*5* 大嵐に漕ぎ出せば。
あと二話で終わる予定……ですσ(・ω・*)<たぶん。
――……鐘が鳴ってから一時間。
私を含む近衛兵達は赤い絨毯を挟んだ両側で、剣の柄に手を乗せ、直立不動の姿勢で広間の扉が開く時を待った。徐々に開始の時間が近付いていることは、背を向けた主賓席のざわめきがだんだん小さくなっていくことで何となく知れる。
向かいと両隣を鎧の持ち主の同僚に囲まれていることは苦痛だが、それもやや視線を下げることでやり過ごした。血の色にも似た赤い絨毯に視界が染め上げられているせいか、渇きを訴える喉を唾液を飲み下すことで堪える。
少しだけ視線を彷徨わせて周囲の様子を窺うも、未だオズヴァルトの姿もカルロ・バティスタの姿も見えない。手練れがいない方がありがたいのは確かだが、何となく妙にも感じてしまう。
しかしここまで長く沈黙していた楽隊が、現国王夫妻の入場を告げる音楽を奏で始めた瞬間、一斉に近衛兵達が剣を天に向けて構え直したのに倣い、私も手にした剣を捧げ持つように眼前に構える。
最初に会場に入ってきたのは現国王の妃だ。長いローブをお付きの侍女達に持たせて、しずしずと赤い絨毯の上を歩いてくる姿は、同性の目から見ても老境でありながら未だ尚美しい。
目の前を横切った王妃が玉座の隣に侍女と共に控えると、次は現国王の入場になる。赤いローブに金糸で刺繍を施した鮮やかな王妃の装いとは異なり、こちらは黒いローブに金糸の刺繍というやや厳めしい装いだ。
しかし通り過ぎる横顔は病人らしく深い陰影を刻み、命の炎が揺らめく様が見て取れた。そのすぐ後ろをついて歩くのは、今日下賜される王冠を捧げ持った大臣だろうか?
だがそれよりも……今は一刻も早く妹を裏切り、踏みにじった男の顔を拝んでやりたかった。しかし順番から考えるとその男が妻に選んだ女性が先に入場してくるだろう。選ばれた女性は悪くない。そう心では理解していても、抑えようのないどす黒い感情が体内で暴れ出す。
――お前さえいなければ、と。
――あいつさえ心代わりをしなければ、と。
視界が怒りと憎しみで赤く染まるのではないかと思うほど荒れ狂う心は、眼前に捧げ持つ剣先を微かに震わせた。そんな私の異変に気付いたのか、向かい合わせで立っていた近衛兵が視線でこちらを諫めてくる。ほぼ同時に耳許で《もう悲願達成まで少しじゃないの。焦りは禁物ですわ》と甘い声がした。
その声に細く息を吐き、震えていた剣先を固定する。向かいの近衛兵に目礼すると、相手も僅かに目礼を返してくれた。では心を改めたところでやってくるはずの次期王妃を待つが……一向に入場してくる気配がない。
まさか入口の方を覗き込むわけにもいかず困惑していると、背後の主賓席からも困惑したさざめきが広がる。私が正面に捉えているのは五王家の親類縁者の席なので、彼等や彼女等までもが動揺する様が一種奇妙に映った。
自国のことであるにも関わらず、怯えた表情を浮かべる者も少なからずいる。二週間の潜伏期間中に頭にたたき込んだ席順から、それがこの一連の計画を企てたコルティ家とスカリア家の席に集中しているのも気になった。
――これはまさか、企てがバレたか?
