりと頑丈らしく、どんなに大きなケガも眠っていればいつか治った。壊れるまで動き続ける便利な人形。持ち主が、そう誰かに話しているのを聞いたことがある。
それが私たちの種族なんだと知った。
でも、ひたすら使い潰される日々は、そうは続かなかった。
体中、いたるところが傷つき、治る前に新たに傷が増えてを繰り返し、感覚はすっかり麻痺してしまっていたが、自分の体の限界は近々訪れると予感めいたものはあった。
その日。機嫌のいい持ち主は浮かれていた。長く探し続けてきたものが見つかった、と言って、顔には笑みまであった。
今まで入ったどのダンジョンより大きなその場所を進むには、さすがに自分ひとりでは心もとなかったのだろう。珍しくその場には、5人程の鍛えられた体の装備をまとう男たちと・・・同じ数の人形が用意されていた。
耳の欠けたもの、尾が千切れているもの、薄汚れて細くガリガリの体。自分を含め、傷の治りきらない体からは全員錆びた匂いがしていた。こびりついた血の匂い。誰ひとり生きた目をしていない・・・同じ目をした、壊れかけた人形の仲間たち。
ダンジョンに入る前に、人形全員が意思を制限する首輪がつけられる事になった。今までもたびたび使われた事のあるそれは、私の中にある魔力を自在に使用する為に使われる。きっと全員の魔力が必要な、大きな魔術も使うのだろう。私の持ち主はそういった事も得意とするようで、他の男たちに自分自身は守らせて、目的の物を力ずくで手に入れる算段のようだ。
持ち主の命令通りに動く首輪。それは、命令がなければ攻撃する事も、罠の回避も出来ない、という事。
ぼんやりと、このまま死ぬのかも知れないな、と思いながら首輪を自分ではめた所から記憶はない。
次に運よく意思が戻った時、そこは薄暗いダンジョンの中だった。
嗅ぎなれた独特な匂いは、確かにここがまだダンジョンの中だと分かるのに、目の前には異様な光景が広がっていた。自分以外は全員が、同族の仲間も、男たちも、持ち主すらも巨大な水の玉の中を漂っていた。
それをぼんやり見ていると、何か嗅ぎなれない匂いに気が付いた。嫌なものではなく、むしろその逆の匂いが時折、ふわりと。
・・・・いい香り
ほんの一瞬意識が香りに引っ張られたタイミングで、耳が自分に迫る何かの音を拾い、反射的に左横の壁を蹴ってくるりと回転し右後方へ大きく飛びのいた。もといた位置には自分の胴よりも太い腕があった。攻撃してきたとみられる獣型の魔物は、天井に頭が付きそうな位大きく、見下ろされるその眼光と威圧感が凄まじい。
サッと体に目をやれば普段よりは怪我は少なく、まだ回避だけなら支障はなさそうだ。だが少ないとはいえ罠にかかったのだろう、片腕の肩口から肘までは細い矢に何本も腕を刺し貫かれていて動かせず、魔力切れにより体は重たい。
そういえば、と首輪に触れればヒビがうっすら入っていた。
おそらく今相対している巨大な魔獣の攻撃か何かが首輪に当たり、強制力が解け意思が戻ったのだろう。
そうしている間も、私の胴より何倍も太い腕が次々と掴みかかってきては、それを避ける為に残りわずかな体力が削られていく。
だけど、攻撃にしてはおかしい。まるで・・・そう私を、捕まえようとしているような動きだ。
迫る魔物の腕をかいくぐり背後に回ったとき、視線を魔物ごしに水の玉へと向けるが、水中を漂う持ち主からの命令はない。この距離では生きているのかも分からないが。
「・・・しぶといな、お前」
魔物と水の玉の、そのさらに後方に人が立っていた。
言葉を発した男の人からは、信じられない量の魔力を感じた。なぜ今まで気が付かなかったのか、と不思議に思う位に膨大な力の持ち主。私たちが束になっても敵わないはずだと、瞬時に理解する。闇の中から出てきたような、真っ黒な服。フードで表情は見えないが、なぜか目が合っているような気がして、そのまま視線をそらす事なく、ただただ無防備にもまっすぐに見つめ返していた。
あまりに集中しすぎていた。はっと意識を周囲に向ければ頭のすぐ上に魔獣の顔があった。2対1という状況で、命取りな自分の行動に気が付くにしても遅すぎるが、相手からの攻撃に備えようとしたその時。くらり、と一瞬地面が揺れたような感覚の直後、自分が地面に片膝を付けている事をすぐ理解出来なかった。うまく足に力が入らず、立つ事が難しい。
もう、逃げる事が出来ない。限界。おそらく魔力切れで動き回ったから。こんな時まで他人事のように原因を考えていた。
こんな時なのに、またあの香りがする。それだけが、こんな最後でも悪くないように感じた。
「・・・放り出すか」
すぐ近くから声がした、かと思えば
警戒していたはずなのに、無抵抗に首根っこを掴まれていて。え、と思った時にはダンジョンの外で。
本当に、ポイっと1人ダンジョンから外に放り出されていた。
*****
「何お前、また来たの」
近くの街で『魔王様』と呼ばれる、私を放り投げた男が嫌そうな顔をこちらに向ける。
私は首を動かし、頷くことで意思表示する。
傷が癒えたのが3週間前。ダンジョンに下り始めたのは2週間ほどになるだろうか。何時間もここにいる事はできないが、毎日来れば魔王様のこの言われようにもなるだろう。
ここは、あのダンジョンを下りて中層程にある広い空間だ。私が意識を取り戻し、巨大な魔獣と相対したのもこの部屋だった。この部屋のボス的存在の魔獣はなぜか、あれから私に攻撃してこない。今も部屋の隅で丸くなって眠っているままで、まるでこちらを警戒しているように感じない。
「・・・で、こっちもまた、か」
いつの間にか魔王様がすぐ近くに来ていた。
近くで見て、珍しく今日はフードをしていない事に気が付く。全身いつも真っ黒だが、フードを脱いでも黒かった。長い前髪に半端な長さの後ろの髪は適当にまとめられている。
不思議な事になぜかこの魔王様にだけは、初めて会った時から回避行動が働かない。
すくい上げられた腕には、このダンジョンで今日下りてくる途中の罠で負った怪我がある。魔王様が何かつぶやくと、ふわりと暖かな魔力を感じた。わざわざ魔王様が治さなくても、止血はしておいたし寝れば治るのに。いつもあっという間に見咎められてしまう。なぜか獣の自分以上に鼻が利く。その自分の鼻が、またあの甘い、いい香りを拾った。
香りの主はこの魔王様だ。
触れている場所が暖かいせいなのか、いい香りがするせいか。魔王様の傍にいると体から余分な力が抜けていく。はじめの頃こそ無防備に近付くことが無いよう、何度も何度も警戒し、相対していたはずが・・・今では危害を加えられることが無いと根拠もなく安心してしまっている。それは確信に近い。
自分の中にこんな感情があったなんて、と自覚したときは驚いた。持ち主にすら、使え無くなればいつか捨てられると分かっていた関係だった。魔王様は不思議だ。傍にいればいつもの自分でいられなくて戸惑ってしまう。なら近付かなければいい、と思っていても魔王様に会わなければ会わないで落ち着かない。最近どうしてしまったんだろう。自分の体の事なのに分からなくて、気持ちが不安定になっているのを自覚する。
もういい、とばかりに思考の放棄をすれば、掴まれていた魔王様の手も払いのけていた。傷を見ればもうほとんど塞がっている。
「可愛くねぇ、治してやってんのに」
つぶやくように自分に向けられた言葉に、胸のあたりがぐ、とつまるような感覚があった。なんだろう、これ。
魔王様といると内側から溢れる感情に振り回され、自分の事なのにわけが分からなくなってくる。魔王様が何か術を使ったのか?と思い、自分よりも背の高い魔王様を下からじっと見上げると、髪と同じ色の瞳と目が合った。ニヤリ、と口の端を上げた魔王様が、私の顔をのぞき込むように身をかがめてきた。
「お前、ほんとに俺が怖くないんだな」
怖い・・・? 魔王様が? ・・・顔がだろうか?
