*1* 騒がしい日常。
夜の営業時間も終わりに近づき、残っていた酔っぱらい達が席を立って帰路につく。めいめい違う方角にある家へと向かう足取りは覚束ない連中だが、気の良い常連達だ。
おかしな話ではあるものの、ここに帰ってきたと思ったのは連中の赤ら顔を見た時だった気がする。
「では店主にジェルミーナ嬢。今日はこれで失礼する。それと……ジェルミーナ嬢は病み上がりなのだから、あまり無理はしないように。当然だが店主もな」
「ふふふ、分かっておりますわ。ご心配下さってありがとうございます」
差し出された掌に【ありがとう】と書き込むと、オズヴァルトは少しだけ口の端を持ち上げて笑った。最後の客だったオズヴァルトが店を出て行く後ろ姿を見送り、エレオノーラと二人でほっと息をつく。
バラバラに散らかった椅子を定位置に戻したり、食べ物屑で汚れたテーブルを拭いたり。そんな日常が戻ることも不思議だが、それを日常として受け入れている自分も不思議だ。
閉店の作業を黙々とこなしていたら、不意に床を掃いていたエレオノーラが「今日でジェルミーナさんが戻ってきてくれて四日目ですけど、全然誰も気付いた様子がないのは面白いですね?」とクスクス笑う。
私がいない間は一人で閉店の作業をしていたからか、戻ってきてからは掃除をする手をたびたび止めて話しかけてくるところが、妹達を彷彿とさせて可愛らしい。けれどそのせいでこっちまで手を止めてしまうものだから、閉店の作業はいつもより余分にかかるのだが……。
「向こうにいる間に見つかったと聞かされた時は、正体がバレたと思ったんですけど……皆さん、ジェルミーナさんとアルバさんが同一人物だとは気付かないものなんですね」
「それなんだが……服装や髪でそんなに人の印象が変わるか? 単にアイツ等の目が節穴なんだと思うがな」
「あら、服装や髪色は意外と馬鹿に出来ませんよ? 例えば“あの人はこういう可愛いのは着ないだろうな”とか“これはあの人っぽいな”とか、そういう先入観の問題もありますけど。実際纏うもの一つで、立ち居振る舞いが変わりますから。今だって向こうでの動き方ではないでしょう?」
エレオノーラは相も変わらず歳下なのに、しっかりと相手を納得させる話術を持っている。安心させるための言葉と、本気でそう思っている言葉が半々だとこっちも気が楽になった。
「確かにこの格好では大股で走ることも、蹴り全般も一切出来ないからパッと見は大人しそうだものな。奴等の中には“アルバ”のガサツな印象しか残っていないか」
「ガサツと言うよりは、元気いっぱいなイメージですよ。でも子供にはあまり先入観がないですから、ルカ君には遭遇しないように気をつけなくちゃ駄目ですね」
それとなく言葉を修正してくれたうえに、きちんと気をつけなければなさそうな対象に言及してくれるエレオノーラは、割と参謀向きな性格をしているのかもしれない。人魚でないのが惜しい人材だ。
ただ、今回ばかりはその心配も無用なのではないかと思う。それというのも――。
「それはさすがにないだろう。ルカはオズヴァルトの口利きで団長付の小間使いになったから城にいるのだし、もう会うこともないさ」
そう言いながら、別れる前に散々『一緒に行こう』とゴネたそっくりな二人の姿を思い出した口許が、うっすらと微笑みの形に持ち上がる。そんな私の顔を見つめて「そうだとしても、油断は禁物ですからね?」と笑ったエレオノーラに頷き返しながら、止めていた手を再び動かした。
***
あの後もさらにお喋りを続けたエレオノーラのおかげで、一時間半もずれ込んだ閉店の後片付けを終え、砂浜に出てこられた現在時刻は夜中の二時半だ。
「……やはり駄目か。ま、普通に考えて真水よりも浮力を生みやすい海水なんだし浮くよな」
そんな深夜の海に肩まで浸かりながら、私は砂袋をくくりつけた愛槍をどうにか沈めようと足りない頭で考えていた。
「しかし――だとすると、後はもうこれで海を割るか、使いのイルカを呼ぶしかないが……昼間は目立つし、あの子達は夜は泳げない。かといって割った場合、私が砂浜まで帰ってくることはこの身体だと不可能だろうしなぁ」