とはいえ現状では下手に動くことも出来ない。それに会場内は依然ざわめいてはいるものの、ようやく絨毯の上を歩いてくる人の気配を感じた。けれど仕方なく次期王妃が通過するのを待とうと、奥歯を噛み締めて堪える私の目の前を横切ったのは――……何故か。
本来なら絨毯の上を歩いているはずのない、むしろ、こちら側に立っているべき見知った顔の男だった。見間違いかと思って左手に目をやれば、そこには真白い包帯。咄嗟に視線を合わせないように目を伏せたが、心臓は早鐘を打ったように暴れるのに、身体は二本脚で極寒の海に浸かった時のように震える。
男はそんな私に気付かず、いつもの至極真面目な表情のまま目の前を通り過ぎて現国王の前に辿り着くと、紺碧の地に銀糸で刺繍を施したローブを纏った身体を恭しく折って、その眼前に跪いた。
不意に、そういえば今日まで妹の仇の顔も知らなかったなと、今更ながらにそんなことが頭を過ぎる。どうせここで会えば分かるだろう。顔を合わせればすぐに差し違えようと思っていたから、知る必要もなかった。
確かに五王家の人間ならば、偽名もお忍びも考えられたことではある。うちのクソ親父も昔からよく使っていた手だものな。
だが何故……その正反対にいると信じたお前が、今そこにいるのだ。人のことをとやかく言えた義理ではないが、甲斐甲斐しく世話を焼いて同情するふりをして、腹の中では笑って騙していたのか? いつから、どこから。
ああ――……それとも、最初から騙していたつもりもないのか?
私の可愛い妹を、お前はものの数にも入れていなかったということなのか?
もしもそうだというのなら………………ふざけるな。
不思議なことに頭の芯は痛みを訴えるぐらい熱いのに、心はどこまでも凪いでいる。耳許で《それじゃあ、姫さま。制限時間は今から三十分。どうか派手に暴れて、ワタシを楽しませて頂戴ね?》と。魔女が甘く囁いた瞬間、右手首に隠していたグングニルが、私の怒りに呼応するように大振りな槍へと変化した。
同時に顔にかけられていた呪いが剥がれ落ち、燃えるような赤い髪が視界にちらつく。
突然隣に立っていたはずの同僚の顔が見知らぬ顔に変わり、その手に先ほどまでなかった槍が握られていることに近衛兵達が目を剥くのが分かったが、私は向かい合わせで目礼を交わした近衛兵に被っていたヘルムを投げつけて、大きく前に一歩を踏み出す。
弾けたガントレットを斜め前方の近衛兵に向かって蹴り上げ、もう片方のガントレットを隣の近衛兵の顔面に叩きつけながら、周囲を取り囲もうとした近衛兵をグングニルの柄で一薙に吹き飛ばすと、それまで戴冠式の厳かさ一色だった会場内の空気が一変する。
しかし同時にそれはこの国の上辺だけの均衡が崩れ去る合図となり、刺客、近衛兵、騎士団、衛兵の全てが一斉に動いた。騒然とする会場内の赤い絨毯の上を脇目もふらずに、現国王と王妃を庇って剣を振るう男に向かって駆け抜ける。
嗚呼、まるで、嵐だ。
止まることなど、もう、出来ない。
一直線に玉座へ駆ける私の前に、またも複数の近衛兵達が立ち塞がるが「雑魚が邪魔をするなっ!!」と怒りに任せてグングニルを振るい、鎧を叩き割られた兵達を弾き飛ばす。
瞬間……こちらを向いたオズヴァルトが、微かに微笑んだ。心は変わらず凪いでいるのに、頭の中は“何故?”の言葉で溢れていた。サメの筋力を最大限に利用した跳躍で近衛兵達の背中を踏み台にして、一気に玉座の前で現国王夫妻を背に庇うオズヴァルトの前に躍り出る。
名を呼ぶことも、殺してやると叫ぶこともせずに、ただ無言でグングニルを大上段に構えて振り下ろした。それでも重さを利用して叩き潰すことに特化している刃を、オズヴァルトは眉間に皺を刻みながらも真正面から受け止める。
左手の甲に巻いた包帯が僅かに赤く染まるのを目にした途端、戴冠式が始まって以来感じていた喉の渇きが一層増す。敵である私から逸らされない嵐の晩の海に似た青灰色の瞳に、それまで凪いでいた心が波立った。