たぶん人間、だと思われる魔王様は、この部屋の隅で眠る魔獣のような威圧感はない。魔力は強いと分かるが、それがもし自分に向けられれば、きっと一瞬だろう。そんな力を持っているのは初めから分かっている事だ。怖くはない。
意味がよく分からなくて考え込んでいると、ふいにグリグリっと強めに頭をなでられた。
なでられたのは初めてだけど、これは好き、かもしれない。
「で?今日も探し物か?」
魔王様の気が済むまでされるがままになり、ボサボサの頭になってしまった。なぜか満足そうな表情で笑う魔王様を不思議に思いながらもコクンと頷く。
「いい加減何を探しているのか言えば、俺が見つけてやるぞ」
・・・しばらく考えて首を振る。魔王様は特に気を悪くした様子はないが、探るような目をじっとこちらに向けている。何かを盗むために来ているわけではないが、もしかしたら私の持ち主から、なにか探るよう命令されているのかと疑われているのかも知れない。言葉で伝える術を持たない私には、探している物を伝える事は難しい。でも魔王様は、その強大な魔力で頭の中を覗くことだって出来るらしい。それなら、私に出来る事はこの目を逸らさないでいる事だけ。魔王様がこのダンジョンで何をしているかは知らないけれど、邪魔をするつもりはないのだと、それだけでも伝わればいい。
ふっと空気が緩んで、頭に手が乗せられた。さっきはグリグリだったが、今度は随分優しいなで方だ。これはさっきのよりも気持ちいい。
「分かってると思うが、中層より下には行くなよ。罠が山程ある。怪我じゃ済まねえぞ」
私はまばたきで『分かった』と返事をしてから、魔王様の脇をスルりと抜け移動する。
頭の上から優しい手の感触がなくなった途端、今度はここから離れがたいような気分になった。
この感情は、なんだろう・・・日に日に強くなる魔王様への様々な感情を自覚しつつ、答えは出ないままでもう一週間だ。
結局その日も探し物が見つからないまま、外が暗くなる前には魔王様によってダンジョンから追い出された。
ダンジョン近くの街へ帰れば、入口に仁王立ちして通行の妨げになっている子供の姿がある。私と同じ位置に耳があり、同じふさふさの尻尾を持つ同族。
私に気が付いてブンブン腕と尾をふっている。
「おかえりーシロー!!今日は見つかったかー?」
遠い位置からそう叫びながら駈け寄られ、そのままの勢いでぶつかられる。
ぎゅう、と抱きしめられてから、お互いのひたいを合わせた。
『ただいま、クロ。今日もナシ』
私が喋ることが出来ないと分かると、ならこうするんだ、と教えてくれた。お互いの脳に直接話すこの方法なら、相手に話しかけなくても考えが伝わるそうだ。
顔の輪郭に沿って切りそろえられた黒く短い髪と、頭の上の耳がいつも元気に動いている。ひたいを離せば、活発で好奇心旺盛な性格を表したような、はちみつ色の瞳と目が合った。
「どこにあるんだろーな?探してもう、ひと月になるのにさ。ま、そのうち見つかるだろ。帰ろ帰ろ!」
ぱっと手を取られて駆け出すクロに、私は引っ張られるようにして慌ててついて行った。
魔王様にダンジョンから放り出されたあと、当てもなく歩き、疲れ切っていた私を拾ったのがクロだった。シロ、というのもクロが付けてくれた名前だ。自分は黒くてクロ、と同じ理由でシロと呼ばれているらしい。自分と同じで力が強く、元気で乱暴な話し方。それはまるで街にいる人間の男の子のようだが、実際はしっかりしていてとても優しく、自分にとっては姉のように頼りになる存在だ。クロが教えてくれなければ、自分の色も知らなかった。髪の色だけじゃない、街での生き方も常識も感情も、自分は何一つ知らないままだっただろう。今も食事を終えて、クロと二人で用意した、清潔であたたかな寝床で一緒に横になって、知ってるか?と前置きされながらまた1つ、新しい事をかみ砕いて説明してくれるのをじっと聞いていた。聞きたい事は袖を引き、ひたいをくっつけるのを合図にしている。
喋ろうと思ったことが今まで無いから分からないが、声を出そうとしても出てこない。その事をクロは、絶対この首輪が邪魔してんだよ、と言う。感情や意思を奪う首輪。ヒビが入ってなければ、今のように自由に行動する事も出来なかったはずだ。街でクロが情報を集めてくれたが、外すには契約者の魔力が必要なんだとか。そもそも首輪は簡単には手に入らないものだという事も。
クロにとってこの黒い首輪は、その存在自体が胸糞悪い物、らしい。私の首から外せない、この首輪に執着する理由を以前教えてくれた。まるで使い捨ての道具のように、意思を奪われ生きる自由を奪う。
未だに無くならない一部の人間による、奴隷のような仲間の扱いが、自分は我慢できない、と。必ず外して自由にしてやる、と強い瞳で言っていたのを思い出していた。
クロは私に、今までの事を何も聞かない。かわりに、私が知らない事は何でも教えてくれた。こんな使い捨てだった自分を拾ってくれたクロ。
そんなことを思い出していたら、シロ、と呼ばれ、クロのひたいが自分にくっついた。名前を呼ばれるのは、嬉しい。
「そういや一週間後に満月だけど、シロはこの日が何の日か、誰かに聞いてるか?」
ううん、と小さく首を振れば、どこか楽しそうな様子のクロが教えてくれた。満月はオレ達が大人になるのに必要なもので、番を得られる日だと。その日は街が祭りなのだと。
番、と聞いてもよく分からなかったが、それはクロではダメなのだろうか。そのまま聞くと笑いながらギュっと抱きしめられて「オレ達は同性だからダーメ」と言われてしまった。
「シロ、番っていい匂いがするんだ。ずっと傍にいたくなるような、特別なやつな」
『・・・クロ、番、見つけた?』
そう嬉しそうに話すクロを見て思わず聞いていた。
少し赤くなって、うつむきがちに頷くクロは、いつものしっかりとしたお姉さんが隠れて、本来の女の子らしさが顔をのぞかせている。聞けば、相手は自分よりずっと大人で、自分よりたくさんの事を知ってて、だがそれを自慢したり態度に出したりもせず、自分のような子供相手でも馬鹿にすることのない立派な人で、とても尊敬してると。
今はまだ子供扱いされているが、きっと満月の日には。・・・口には出さずに、ひたいから流れてくるクロの言葉には、不安の中に強い意志があった。
自分にはまだその気持ちは分からないが、いい香りは知っている。
優しく包んでくれる寝床の香りも、きれいな花の香りも、美味しそうな焼きたてのパンの香りもみんな好きだ。どれもこの街で初めて嗅いで覚えたものばかり。
その中でも一番好きなのは、やっぱり魔王様の香りだろうか。
あれは何の香り?魔王様はつがいなの?自分と同じ匂いを、相手も感じているんだろうか?