何故店の片付けを終えた後に深夜の海でこんなことをしているのかといえば、仇の所在を突き止めることが出来ずに、不完全燃焼なままで街に戻った私を待っていた瓶詰めの手紙のせいだ。
内容事態はクソ親父が女になったという自業自得で清々するものだったのだが、今の状況では最悪といってもいい。それというのも、またかという話だがあのクソ親父の恋人魚関係のせいであるのだが……。
人魚は個体差は多少あるものの元々かなり気位が高く負けず嫌いで、種族にもよるが愛は古くから力で勝ち取るものだと思っていたりする。無論この考え方に反発する若い世代もいるのだが、海底では以前この考え方をする人魚がまだ多いのが現状だ。
ともすればこの一点でのみ、他にも求愛の方法がある人間の方がまだマシだとも言えるだろう。
さらにこのはた迷惑な求愛行動はとんでもないことに、すでに結婚していたり恋人魚がいたりしても相手の同意があれば出来る。逆を言えば奪われた人魚は一度負けたとしても、奪い返しにくることも可能なのだ。
尤も人魚は“人”とついてはいるが、半分は魚なので情には薄い。基本は奪われても奪い返しには来ることはなく、純粋に気位の高さからプライドを傷つけられた仕返しをしにくるのだ。
たまに長命種な夫婦だったりするとマンネリ化を防ぐ為にわざとこの試合に乗っかったりするが、そんなのは極々一部なので省く。
そしてプライドを傷つけられて仕返しにやってくる人魚達は、決闘の決まりとして奪っていった人魚と一対一の勝負をするのだが、勝てば略奪したことに目を瞑る代わりに負ければ代わりを差し出すという決まりがある。この場合の女人魚の役目はいわばトロフィーだ。
負けた人魚は代償として、奪った人魚と同等の価値を持つ者を差し出さねばならない。ここで問題になってくるのが、過去にあのクソ親父が手当たり次第に他の海域の人魚から奪いまくった恋人魚の中には、他海域の王族も混ざっていた。
――――つまり。
こんな時に女になってしまったクソ親父はその姿のまま勝負を受け、負ければ同価値の人魚……この場合は仕返しにきた相手方が王族であれば、弟達の妻と妹達が代償として引き渡される。
それ故に、今回の手紙は弟達からのものだった。すでにどの子も独り立ちして家庭を持ち、立派に家族と支え合っている自慢の弟妹達。それが“姉上、どうしたら良いのでしょうか”との書き出しで始まる手紙を寄越すのだから、姉としては全力で何とかしてやらねばならない。
どうやら犯人は最近嫁いできた末妹と同じ年頃の人魚だったらしいが、クソ親子が女になった途端に姿を消したとあり、弟達の手紙にも“我が海域の魔女の知り合いかもしれません”と書かれていた。
前回甥っ子達から届いた手紙に、スキュラのババアが姿を消したとあったことからもその線が有力だろう。
基本的に魔女がかけた呪いは、かけた魔女本人しか解けない。だから私はこんな時に海底に戻ってやることも出来ず、ここからせめて戦力差を埋める為にグングニルを海底に返せないかと焦っているのだ。
瓶がいったいいつから岩場に引っかかっていたのかは知らないが、追加の報せがないところを見ると、恐らくクソ親父の身にかけられた呪いは解けていないのだろう。弟妹達には幼い頃からどれほど陸が危険かということを説いていたし、人間達の間では人魚の肉を食らえば永遠の命を得られるという迷信がまだ一部の年齢層で生きている。
迂闊に私へ連絡を取るために海上に現れたところを漁師に見つかりでもしたらことだ。仇のことは少し置いておいてでも、今すぐあのクソ親父を仕留めに戻りたい気持ちになる。
実際、少しくらい水圧に耐えられないものだろうかと重石をつけて潜ってみたが、すぐに脆弱な人間の肉体では絶対に不可能であることを身を持って体験した。エラがない状態での潜水も、人魚の骨格を持たないこの身体で潜れる水深も、季節によって感じる体感温度も……思っていたよりかなり辛い。
握力や脚力をどれだけ鍛えたところで埋めがたい身体的な差。そんな人魚と人間の境目である腰の辺りをなぞりながら、脚に纏わりつくズボンの生地を尾鰭に見立てて水面を叩く。
見上げた夜空は幼い頃と少しも変わらず、夜の海底で見る珊瑚の産卵を思わせるような満点の星で輝いていた。