しかし私の一撃を受けた剣は無惨にも真っ二つに折れ、妹の仇は丸腰になる。咄嗟にグングニルを手放してフォールズの下からあの短剣を取り出したものの、まさか討とうとした相手が、戴冠式の場に胸甲を着けているとは思っていなかった。
これでは当初予定していたように胸を貫くことは出来ない。けれど逡巡した私の目の前で――……オズヴァルトの真後ろに庇われていた現国王を狙い、医務官に紛れていた刺客が剣を振りかぶる姿が見えた。
当の王は発作が出たのか激しく咳き込んでいるせいで気付いていないが、隣の王妃は気付いた様子で夫に覆い被さろうと腕を広げている。
――男を、人間を、庇うだなんて、理解が出来ない。なのに、何を思ったのか身体は勝手に地面を蹴って動き出し、驚きに目を見開くオズヴァルトを素通りして、その背後にいた刺客の喉を貫いていた。
勢いをつけて繰り出した短剣の刃は首の骨にぶつかり、結果、本来の目的を果たす前に儚く折れる。喉を貫かれた刺客は夥しい血を吐きながらもんどりうって倒れ、その血を浴びて失神した王妃を国王が支えた。
オズヴァルトはがら空きになっていた私の背を庇おうと、私が手放したグングニルを手に、周囲を牽制している。この敵も味方も入り乱れた現状では何が何だか訳が分からないが、一つだけはっきりとしていることがあった。
――……復讐の失敗。
呆然と折れた短剣の柄だけを持って佇む私の耳許で《ああ……姫さまったら、余計な情をかけたせいで時間切れよ》と。どこか同情を含んだ声音で囁きかけられた直後、身体に変化が生じ始める。
契約通りの最後を迎えるのは悔しいが、これも己の未熟さが招いたことだ。人間の身体から急に下半身が変形していく異形の化け物に、遠巻きに見つめる者達の表情が恐怖で歪む。
激しく動いた直後に呼吸器が肺からエラへと移行しつつあるせいか、上手く息が出来ない。空気がのしかかるように身体から自由が奪われ、喉を押さえてその場にうずくまりかけた――が。
不意に身体が床から離れ、顔を上げることすらままならない私を覗き込む人物がいた。
「アルバ、すぐに海に運んでやるから、それまでは何としても耐えろ!」
そう言うが早いかその人物は私を抱え上げたまま、こちらの返事も聞かずに、すっかり騒がしくなった広間を一歩ずつ歩き出す。しかし私は総重量が相当あるサメ族だ。人間の身体で無理に抱え上げれば最悪腰骨を圧迫骨折することになる。
何とか馬鹿な真似を止めさせようと抱き上げる腕を叩くが、相手は全く聞く耳を持たずに歩を進めた。抱えきれずに飛び出した尾ヒレが絨毯で擦れて痛みを感じたその時、今までどこに隠れていたのか、尾ヒレを下から必死に持ち上げる子供の姿が視界に入る。
見覚えのあるその姿に驚き「ルカ」と掠れた声をかけると、以前よりも少しだけ身長が伸びて顔立ちが大人びたルカが「今度は、ボクの、番です!」と歯を食いしばって答えた。
空気を読まないお人好しな馬鹿はそれだけで済まず、人垣をかき分けて、
「大丈夫ッスかアルバさん!?」「ヤバい奴だとは思ってたけど、ほどがあんだろ」「まんますぎてウケる」「お前こんな重労働させたんだから、今度何か奢れよ?」「これって継ぎ目どうなってんだ?」「うお、やっぱ筋肉質なんだな~」「馬鹿、さっさと海岸まで運ぶんだよ!」
――という騒がしすぎる騎士団の面々が集まってきて、左右から私の巨大な尾ヒレを持ち上げる。
何が起こっているのかさっぱり分からない状況に目を白黒させる私の耳許で《あら、ちょっと予想外だけど、これはこれで面白いわねぇ》と、緑海の魔女のはしゃいだ声が聞こえて。
今度は頭上から「騙し討ちのような真似をして悪かったが、ジェルミーナ。お前の大切な妹は生きている」と、根本をひっくり返すとんでもない発言をするオズヴァルトは、怒りよりも困惑が勝る私を見つめて「お帰り」と。至極真面目に非日常を告げる。