考え事をしていると、クロに「最近のシロは魔王のことばっかだなぁ」と笑われた。そう・・・だったろうか?クロが言うならそうなのか。ひたいを付けたまま考え事をしてすべて筒抜けだった事に今頃気が付いた。
ふと顔を上げれば、いつの間にか体を起こしたクロの視線が、自分の首元に注がれている。
「・・・そうだよ、魔王だ!魔王ならさ、外せねぇかな?コレ。魔王の魔力って膨大なんだろ?シロの持ち主より多いなら、ヒビもあるしパカッと外れそうじゃねぇ?」
まるで名案を思い付いたかのような様子のクロが、明日調べてみよ!と、ひとり張り切りはじめた。クロと私の魔力では外せなかったこの首輪が、持ち主以上の魔力を持つものに外すことが可能かどうか、他になにか条件があるのかどうか、クロは独り言をつぶやきながら明日調べる事を確認している。生憎まだ簡単な文字しか読めない自分に手伝いは出来ないが、もし可能ならクロに悲しそうな顔をさせることは無くなる、と考えると自分でも名案だと思えた。
やさしく握られていたクロのあたたかい手が離れ、そっと首輪を持ち上げる。その下の皮膚には、重い首輪で擦れて赤くなった筋がいくつかついていた。血が出るほどではないが、それを見ていつもは悲しそうな顔をしていたクロが、今日は笑顔で傷に薬を塗ってくれた。塗らなくてもこの程度なら明日には薄くはなるが、クロはそういう事じゃない、と言っては毎日こうして薬を塗るのを欠かさない。そんな優しいクロが、自分の傷を見て心を痛めてくれているのを、今の私はちゃんと知ってる。・・・そうか、魔王様も、クロと同じかもしれない。だから毎日治してくれているのかも・・・と考えたところで、なんだか胸の奥が暖かくなるのを感じた。最近よく感じる熱いくらいのそれがなんて感情なのか、なんとなくクロに聞きそびれている。また魔王のことか、と言われて笑われそうで・・・
次の日、朝からいつものように街でクロと働く。力のある自分たちの種族はこの街で重宝されている。自分の中にある魔力の使い方をクロから教わり仕事をこなせば、やわらかな眼差しとありがとう、というあたたかい言葉が返ってくる。そうして労働力のお返しに、食べ物や必要な物を貰っているのだとクロから教わった。大きな街ではないから、支え合い、助け合いながら生活している優しい住人たちに囲まれ、今までにない日々を過ごしている。こんな平穏な日常を送る事になるなんて、あの持ち主の下にいる時には考えた事もなかった。
ここ数日は街のいたる所で、来週の祭りの準備、という言葉をよく聞く。その為に人の出入りも最近は増えて、街の住人ではない人間もよく見かけるようになった。最近来たばかりの自分に街の人との違いはうまく言えないが、自分を見る目が、違う。クロは気が付いているだろうか。あの、物を見るような目を。クロは知らなければいい、知らなくて、いいと思った。
そうしてお昼まで働いた後に簡単に昼食を取り、午後からは別行動になる。クロは昨日の話にもあった調べものをする、と図書館へ。私はお決まりのダンジョンへ向かっている時だった。いつもと違い、どこか緊張している自分に気が付いた。昨日からずっと魔王様の事を考えているせいか、これから魔王様に会う事を意識してしまい、なぜか、早く会いたいと早足になっていく。
この壊れた首輪は魔王様なら外せるのか。クロと同じように、ひたいを合わせれば聞けるだろうか。外せたら、話してみたい。魔王様には名前があるのか教えてほしい。つけてもらった、自分の名前を伝えて・・・魔王様に私の名前を呼んでほしい。
胸の奥で『話がしたい』という欲求がどんどん生まれてくる。ムズムズするような、いつもの落ち着かない気持ちでいっぱいになっている。落ち着かなくて少し戸惑ってはいるが、不思議と嫌な気分ではなかった。
いつもダンジョンにいる魔王様、何をしているんだろう。今日は、魔王様と一緒にいたい。話せなくてもいいから。日が暮れるまででいいから。いつも探している、あのナイフの事よりも。
魔王様の傍に。
毎日通って見慣れたダンジョンの入り口に着き、そう考えていた時だった。
___後ろの方から覚えのある、懐かしい魔力を感じた。
少し、片足を引きずる癖、独特な足音をまだ覚えてる。
変だ、懐かしいなんて。まだ時間は経ってないのに。
この魔力は・・・
「・・・ああ、やっぱり。お前なら、ここにいるだろうと思っていたよ」
ゆっくり振り返れば、私の持ち主がいた。皺だらけの顔がにんまりと笑っている。
それまで感じていたあたたかな気分は一転、凍り付くような寒さに変わる。そうだ、この人といると私、ずっと寒かったと感じていた事を思い出す。
やっぱり、持ち主は生きていたんだ。魔王様に初めて会った時、水の玉の中で漂ってはいたが、あの魔王様があの時全員を殺したとは考えられなかった。何より今も、ダンジョンにいるあの魔獣が、自分が目の前にいるのに何もして来ないのは、魔王様の命令がないからだろう、と。そうでなければ自分を捕まえようとしていた魔獣の行動に説明がつかないとも考えていた。・・・いつか、持ち主は戻って来るような気がしていた。この首輪をしている限り、また会う予感はあった。でも私は、会いたかったわけじゃ、ない。
絶望に似た感情に支配され、その場から動けない私へと差し出された持ち主の手には、あの、透明な刃のナイフがあった。
私の頭の中へ、魔力の込められた命令が染みのように広がっていく感覚も、凍えた心はどこか懐かしいと感じていた。
そうして、また言葉が響く。
『さあ、今度こそ、力を手に入れるとしようか』
頭が、痛い。 今まで痛みなんて感じたことがあっただろうか。
腕が、重い。 垂れ下がった左腕からは血が止まらない。
背中が熱い。 確認しなくても、魔物から受けた傷が深いと分かる。
それでも足は、進むことを止めない。それが持ち主の命令だから。
この目の前の罠さえ解除出来れば、位置的に最下層への道が現れるはず。だがその門扉は固く閉ざされ、私に残る魔力を注いで破壊するのがせいぜいだろう。破壊した後私がどうなるのか分からないが。
「・・・っくそ!まだ罠は解除出来ないのか!? ここまでワシに傷を負わせおって、この役立たずの愚図が!」
随分と持ち主はご立腹のようだ。私は罠へと魔力を注ぎ込みながら、持ち主の舌打ちと怒声を聞いていた。それもそうだろう、随分遠回りして最下層まで降りてきたんだから。だが『魔王に気取られる事なく最下層へ』という命令に背いてはいない。
不思議な事に、すべての意識までは奪われず、ほんの少しの意思は残っている。きっとヒビが入っていることに気が付かれてはいないのだろう。そのおかげで、魔王様の魔力を感じ取り、悟られないように迂回してここまで来る事は出来た。
でも本心は、決して持ち主の命令通りに魔王様を避けてきた訳ではなく、自分のせいで持ち主をダンジョンに引き入れて、自分たちの死に際に迷惑をかける事が嫌だっただけだ。死ぬなら跡形もなく塵になるか、魔物の腹で持ち主と共に逝けばいい、と本気で考えての行動だった。
遠回りすれば罠や敵への遭遇も増える。重症の私が庇いきれなかった罠が、少なからず持ち主も傷つけ体力を削り、疲労も感じている事だろう。魔物も罠の位置も把握していない中層より下、私が魔王様の言いつけを守って降りなかった場所は上と大違いだった。正直、これほどの傷でもまだ動けるんだな、と自分の頑丈さを改めて認識していた。
まだ動く右手にはあのナイフを握っていた。透明な刃は魔物の血で染まり、私の好きだった美しさは失われている。でも確かに私が探していたものだ。
このナイフが、ナイフだけが、以前の自分が執着していた物だった。見つけられれば、魔王様に出会う前はどんな自分だったか、何を考えていたか思い出せる気がしていた。
でも実際に手にして思い出したのは、からっぽな自分。ただ命令を聞くだけの人形。思い出すような過去の自分なんてものは何もない、あの部屋で座りこんだままの、凍えた目の自分。
でも、それを思い出したおかげで、今分かった事もある。
だんだん近づいてくる香りも、良く知る強い魔力も、私の心を乱したり落ち着かせなくしているんじゃない。魔王様の存在に喜んでいる、“嬉しい”って感情なんだと。
____ああ、そうか。魔王様に会いたかったのは、私の意思だったんだ。
「・・・今日はまた、めんどくせえ事になってんな、おい」
魔王様の、声が、いつもよりかたい気がする。きっと、怒ってるんだろう、な・・・
血を流し過ぎたのか、だんだん頭がぼんやりしてきた。
振り向けば見える魔王様の姿を、なんとか見ようとするのに。体が重くて仕方がない。
持ち主が代わりに振り向き、いかにも芝居がかった様子で驚いてみせる。が、すぐさまここまでの怒りを爆発させるかのように態度を豹変させた。
「これはこれは!このダンジョンの主様ではありませんか!・・・また邪魔をするか、忌々しい!お前になど用はないわ!!さっさと最下層に眠る若返りの力をよこせ!!」
「懲りねぇな・・・そんなもんここにはねえよ、と前回も言ったはずだろうが。忘れたか?」
「嘘をつくな!お前の存在こそがその証拠だろう!一体何百年生きている!?ここにいれば老いる事も死ぬ事もないのか!?不死に近いその力を、わしに!よこせぇええ!!!」
・・・そうか。私の持ち主は、その力を探してダンジョンに潜り続けていたのか
その細い体のどこから、という大声が持ち主から魔王へぶつけられる。どれだけの執着だろう。なのに当の本人は聞き流しているのか、一言返したきりまったく反応しない。
持ち主のイライラとした感情が、魔力に乗って私へ流れ込む。待ちきれなくなったんだと分かる。
『あの邪魔な男を、今すぐに殺せ!無理でもお前が死ぬまで足止めしておれ!あとの解除はわしがやるわ! ああ、忌々しい、忌々しい・・・そこをどけ!』
・・・殺す?だれを?
