*9* 月下の邂逅。
深夜に夜襲紛いの謀叛を起こしてクソ親父を失脚させ、騒ぎを聞きつけて登城した長男である弟をその直後に新王として玉座に据えた。突然玉座を丸投げされた弟は最後まで私を女王に据えるべきだとゴネていたが、生憎と自分の知能指数では国を統治出来る気が全くしなかったのだ。
勿論鱗を剥がれたクソ親父は夜が明けても散々口汚く罵ってきたものの、弟妹達に吊し上げられた挙げ句に“趣味が悪いからいらん”と、長男が使うことを拒否した自室にそのまま監禁。
私を除いた弟達の間で誰が餌……もとい、クソ親父の食事の係りになるか揉めていたところを、甥っ子達が自ら役割を買って出てくれたおかげで事なきを得た。でなければ胃を物理的に空にして無理矢理にでも喰わせるか、意地を張らせて餓死するまで放置というとんでもない二択になるところだったらしい。
あまりの人魚望のなさに呆れはしたが、今まで全く相手をしなかった孫達が食事を運んできてくれる姿に少し何か感じたのか、三日ほどの断食で食事を渋ることはなくなった。元より自己愛の権化であるクソ親父が、死に様の中でもかなり苦しい餓死を選べるとも思っていなかったがな。
謀叛から五日後は、ずっと気になっていた海龍の様子を見に行った。
海龍は私の存在を目にするや否や、とぐろを巻いて眠っていた状態から即座に戦闘体勢になって躍りかかってきたのだが――久し振りの邂逅ということもあり、少しくらい手心を加えてやろうと拳で勝負をしてやることにしたものの、結果は当然私の圧勝で。
素手の私にすら敵わない情けない海龍から戦利品として鱗を剥ごうかと思ったら、奴は自分の寝床にしている岩棚の間から脱皮した皮をくれた。みてくれこそ完全に海龍の中身を抜いただけの、かなり淡い水色の光を放つ半透明な皮だが、一応魔力を感じるので受け取る。すると奴はひょろ長い身体をくねらせて周囲をグルグルと泳いだ。
一緒に様子を見に来ていた三番目の弟が言うには“姉上が戻ってきて嬉しそうだ”と評したその泳ぎも、私に言わせれば無理矢理鱗を剥がれずに済んだ喜びにしか見えなかったが……弟妹達は実に素直で可愛らしい。
取りあえずその海龍の皮を戦利品代わりに持ち帰り、妹達に何か新しい防具を作れるかと訊ねると、何と薄っぺらい皮の方が頑丈な鱗よりも貴重で良い防具になると言う。
妹達や弟達の妻が言うにはクソ親父に扮装した時に、どうしても特徴的な私の尾ヒレが目立つだろうということで、その部分を覆い隠せるものにしようと提案してくれた。
かなりな針仕事の量になりそうだったので手伝おうかと提案したところ、針仕事が壊滅的に駄目な私はやんわりと戦力外通告を受けて遠ざけられ、暇が出来ることが性に合わないのでその時間を兵達の鍛錬に当て、約束していた甥っ子達への稽古もつける。
そうしてさらに穏やかに過ごすこと六日……いや、待て八日、それとも十日か? 海底の時間と気候は読みづらい分、数えていてもズレが生じてくる。
何にせよ妹達と弟達の妻が時間を費やして仕立ててくれた、防具と呼ぶにはいささか美しすぎる淡い水色のドレスを模した装備を着込み、クソ親父の髪で作ったカツラをかぶり、クソ親父が病気療養中だと嘯いて放置していた人魚連中をボコボコにして回るという多忙な日々。
地上にいる間に戦闘力が落ちていないかが心配だったものの、海底の人魚が弱くなったのか、それとも地上で鍛錬の相手をしたオズヴァアルトが海底の人魚連中に引けを取らない技量であったのかは……まぁともかく。何の心配もないほど順調に奴等を伸して妹達や弟達の妻を守ることが出来た。
しかし時には“こうなればお前に勝ってお前を手に入れる!”などというイカレた発言をする輩もいたが、まさか女体化したからと言ってクソ親父に求婚してくる馬鹿がいるとは――……別次元の怒りで震えた。
こうなると弟達の身も安全ではないかもしれないと思い、そういう輩は特に念入りに伸しておく。見目の良い弟妹を持つと本当に苦労が絶えないものだ。
と――――――そこで、ふと気付く。
薬の入っていた小瓶に効能期間は確か三週間だと書いてあった気がするが、恐らくもうとっくに過ぎているにも関わらず、一向に身体が人間に戻る兆しは見えないということに。
流石に同族であるあの男に騙されたのだとすぐに気付いたものの、時既に遅しと言うやつだ。あの時は如何に弟妹達が心配だったとはいえ、飛びついたこちらに落ち度がある。
日の光が一切届かない海底では魔力で灯される明かりのおかげで、四六時中どこかしら明るい。それが地上で培った体内時計を狂わせてしまったのだろう。加えて自海域のお抱え魔女は不在で、現状ではいつ領海に戻るかも不明だ。
こうなってくると、せめて私が海底に戻ってからどれくらい経った季節なのか知りたい。しかし見下ろす先には淡い水色のドレスに隠れているとはいえ、その下は未だ醜いサメの尾ヒレがあるのだ。
時間の概念が薄い海底では、陸が朝なのか夜なのかすら分からない。そんな状態だと日光か月光が降り注ぐ水深まで行かねばならないが、そこまで上がると漁師連中の目や網に気をつける必要がある。もしも陸が早朝だった場合この姿で上まで行くのは危険だと、一瞬だけ思い悩む。