重たかった体が、すんなりと魔王様へ向き合う。私と目が合えば、いつものように眉間にしわを寄せて、不機嫌な、いやそうな、顔・・・ああ、違う。そうじゃない。魔王様は、魔王様は毎日、私の体の心配をしてくれていたんだ。だからいつも、私の怪我に気が付いてくれた。今頃になってやっと、そのことに気が付けた。
ちゃんと、気が付けて良かった・・・。
何を驚いているのか、目を開き、珍しく私の顔を凝視する魔王様が見える。こんな顔もするんだ。・・・もっといろんな顔、見たかった。
こんな私を心配してくれた、優しい魔王様。もう一度、頭を撫でてと伝えられればいいのに。
この人を傷つけたりなんて、できない
右手にあったナイフは、いつの間にか私の手を離れ地面に落ちていた。
罠を発動させるにはどうすればいいか
最深部への道を守るそれがどれほどの威力か
持ち主からの頭が割れるような痛みを伴う強い強制力も
自分の命すら全部どうでも良かった
ただ、罠が魔王様にまで届かなければいい、とだけ願って、残った魔力を放出し尽くす
持ち主と私へ、故意に発動させた罠が襲い掛かるのを確認する前に、私は意識を手放していた___
*****
「・・シロ・・・っ、シロ・・・?」
・・・クロの声がする。・・・泣いてる?なんで・・・
「・・・!!シロッ、よ、良かったっ・・・魔王!シロが!」
・・・まおう、さま・・・
香りのする方へ顔を動かし、重いまぶたを何とか持ち上げ、見えた姿にホッとする。
少し離れた所で、壁に背を預けて立っている魔王様。相変わらず眉間にしわを寄せて、不機嫌そうな顔をして・・・
でも、いつもと違う?
あれ、ここは・・・ダンジョンじゃない?
何が違うのか、違和感を感じたままぼやける視界を動かしてみれば、ここが見慣れたクロの家だと理解する。魔王様がゆっくり私の傍にきて、ようやく自分が横になっていたんだと気が付いた。
音を立てずに近づいた魔王様の手は、そっと私の首輪に触れて魔力を動かしているのを感じる。
程なくして、パキ、と小さな音とともに、そこにあった感触が消える。クロの「首輪が・・・」と呟く声が聞こえた。
魔王様の手の中にあるのは、自分の首にあったものに見える。そっと首輪の表面をなぞる指が、見つけたヒビを確かめるように動いている。
「・・・これか。お前が自由に動けた理由は・・・この首輪の持ち主なら、もう二度とお前の前には現れねぇよ。前回捕まえた時は金積んですぐ出てきたけど、な。この首輪を外せば、居場所を特定される事もない」
だから、と続ける魔王様の顔はクロに向いていた。
魔王様とは私を挟んで反対側にいるクロは、泣き顔から笑顔に変えて「それホントか!?」と首輪が外れた事を自分の事のように喜んでくれている。
それを確認するかのように眺めていた魔王様が、ため息とともに続けた「番、か」という言葉は小さくて、私にはうまく聞き取れなかった。身体同様に感情までマヒしてしまったのか、首輪が無くなった事も持ち主の事も自分の心には何も響かず、ただ傍にいる魔王様だけをぼんやり見つめていた。
きっと、心のどこかでは気が付いていたんだ。もう、ダンジョンに行く理由が無くなってしまった事に。何度も来ては怪我を負う私に、普通ならかけられる言葉にも。だから、に続く言葉が今言われると思わなかった。魔王様の手の中から首輪が消えると同時になんでもない事のように言われ、私はすぐには反応することが出来なかった。
「だから・・・お前もう、ダンジョンにくんなよ?」
言われた言葉の意味が、理解できない。
そんな私の頭へとそっと、魔王様の手が乗せられて。一撫でして離れていく。
・・・頭に触れた手のひらから、魔王様の魔力がカラに近い事を感じ取って、私は目を見開いた。
罠が、魔王様を傷つけたのだろうか?私の行動によって、その豊富な魔力を消耗させてしまった?心配ばかりかけて、もう私が疎ましくなった・・・?
何が悪かったのか考えながら、その時になってようやく感じていた違和感の答えを見つけた。
いつもと違うのは、その瞳に私がいないから。目が覚めてから、一度も、いつも必ず合わせてくれた視線をつかまえる事ができない事。そして、今の言葉とこの行動が、自分を拒絶している事に気が付いてしまった。
まって
まって、まおうさま
シーツを掴む自分の手に力がこもる。自分が何に焦っているのか分からないまま、魔王様を引き留めることで頭がいっぱいになる。このままでは行ってしまう。もう、会えなくなってしまう。
まって
お願い、まって・・・いやだ!
「・・・ッ!!」
言葉のかわりに伸ばした右手は、こちらに背中を向けその場で転移してしまった魔王様に、触れる事はかなわなかった____
********
この数日、食べ物の味がしない
クロが心配するから、体を回復させるため、そんな理由を付けてはなんとか食事を口へ運ぶ。
残さず食べているけれど、クロの表情は曇ったままだ。
あの日、クロが夜になっても戻らない私を心配しながらも、街の入り口から一度家に戻ってみれば。家の入口にうずくまり動かない魔王様がいたという。まわりに漂う血の匂いに、けがをしたのかと声をかけようと近付きよく見ると、その腕の中に抱えられた私が血まみれでぐったりしている事に気付き、言葉が出なかったと聞いた。部屋に入ってクロが血をぬぐい、手足の怪我に包帯を巻く間も、魔王は背中の一番出血の多い怪我を治癒し続けてくれていた、と。
あれから3日経った頃ようやく体を起こせるようになったが、頑丈なはずの自分がこんなにも動けない怪我は初めてだった。体の表面の傷はふさがっても、内側のダメージや失った血液は相当な物だったろう。それこそ、魔王様がいなければ間違いなく、死んでいた程の。
クロは、私の体が回復して、また危険なあのダンジョンに行くのが嫌なのだろう。当然だ。目が覚めた時、あれほど泣かせてしまった怪我だ。心配しなくても、きっとあのダンジョンに行くことは二度とないのに。
そう、首輪もなくなり、もう持ち主が現れることもなく自由になったというのに。
傍にいたい人には会えない。話したい人の顔が見られない。ごめんなさいと伝える事も叶わない。自分が魔王様にしたことをもっとよく考えようとするのに、頭の中は魔王様に来るなと言われた言葉を思い出し、心も体も身動きとれない日々だけが続いていた。
クロはそんな私の状態をよそに、随分忙しそうにしていた。起き上がれるまでは傍から極力離れずにいたが、近頃は頻繁に家を出入りしている。なんだか自分ひとりが家にいる事が申し訳ないと感じるほどに。その事を謝ると「余計な事考えてないで、怪我人は休む!」と、食事以外で体を起こすと怒るようになってしまった。それが自分を心配しての事だと解るだけにあまり強く出られず、自分の悩みは一先ず横へやって、頭も体も休める事に専念して眠り続けた。
そうしてじっとしていたのが良かったのか、ここ最近は体も随分回復して元に戻りつつあるのを感じていた。
しかし、明日からでも働けるくらいにまで体力も回復した、と言ってもクロはなかなか許してくれなくて、まだ起きるなよと外へ出かける度に念を押される始末。
そうして今日も、ベットに横になったまま何をするでもなくぼんやりしていたが、外からはたくさんの人の笑い声や、あわただしく行き交う足音、誰かを呼ぶ声が絶え間なく部屋にいる自分の耳に届いてくる。
なんだか今日は、表がにぎやかなようだ。
そこへ、クロがひょっこりと顔を出した。
「シロ、飯できたぞ。食ったら準備しような」
準備・・・?と考えて思い出す。今日はクロが以前から言っていた、満月の日だった。
番を得られる、特別な・・・それも、魔王様に聞けないままだったと思い出して気持ちが沈む。
もう自分には関係ないと思って食事をすませ、誘ってくれたクロに断りを入れて部屋に戻ろうと考えていたら。入口から何人もの人が手に荷物を抱え、賑やかに話しながらどんどん入ってくる。見れば近所に住む女の人ばかりだ。
「こんにちわ~クロちゃん!準備はいーい?」
「シロちゃん久しぶりねえ~元気になったのね!」
「来た来た!おばちゃん達、お願いします!」
「じゃ、シロちゃんは奥の部屋で準備しましょうか♪」
え、クロ?なんの事?
聞く暇もなく、両脇から二人のおばさんに背中を押されて移動する。振り向いた先のクロは、いい笑顔で私に手を振っているが、自分の両脇に立つ別の女性たちを見上げ不思議そうな顔をしている。
「あらあら?クロちゃんも準備するのよ?」
「え、えッ?いや、おれは自分でできるからっ」
「やだ何言ってるの~、さあ着替えましょうねぇ~?可愛くおめかしして司書さんの所に行かなくっちゃね!」
「え!?お、おばちゃん達なんで知ってんのさ!?」
「うふふ!あら、クロちゃんはまずお風呂からかしら。さぁさ、時間がないわ急ぎましょ!」
「頼んでたのはシロの事だけなのに、なんで俺の方まで!?まっておばちゃん、風呂くらい自分で出来るから・・・やー!待ってぇー!」
その場で楽しそうな様子の3人の女性に囲まれ、引きずられるように洗い場へ連れていかれるクロを見て、自分は無抵抗でいようと早々に決めた。
「さぁ、間に合ったかしら」
もう1人の女性に、お疲れ様、と声をかけられて閉じていた目を開けた。自分の頭の上から下まで確認してから「完璧だわ~♪」と喜ぶ2人の姿がみえる。
「丁度シロちゃんもクロちゃんも準備できたみたいね」
後ろからかけられた声に反応して部屋の入口へと体を向ければ、少し離れた所に、同じように準備が終わった様子のクロがいた。いつも寝ぐせがついていた短い髪は綺麗に伸ばされツヤツヤとしており、頭には花の髪飾りを付けて、同じ花の刺繍が入った真っ白いワンピース姿で立っていた。いつもの男の子のような動きやすい服装ではなく、ふんわりとした印象の女の子らしい装いをしていた。その顔は疲れているようだったが、目が合うと少し驚いたように目を見開いている。スカート姿のクロなんて初めて見たけど、黒い髪に白い服、後ろで大きく揺れる、長いしっぽのどれも綺麗に整えられ、ものすごく似合っていた。
「可愛いから気合入れちゃったわ♪」
「ふふ、ほんとね!うちの子のおさがりだけど、良く似合ってるよ二人とも」
「やだもう本当、普段も可愛いけど、今日は一段と可愛いわねぇ~」
「「本当ねぇ~!!」」
入り口から他の女性陣たちも顔をのぞかせてほめてくれる。私の両脇に立つ二人も、大きく頷いて同意してくれた。
シロちゃんもみてみる?と渡された手鏡を見れば、そこには真っ白な髪を肩で切りそろえられた、青い瞳の自分がいた。クロの髪には白い花の髪飾りだったが、自分の髪には青いリボンが緩く編み込まれている。視線を鏡から下へ移せば、クロと同じような白くゆったりとした、袖口に細かな刺繍の施された服を着て、胸元にも大きめの青いリボンがあった。こんな服着たのは初めてで、嬉しいよりもなんだかそわそわととても落ち着かない。とそこへ
「シロ~、シ~ロ~・・・!!めちゃくちゃ可愛い~!!」
クロが言うが早いか、勢いよく飛びついてぎゅうっと抱きしめてくれる。こちらのセリフだと思うが、自分から見たクロと、同じようにシロに見えているなら嬉しいとも思う。こうして準備してくれたクロの気持ちも。
『クロ、おばさん達に聞いた。私の為に、ありがとう。うれしい』
着替える前、自分の寝ていた部屋に移動してきた時に、おばさん達が教えてくれた。
クロちゃんが、シロちゃんを元気付けたいって、やり方を教えてほしいって、この服を用意していた事。本来は家族が準備する事だが、私達の申し出を断り、俺がシロのお姉ちゃんだから特別可愛くしてやるんだ、と言って頑張っていた事。慣れない刺繍に、指を何度も刺すから服が真っ赤にならないか心配だったと笑いながらも、今日までみんな応援して見守ってくれていた事を。
少し恥ずかしそうにしながらも、バレたか~と笑う。クロの着ている服は、おばちゃん達が自分の子供に着せたものをほんの少し、手直ししてくれていると聞いているが・・・さすがは年の功というべきか。新品のように細かく丁寧な仕事ぶりに、俺がしたのと比べ物にならない、とすまなそうにクロは言う。だが、クロが自分の為にしてくれた事が嬉しいんだと改めて伝えれば、私が喜んでいる事が俺も嬉しい、と言ってようやくいつもの笑顔に戻ってくれた。魔王様に感じるのとは違う、けれども胸がいっぱいになるような暖かな感情が次々に溢れてくる。魔王様も大切だけど、クロの事も間違いなく大切だという気持ちをこめて抱きしめ返した。
だが、こんな格好をして一体何をすると言うのだろう。近くにある頭にそっとひたいを近づけた。
『ねえクロ。これを着たのは、何のため?』
すっかり機嫌の戻ったクロの耳はピンと立ち、至近距離にある顔は満面の笑みで。はちみつ色の瞳までもが楽しそうに煌めいている。その場では答えず、外へいこう、と手を引かれる。にこやかに見送る女性陣に「ありがとう!いってきます」と手を振るクロとともに部屋を出た。
夕方に食事を済ませてからはじまり、ようやく解放されて外に出れみれば。そこは夕闇に染まりはじめの、やわらかな色合いに包まれていた。各家の入口や軒下は色とりどりの花や飾りで溢れ、緩やかな炎の灯りが所々でゆらゆらと通路を囲み、街の中心部に向かって明かりが多く見える。あちらはきっと出店や屋台が多くひしめき合い、たくさんの人で賑わっている事だろう。いつもと表情を変えた街並みを、街の人々も慌ただしかった昼間とは一転、どこか楽しげで落ち着かない様子で通りを歩いている。
そんな街の中を、どこかに向かいながらクロと歩く。
「この街は明日から祭りが始まるんだ。街の人は近くの湖に祀られる女神に、今夜この一年の豊穣の感謝を捧げ、楽しいことが好きな女神の為に街中で祝う5日間なんだって。でも、俺たちの種族は別の意味の方が大きいな。今日は特別な日なんだよ」
特別な日には特別な服を着る事。番を得ることで、子供から大人の仲間入りをする事。俺たちは番う相手がいないと大人になれないんだ、と話すクロは、いつか教えてくれた時の不安げな表情は無く、まっすぐに背中を伸ばし、しっかりと前を向く姿はどこか吹っ切れたかのように見える。
だから、とクロが立ち止まったのは街の入り口。つないだ手を離しギュっと抱きしめられる。
「俺、頑張ってくるから。また、子供扱いされるかもしれないけど、今夜大人になれなくても、それでも、頑張って伝えてくるから。だからシロも頑張れよ。魔王にちゃんと助けられたお礼とか、伝えてこいよ。魔王が番かそうじゃないかなんて関係なく、シロにとっては大事なやつなんだろう?」
そう言って顔をのぞきこまれ、何度もうなずく。
うん
うん、大事なひとなんだ
大事だから会えなくて寂しくて
最後の言葉が悲しくて
もう一度会うのが怖かったんだ
でも
クロも頑張るなら
私も、頑張る
ひたいを合わせ、見つめ返して決意を伝えれば「今日は特別な日って言ったろ?シロがしたいようにするのが一番だ」と、ふわりとやさしい笑みが返された。
たくさん心配かけたのに、またダンジョンに、危険な場所へ行く自分の背中をそっと押してくれる。
クロにありがとう、と意味をこめて自分から抱きしめ返し、魔王様のもとへと私は走り出した。
いつかも、この道を魔王様の事を考えながら通った日があった。今はあの頃よりもっと、魔王様への気持ちは強い。したいように、とクロは言ってくれた。
私のしたい事は。
私の、気持ちは。
********
ダンジョンに近付くとすぐに、いつもと何か様子が違うと気が付いた。
久々に体を動かしたせいか、なかなか落ち着かない息を整えてから気配を消し、違和感を確かめる為に草や木の多く繁る場所で姿勢を低くして様子を探る。何人もの人間が、ダンジョンの入り口付近にいるのを見て、すぐにその集団が何なのか分かった。
いつか見た光景。生気のない人形たちと、その持ち主達と、護衛の男達。自分が初めてこのダンジョンに来たその日の光景、そのままだった。