だが所詮私の悩む時間など本当に一瞬だ。悩む暇より多少危険でも確認する方が手間もかからんだろう。
そうと決まれば即行動が望ましいと、自室に戻って枕の下からあの短剣を取り出して腰の剣帯に挟み込み、お守り代わりに甥っ子達が作ってくれた首飾りを身につけ、警備中の衛兵達の目をかいくぐって城を出た。
グングンと水圧のヴェールを押しのけて海面を目指す間にふと胸中を過ぎったのは、今となっては随分と昔の記憶で。こうして海面を目指して腕を伸ばす感覚に、忘れかけていたかつての冒険心がムクムクと頭をもたげる。
しかし直後にそれは不謹慎だと思い直し、もう少しで海面をひっかきそうだった指先を押し留めた。陸の世界に寂しさを紛らわせる温もりを求めたあの当時と違い、現在の私がこの海面に這い出るのは亡くした妹の復讐の為なのだと。
仄暗い決意を胸に伸ばした指先が、海底と陸を仕切る水の膜を突き破る。
するとその指先に風を感じ、冷さに鈍いこの身体にも馴染む程度の気温だと教えてくれた。次いで水面に顔を出せば、見上げた先の空には数え切れないほどの星が瞬き視界を満たす。
しばらくは波間に頭を出したまま夜空に魅入っていたものの途中で正気に戻り、周囲に人の気配がないことを確認してから、最初に脚を得たばかりの頃に上がった砂浜から程近い岩場に近付く。
ゴツゴツとした岩で妹達や弟達の妻が仕立ててくれたドレスを破かないように、そっと岩場に引き上げた。ただ海水を吸って重くなるかと思われた海龍の皮は、まるで水の重さなど関係ないとでもいう風に軽やかなままだ。
そのことに少し拍子抜けしたものの、魔力が籠もっているのだとすればそれも不思議ではないのかと納得することにした。全身が陸に上がっても、僅かな時間であれば呼吸は保つ。
凍てつく冬の空気を感度の鈍った肌で感じる一方で、それよりも今は城の中……もっと端的に言えば玉座に座る人物が誰なのかが何より気にかかる。首を巡らせた方向には、初めて二本の脚を得た日にも見た白亜の尖塔が月明かりに浮かび上がっていた。
だが二本の脚を持たないこの身体では、ここにいたところでこうして冬の白々とした月光に照らし出される城を見つめることくらいしか出来ない。
けれど歯痒い気持ちのままジッと遠くに見える尖塔を眺めていたその時、暗闇の向こう側から「誰かそこにいるのか?」と。毎度ながら“何故このタイミングなんだ?”と文句の一つも言いたくなる声がかけられる。
恐る恐る声のした方向へ身を捩れば、やっぱりだ。最悪なことにそこにはこの時間の夜警に加わっていたらしいオズヴァルトの姿があった。月明かりがあるとはいえ薄暗い闇に周囲を阻まれ、相手との距離がまだ少しあるせいでこちらの正体は分からないだろうが、それも時間の問題だ。
ならばこのまま距離を縮められる前に海に飛び込もうと前のめりになったのだが、妙なところで勘働きの良い相手は「そこにいるのはもしや……ジェルミーナ殿か?」と言葉を続けた。
しかも訝しむ声音ではあるが、そこにはどこか確信めいた響きが含まれていて。その響きは僅かにこちらの動きを鈍らせる。けれど今のこの醜い姿を人間に……ましてかつての同僚に見られるわけにはいかない。
そう思った私は海に向かって傾けかけていた身体を、さらに前のめりに倒したのだが……。
「待て、身投げなど思い留まるんだジェルミーナ殿。エレオノーラ嬢が突然姿を消した貴女を心配している。何か悩みを抱えての失踪なのだとしたら、話を聞かせて欲しい」
やや斜め上に勘違いしたオズヴァルトの言葉に苦笑してしまうと同時に、エレオノーラに対しては、私のことなど忘れてくれても良かったのにと詰る気持ちも沸き上がった。
その逡巡を好機と捉えたのか、オズヴァルトがジリジリとこちらに歩を進める気配がする。
「出来ればエレオノーラ嬢に会ってやって欲しいが……もしも直接会うことが怖いのなら、こちらに来て俺の掌に伝言を残してくれないか? そうしてくれれば俺からその内容を彼女に伝えよう」
一瞬だけその申し出に心が動きかけたものの、やはりそれは駄目だと心を鬼にして再び海面に尾ヒレの先をつける。パシャッと小さな音を立てて水面を引っ掻いた尾ヒレの音に「待ってくれジェルミーナ!」と、切羽詰まった呼びかけを背中で聞きながら、その声を振り切ろうと海面に身を投げた。
不格好な下半身も一気に飛び込んだことで大量に立つ気泡が周囲を覆い、視界を遮る。しかしこれでもう追って来られる心配もないだろうと安堵したのも束の間。
一旦海底に引き返そうと尾ヒレで水を一掻きした私の後方で、何やら濁った水音が立つ。まるで、何か重たい物が水中に落ちたような音だ。その音に“まさかだよな?”とは思いつつも、思わず二掻き目に入ろうとしていた尾ヒレを途中で止めてしまう。
――しかし、事態はまさにその“まさか”で。
たった一掻きで岩場から結構離れてしまった視線を気泡で覆われた一角に向けた瞬間、大慌てで引き返してしまった自分を心底馬鹿だと思った。