唯一違うとすれば、あの日、水の中に浮かぶ彼らを見ても何も感じなかったというのに、今ボロボロになった同族達を目にして、湧き上がる感情は怒りだ。街での生活の中で、モノではなく、シロという自分を大切にされて育った心の感情は、この同族達の扱いを理不尽だと悲しんでいる。クロがあの日、許せないと言っていた事が今なら理解できる。なぜ、こんな使い方をされるのか。どうにかして解放してやりたい、そう考えていた時だった。
「・・・時間だな。おい、ホントにうまく行くんだろうな」
「ああ、俺たちは何もしなくていいんだ。一気にこのダンジョンを水で満たして、その後凍らせて一晩置いときゃ、魔物も魔王も勝手に死ぬ。まあ死ななくても、俺たちの前に出てくればいい。仕事はそれからだ」
ハハハッと笑う人間の集団の声は大きく、ここまで聞こえてくるその内容は、簡単なようでいて無理があり、そんな事で魔王様が死ぬとは思えない位に無謀なものだった。魔王様は強い。私が心配するような必要は全くない。分かってはいても心臓が早鐘を打つ。
だが、自分の持ち主だった男と人間たちの目的が違うように感じる。それが何かを考えていると、人間たちの中に、理由を知る人間がいてすぐさま人物が特定できた。そうして自分と同じように、この作戦が無謀だと、不安を感じただろう別の人間の声が続く。
「あの魔王が邪魔だと恨んでる爺さんがいるんだと。何としてでも息の根を止めないと気が済まないらしいぜ。そのために大金や道具を用意するんだ、相当いかれちまってる」
「待てよ、ほんとにそれで魔王が殺せるのか?しかもその膨大な水と魔力、ホントに人形はこれで足りるんだろうな?体力が持つのか?こいつら」
「あー?用心深いやつだな、こっちには魔王を殺せるとっておきがあるんだよ!人形なら足りないならそこの街から連れてくりゃいいだろ」
とっておき、と言った男の手には小さな丸い石が握られていた。あれは、確か自分の持ち主だった男も持っていた。首輪をつけた相手から魔力を抜き、それを自由に使える道具。魔王様の魔力を抜いて、魔王様を殺すために使うのか。ありえない、と分っていても不安になる。ここにいる人間の数は多い。それを確認した所で、続く言葉に耳を疑い動きが止まる。
・・・今、人形が、街にいるって・・・
それを肯定するかのようなやり取りを行っているのは、確かに最近街で見かけた覚えのある人間のものだった。
「・・・あぁ、確かに何匹かいたか。祭りの準備で人手不足とかで最近までいたが、結構魔力持ってるやつが中にいたな」
「街にいるのは普通、その街との契約があって無理だろ?だがこんなはずれの街にいるのは持ち主とはぐれたか、もともと野良かだ。首輪があったのに自由に街を出入りしてる所を見ると、保護されてるって訳でもなさそうだ。ま、あいつらが街から消えた所で問題ねぇ」
全身の毛がぶわっと逆立つ。
何人か、と男は言ったが、街で首輪をしていたのはシロ1人だけだ。一緒にいたクロまで、人形と呼ばれた。クロは違う。私より街で長く生活していて、みんなに愛されてて、そのおかげで自分も街に受け入れてもらえた。そのクロを、どうせ街でも使い捨ての人形だろう、と笑う人間たちへと向け、ゆっくりと立ち上がり一歩を踏み出す。
その歩みは徐々に加速していき、人間たちへと迫るがまだ誰も気が付かない。
「おい、こっちの準備はいいぞ」
「よーし、そろそろ行くぞ!あの邪魔なクソ魔王を殺して一攫千金といこう!」
頭の中が沸騰しそうに熱い。以前感じたものより強い怒りが体中を暴れまわり、もう身を潜めてじっとしているなんて出来なかった。
同族を使い捨てにするあいつら
クロを人形だと笑ったあいつら
魔王様を殺そうとするあいつら
ゆるさない
私の大事なひとたちに、手を出すなんてゆるさない・・・!!!
「人形、魔力をこっちに流せ」
『人形、お前の魔力をよこしなさい』
術を使おうと、とっておきと呼んでいた丸い石を取り出す男の声に、自分の持ち主だった男の声が重なる。人形は私の名前じゃない。私の行動を決めるのは持ち主じゃない。今の私は、自由だ。私の大事なひとは、今度は私が守るんだ。
「・・・あ?」
「なっ・・・」
一番後方にいた2人の男が同時に宙を舞った。
腕をつかむと同時に手に魔力を集約させ、後方へと投げる。街で働いた時クロから教わった、荷物を持ち上げるコツ。自分に出来る魔力の使い方。そのまま目の前にいる、先ほどの声に振り返った男も同じように宙へと投げた。
「な、なんだ・・・?」
ようやく異変に気が付いた残りの人間たちがこちらを振り返る頃になってやっと、はじめに投げた男の落ちる音がした。そのまま別の男に近づき、手を掴んで同じように投げる。投げる時に、腕がねじれる歪な音と悲鳴を聞いた。残った男たちはまだ実感がないのか、ぼんやりとこちらを見ていて言葉も発しない。一番手前の男の元まで行けば、自分をようやく認識したのか小さなかすれた声を出した。
「・・・に、人形?・・・ぅぐっ!!!」
触れた手を離すと力が抜けたように足元に崩れ落ちた男が、地面に横になって泡を吐きながらビクビクと痙攣している。
残りの人間は、何が起きたのか分からないのだろう。自分の魔力を帯びた右手をぼんやり見つめ、あまり魔力を持たない人間に過剰な魔力を流せばこうなるのか、と冷静に考えていた。人間のいう船酔いに似たもの、この場合は魔力酔いか。動かなくなればこれでもいいか、と足元の男に無感情な視線を向けた。
人形と呼ばれたのは久しぶりだ。自分は人形だった。それは隠したい事でもなんでもない、ただの事実だと受け止めている。
だけど、それは私たちの種族の名前ではない。クロのことでもない。私はもう、人形じゃない。
「ひっ・・・な、なん、なんだおまえ!!」
ようやく言葉を絞り出した男に触れると同時に、先程の男同様地面に崩れる。それを見ていた同族達の持ち主であろう男が「・・・なにをした?」と独り言のようにつぶやいた。何をした、のかも分からない人間が、魔王様に何か出来るとは思えない。一歩、また一歩と、残った人間3人に近づいた時だった。「そいつを捕まえろ!」という持ち主からの命令を、忠実に守る同族が一斉に自分を囲み、自分たちの怪我にかまう事なく全力で動きを拘束してくる。触れ合った肌からは、魔力も体力も限界に近い同族達の声なき悲鳴が伝わってきた。細い手足、軽い身体、錆びた匂い。そのどれもかつて自分も持っていた。
胸がいっぱいになりそうな悲しい気持ちをひとまず押しやり、魔王様と同じように首輪を破壊できないかを試すと決めた。私の魔力の量は確かに多いが、この首輪には効果がないのは以前私の首輪を外そうと、クロと共に試して知っている。
でも・・・今の私の中には、魔王様の魔力がある。
____ダンジョンで大怪我を負った、あの日。
身体を横たえ、怪我を癒すという名目でぼんやりと過ごす日々の中、身体の奥に自分の物ではない魔力があるのに気が付いた。何度も感じた暖かなそれが、私の大怪我を治すために大量に送られた、魔王様の魔力だと思い当たった時。真っ先に魔王様の体を心配した。自分たちのように眠れば回復するにも限界があるはずだ。むしろ、魔王様も同じように体を横たえているのかと想像したらいてもたってもいられず、早急に返しに行こうとして、思い出した言葉に足がすくんだ。会いに来るなと言った魔王様。会わなくても、私が完全に傷を癒すのに必要な魔力を、あらかじめ私に残してくれた優しい魔王様。今の状態は、自分の行動がすべての元凶だと激しく後悔しながらも、会いたくてたまらなかった日々。
本当はずっと、魔王様に返すべき魔力だと思っていた。だけどこうして、苦しむ同族達を前にして、自分がどうしたいかの答えは決まっていた。
魔力・・・返せなくてごめん、魔王様。 でも、私・・・みんなを自由にしたい!
同族の首輪にだけ意識を集中させ、そこへ向けて魔力を一気に流す。右腕と前方にいた同族の首輪から、パキンと軽い金属音が鳴り、首輪の機能を破壊して見た目にはまったく変わらない『ただの首輪』にしてしまう。首輪を破壊できた同族の力が緩み、不思議そうな表情を浮かべこちらを見つめている。なんとか破壊出来たが、魔王様の魔力と自分の魔力は身体の中で随分溶け合ってしまい、使うたびに自分の魔力もごっそりと消費したのを感じる。だが今やらなければ後々こんな機会が訪れるとは限らない。今度は左側にも意識を集中させながら、ひとつ、またひとつと首輪から解放する。自分の魔力だけでは足りず、全員の魔力を分けてもらいながら同族すべての首輪をなんとか無力化した直後、残っていた人間に背後から拘束され、手足は肉に食い込む程の力で紐で縛られ、自力では動けない状態で地面に転がされていた。同じように魔力酔いで動けなくなった2人の男が視界にはいる。こんなことなら、あの人間たちに魔力を流したのは失敗だったと苦い気持ちでいた。
同族の開放に意識を向けすぎた結果がこれでは、街にいるクロも危険だ。動けない身体でも何か方法がないか、必死に考えようとするのに、どうしよう、どうしようと焦る気持ちが考える力をどんどん奪っていく。
「くそ、何しやがった!?人形もこいつらも使いもんにならねえ!!」
「・・・これじゃ作戦は見送りだな。魔王を殺るにもこんな状態じゃやるだけ無駄だ」
地面に崩れ落ちた男達の様子を見てきた人間ものだろう、怒鳴り声が周囲に響いている。同族達の持ち主の男は冷静な声だったが、邪魔をされた苛立ちを隠していないのが声で分かる。
「おい、こいつどうする」
頭の上から声がしたと思ったら、力いっぱい腹を蹴られ、距離のあった男2人の傍まで吹き飛ばされる。久々に感じる痛みは強烈で、一瞬痛みで頭が真っ白になる。きっと地面に落ちた際に骨でも折れたのだろう。そのまま背中からも蹴り飛ばされて、どこが痛むかも分からなくなるのはすぐだった。
気が付けば、離れた場所に身を寄せ合ってこちらを見つめる同族が見えた。青い顔をして、魔力切れを起こしているようだったが、動けない訳ではなさそうだ。首輪の効力が切れている今なら。人間がこちらに集中している今なら。はやく。
に げ て・・・っ に げ て
伝わってと願いながら、なんとか口を動かす。気が付くまで、何度も。
だが、次に蹴り上げられた時は同族達とは反対側で、みんなの顔が見えなくなった変わりにダンジョンの入り口が見える位置まで転がった。・・・こんな時なのに、ここにくるのは随分久しぶりだ、と痛みでぼんやりする頭で考えていると、男の1人が何かに気が付き、自分のすぐそばに屈んだ気配を感じる。
「なぁ、見ろこいつ。今日の祭りで番が出来るんじゃないか?」
「あ?・・・よく見りゃそうだな」
「おい人形、お前街にいたやつだろう?なんでこんな所に・・・なぁ、番のやつと待ち合わせでもしたのか?なーんで現れねえんだ?くくっ、俺たち見て逃げたのか?」
「可哀想になあ、お前、番に見捨てられたか。人間様に歯向かうからこうなるんだよ。バカなお前は、これからは新しい持ち主の俺がきっちり躾けてやるからな」
「そりゃいい、魔力の量も多そうだし、使えそうだ」
自分を上から見下ろして笑う3人の男の声が、だんだん聞き取れなくなっていく。目の前のダンジョンは暗くなってきた事で、その輪郭さえあいまいになっている。
きっと、魔王様にも街にいるクロにも、会いに行くことはもう無理だろう。同族たちは、逃げてくれただろうか。あの街までいけば、きっとみんな、助けてもらえるはず・・・
・・・私、何も出来ずに、また人形に戻るのか・・・
・・・視界が悪いと思っていたら暗闇だけのせいではなく、自分が泣いていたんだとようやく気が付いた。もう泣くことしか出来ない自分があまりに弱くて、無力で、情けなくて、涙が溢れて止まらない。
本当は、本当は今頃、魔王様に会うためにあそこから中に入っていたはずだったんだ。おばさん達に特別綺麗にしてもらって、クロが用意してくれた服も嬉しくて・・・魔王様に、見てもらいたかったのに。もうこんなに汚くなって、ボロボロで。ごめんねクロ。頑張るって言ったのに。頑張れると、思っていたのに・・・私じゃなにも守れなかった・・・
静かに泣く私に気が付く事無く、人間たちの話はひとまずここから移動しよう、と決まったようだった。街の人間に万が一見られる可能性を考え、私を隠して運ぶ為、頭から大きな袋に入れられている時だった。
突然人間の1人が、焦ったような声で仲間に呼びかける声が聞こえてきた。
「おい、連れてきた人形どもが見当たらねぇぞ・・・! 地面に転がってた動けないやつらも、どこ行ったんだ!?・・・おい、なんだよ、お前らまでどこに・・・・なんで、なんで誰もいねぇんだよ!?」
いつの間にか、自分の傍から人間の気配が無くなっていた。かすかに水の音が聞こえた気がしたが、頭から被せられた袋のせいで確認のしようもなく、止まらない涙と自分の嗚咽で正確には分からない。しばらくすると、誰かに体を起こされるのを感じ、思わず拘束されたまま身構える。変に体に力が入ったせいで、痛めた個所が今頃になってその存在をまた主張しだした時。拘束されていたはずの手足が自由になっていることに気が付いた。そして
ふわり
と。あのいい香りと、流れてくる暖かな魔力を確かに感じた。
頭から被せられた袋がゆっくり取られ、信じられない思いでこの香りと魔力の持ち主から目を逸らせなかった。すっかり暗くなっていても間違えるわけがない。目の前にいる、正確にはその腕に抱きかかえられた状態で、至近距離で見上げた先には、やはり暗闇に溶けこむように全身真っ黒な、魔王様がいた。
「なんでお前はいっつも傷だらけなんだよ、ったく・・・」
つぶやかれた言葉に拒絶はなく、そっと頬に触れた魔王様の手は優しく、あたたかかった。久々に合ったままの視線は、私をしっかり捉えて逸らされる事はない。たった、たったそれだけの事が嬉しくて嬉しくて、またポロポロと涙がこぼれて止まらなかった。
それを見て魔王様は困ったような顔で、涙をそっと指で拭い「・・・遅くなって、悪かった」と謝ってくる。ちがう、怖くて泣いているんじゃないんだと首を横に振り、泣き顔を隠すために魔王様にしがみつけば、そっと両腕が背中に回され、抱きしめて頭を撫でてくれる。その感触が、不思議とぐちゃぐちゃだった気持ちを落ち着けていく。
魔王様の腕の中にすっぽりと包まれた安心感から、私はようやく、身体から力を抜く事が出来た。
その状態のまま、魔王様が触れた場所から流れてくる魔力によって怪我は癒され、じっと体中の痛みが薄らいでいくのを感じていると、魔王様がここへ来るまでに何があったか簡単に説明してくれた。
街に用があった魔王様が街の外に出た所で、私と同じ種族の数名と一緒にいたクロに会い、人間から助けてくれた私の今の状況や、置いてきてしまった私を助けてほしいと言われた事。全員今は街の人に保護されて無事な事。この場所にいた人間達は誰1人として死んではいないが、ここにはもういない事。最後に「よく頑張ったな」という言葉と、見上げた先にある優しく笑う魔王様の表情が嬉しくて、つられて自分も笑顔になるのが分かった。
魔王様が、私に笑ってる・・・うれしい・・・よかった、笑ってくれて・・・そうだ、魔王様に聞かなくちゃ・・・
話を聞いている間、私の背中を優しく擦ってくれていた腕はピタリと止まり、魔王様が「笑った・・・」とつぶやく声も、私の顔を凝視して固まっている事にも気が付かないまま、地面に座った魔王様の足の間で膝立ちになる。以前から聞きたかった事、伝えたかった事のために、自分の両手を魔王様の顔へ伸ばす。暗闇に溶けた魔王様をつかまえて、ひたいを合わせて目をのぞきこんだ。
『魔王様・・・魔王様、聞こえる?』
じっと魔王様の黒い瞳を見つめて語りかける。が、返事はない。やはり同族同士でなければ無理なのだろうか。けれど、これ以外に伝える術がない私は迷った末、そのまま話し続ける事を選んだ。伝わらなくてもいい。
『魔王様、みんなを助けてくれて、何度も怪我を治してくれて、ありがとう。ほんとにありがとう魔王様・・・そうだ、ずっと聞きたかった。魔王様、名前はあるの?私はシロ。クロが私を拾って、つけてくれた名前。呼んでくれたら嬉しい。魔王様の名前も、呼びたい』
『あと、まだ、怒ってる?ごめんなさい。もうダンジョンに来るなって言われたの、魔王様に会えなくて悲しい。ダンジョンの罠を壊した、から?怪我を治してもらってばかりで、心配かけてばかり。だから、怒った・・・?私、罠を直すから、もう、怪我しないようにするから、また、来てもいい?』
『魔王様、いつもダンジョンにいる。何をしてるの?私、もっと一緒にいたい。魔王様の、そばにいたい。何か私も、手伝いできる?』
返事がないまま一気に話過ぎた気がする。思った事をまとまらないまま伝えて、魔王様は分かってくれただろうか。顔を少し離して表情をよく見てみれば、いつの間にか月が出ていたおかげで、幾分か周囲が明かるくなっていた。下向きになった魔王様の顔は陰になっていて見にくくはあったが、視線をうろうろ落ち着きなく動かしていて、手のひらで口元を覆っているのが分かった。そのまま表情から感情を読み取ろうと目を凝らせば。目元や頬が確かに赤くなっていて・・・それを見た自分もつられたのか、自分の顔にもゆっくり熱が集まってきているのを感じた。それに、胸がなんだかおかしい。戸惑ったまま思わず胸を押さえて魔王様を見上げれば、同じように魔王様が自分を事を見つめている。それだけで、今までよりもさらに魔王様の香りが強くなり、まるで全身を魔王様の腕のように包まれているような心地よさだ。
この香りが何なのか、魔王様も感じているのかを知りたくて、またゆっくりとひたいを合わせる。さっきと同じ距離のはずなのに、魔王様からの視線が強すぎて耐えられなくなり、思わず瞼を閉じてしまった。
『・・・魔王様、とっても、いい匂いがする。クロが言ってた。私たちの種族は、大人になるのにつがいが必要って。つがいは特別な香りだって。魔王様、私はいい匂い、する?・・・魔王様、私と、』
ッドクン
つがいになって・・・と伝える前に、突然心臓がはねた。
何が起きたか分からない。震える指で胸元を握れば、今までにない強さで胸の中が締め付けられているようだった。「どうした!?」と魔王様の慌てる声がして目を開ければ、いつの間にか腕の中に横抱きにされ、上から心配そうにのぞき込む顔が見える。違うの、苦しいんじゃない、身体の奥から何か変化してるんだと、うまく伝えられない間も心臓のドクドクという大きな音が耳に響いていた。その状態のまま、わたしの視線は魔王様からさらにその頭上高くに輝く、大きな満月に釘付けになって目を見開いた。
そう、真っ白な、まるい、満月 が
ッドクン
「・・・・・シ、ロ・・・?」
おそらくは一瞬の事だったと思う。魔王様が名前を呼んでくれた事が嬉しくて、いつの間にか閉じていた目をゆっくりと開いた。
なぜか魔王様は私を見て「信じらんねぇ」と何度もつぶやいて見下ろしてくる・・・魔王様の頭上にある満月を見た瞬間、心臓が大きくはねた、と思ったが・・・今、月を見てももう体は何ともないようだ。それより魔王様は一体どうしたんだろう。
手を魔王様の方へ持ち上げようとして気が付いた。さっきより自分の腕が長くなっている、気がする。手が大きくなっている・・・?これは・・・誰の手??
魔王様の腕に支えられていた姿勢をゆっくり起こして、自分の体を確認する。この手は確かに私のもので間違いない。肩から生えている。着ていたワンピースが小さくなったように感じる。隠れていたはずの膝より上の部分まで、どんなに裾をひっぱっても見えてしまうから、気のせいではないはずだ。そこまで淡々と確かめていたが、顔の横に見える髪を見て驚いた。自分の白い髪が、体を起こした状態で地面に着くほどの長さになっている。
髪が、こんな短時間で伸びる・・・?
とまどったままの視線をすぐ横の魔王様に向ければ、両脇に手を入れられてそのまま立たされ、驚く。
・・・魔王様が、近い
今の自分と魔王様の身長差は頭一つ分、だろうか。魔王様の肩のあたりにまで伸びた身長が、自分が大きくなったという事実を教えてくれた。
これが、クロが言っていた大人になる、という事だろうか。でも、大人になるには番が・・・と考えた所で正面の魔王様が私を抱いて突然転移した。
転移したその先には、私と同じように大人になったクロが、クロの番である司書さんにベッドに押し倒された状態で部屋にいて。
初めての転移に頭がくらくらしている私と、私の変化にパニックになった魔王様が突然押しかけて、空気も読まずに説明を求めたり。
ふだんは静かで温厚と言われている司書さんに、ものすごく不機嫌な声で二度とここへ転移するな!と怒られてる魔王様が見られたり。
その横で、ベッドから逃げ出してきた真っ赤な顔のクロに「助かったー!!」と抱きつかれたり。
その状況すべてが私には理解できずに茫然としてしまったのは、無理もなかったと今も思う。
魔王様が司書さんとは友人だった事も、司書さんとクロの邪魔をしてしまった事も、体が大人になった先に何をするのか、というのも、全部後で知った事だ。
私たち種族が文字通り、番を得ると大人になると説明された時の魔王様の顔が懐かしくて、ふふっ、と思わず笑いが漏れる。大切にされているのが分かっていても、いつまでたっても子ども扱いのままの魔王様に焦れて、最終的には私から魔王様を襲った時も同じ顔で驚いていたっけ。
何も知らない私と、私の種族について知らない魔王様が、クロと司書さんにはその後も随分迷惑をかけてしまったな、と懐かしく思いながら目を開けた。
寒い外の様子を窓越しに眺めながら、大人になるまでの自分を思い出しているうちに、いつの間にかうたた寝してしまったようだった。肩にかけられた魔王様の上着と、目の前の暖炉には火が入れられ、部屋と私を暖めてくれている。
「起きたのか」
声のした方へ顔を向ければ、当たり前に隣にいてくれる魔王様がいて「随分うれしそうだな?」と顔をのぞきこまる。正直に「魔王様の夢を見ていたの」と返せば、魔王様とはまた懐かしい呼び方を・・・と嫌そうな顔になってしまう。
今は、魔王様が眉間に皺を寄せても、何を考えているのかはこの短くない期間生活を共にして大体分かるようになった。でもあの時、大怪我を負った私を突き放したのは、私と一緒に住んでいたクロを番だと、同族の男の子だと勘違いした事が原因だったなんてまったく気が付かなかった。魔力が空になるまで私を助けようとしてくれたくせに、番がいるなら、と身を引いてしまう優しい魔王様へ愛しさが溢れてしまうのも無理もないだろう。
あれから、クロは私達同族を、奴隷からの解放をかけて立ち上がったり、必然的に私も魔王様も行動を共にしたりしているうちに、大層な二つ名が付けられたりしながら大陸中を駆け回った。同族達が一つの種として認められたのはまだほんの数年前。それまで解放運動の要として代表に立っていたクロが、その直後に妊娠したのを機に代表から退いたのは、確実にその補佐として支え続けた、番の司書さんの我慢が限界だったからだろうと噂された。
それを機に、私達も落ち着けるあの街に戻って暮らし始めたのは最近の事だ。
ふふふ、と思わず笑みをこぼす私を、目を細めて眺めていた魔王様・・・今は、私の旦那様を見上げ「おかえりなさい」と微笑むと、優しくその腕の中へと包んで「ただいま」と答えてくれる。たったそれだけで、自分の本当に安心できる場所はここだと思える。
気が付けば、ひとりぼっちで空っぽだった私は魔王様と出会った事で、たくさんの大切な人に囲まれ愛された事で感情を知り、いつしかひとりでは無くなって、今は本当の意味で、ようやく大人になれたと思う。
魔王様の番は今日も、あなたの隣で幸せに微笑む。懐かしい夢にみた、あの頃と同じ気持ちのまま。
夢のつづきは、いつかまた。
お読みいただき、ありがとうございました。溺愛されるシロやクロと司書さんの話も書きたいけれど、ひとまず連載の続き頑張ります(カメですみません)