*7* エレオノーラの提案。
バタバタした店内でたった今、夜の営業時間である十二時を回った。
私はまだ店内に残っていた酔っ払い客を無慈悲に追い出して“クローズ”の札をかけ、おばさんを送り出してから、もそもそとイスとテーブルをどけて店内の掃除をする。
そんな私の後を追いかけるようにして、テーブルを丁寧に拭いていくエレオノーラとの息もぴったりだ。
それが済めば二人で飲み物を片手にテーブルにつき、エプロンのポケットから今日入手した客の噂話の精査をする。噂話の大半はつまらない日常に対するボヤきも多いが、漁師達が語る最近の海で揚がる魚の話や潮の状態は、海底の様子を知る上で大切な情報だ。
海龍のやつが暴れ出しそうな時は潮目が変わる。その情報を聞けるとしたら、それは毎日船を出している漁師達だけだ。海底で暴れる馬鹿のやらかした始末を、陸の人間達に背負わせるわけにはいかない。
共存は出来ずとも、海と陸の関係は最低限不可侵であるべきだ。
今回の末妹のことがなければ、海の者が起こした不始末で人間を死なせるのは本意ではないからな。
そう思いを新たにしていたら、ふと過去にあった海難事故を思い出して気持ちが沈んだ。あれは海の者が関わった事案ではなかったが、それでも痛ましい事故であったことに違いはない。
――あれからもう十四年も経つのかと内心驚き、苦笑する。時間の流れのなんと早いことだろうかと。
当時まだ十一歳だった私は、今でこそ下の弟妹に海面に行ってはならないと口うるさくしているが、あの頃はまだ小娘らしく海の上に興味があった。
正確には海の上にある人間の世界というよりも、海の上を滑るように渡って行く船に興味があったのだ。私達のような尾を持たずに、小さなイルカや鯨のような巨体が器用に浮かび泳ぐ様が不思議で、時折海底では聴かないような音楽や、煌々と灯台のように明るい光を落としていく。
海底ではまだ私以外の弟妹は母親と共に生活をしていて、クソ親父は母が去り一人になった私を省みることなど勿論なく、海底で一人過ごす退屈な日々の中で、そんな賑やかな船を見に行くのが、当時の私は好きでたまらなかったのだ。
あの海難事故があった日は稀に見るような大嵐で、海底でも波がかなり強く、弟妹達は母親の元で身を寄せ合っていた。しかし私に身を寄せる場所などありはしなかったし、むしろ当時の私にとっては、海底よりも海面の方が大切な場所だった気がする。
だから嫌な予感を胸に波に揉まれながら海面へと急いだのだが……私が海面に顔を出して真っ先に目にした物は、雷の直撃を受けたのか、船にあった明かりが倒れてしまったのか判別がつかなかったものの、とにかく赤々と燃えてバラバラに崩れていく大型帆船の姿だった。
呆然としている私の目の前に、見知った模様の描かれた帆の切れ端が流れてきた。その船は常であればそれは美しく、こんなものを造れる人間という生き物に畏怖のようなものを抱いたものだったが――……。
自然の驚異の前では呆気ないもので、見る影もなく崩れていくその姿に夢中で船へと近づいて、まだ生きている人間が海面に落ちていないか確かめようとした。船が沈む時には大きな渦が出来る。それに巻き込まれては私達人魚であろうとも無事ではいられない。
それが分かっていてもあの時は、海底での孤独を少しでも和らげてくれた船の存在に、自分も報いたかった。しかし姿を見られては人間達に人魚の存在がバレてしまう。遠い昔、人間は老けぬ人魚を不死の妙薬として乱獲し、多くの仲間が喰われたと聞かされていた。
だから意識のはっきりしている人間を助けることは出来ないと、幼いながらも非情な決断を下すほかなかったのだ。
燃え盛る船上から暗い海面は見えないのだろうが、火に巻かれて恐慌状態の人間達は高い船の甲板から海へと頭から飛び込み……多くが岩盤のように固い海面で頭を打ち付けて死んだ。
水は常に柔らかく包み込んでくれるものではないと、水の本質を人間達は知らなかったのだろう。大半の人間が息もなく浮かぶ海面を、それでも必死になって身体を裏返して生死を確かめる中で、その親子は漂っていた。
父親は水の脅威を知っていたのだろうに、息子の頭を抱え込んで飛び込んだのか、残念ながら重心がズレて頭を打ちつけて死んでいたものの、腕の中にいた息子は息があった。
私は父親の腕の中から息子を引き剥がして抱え込み、砂浜へと必死で泳いだ。途中で目を覚ました時には肝が冷えた。意識が混濁していたのか、それでも父親の安否を確認する息子に『大丈夫だ』と嘘を吐いたことが、今でも心に凝りとして残っている。
砂浜に息子を横たえた後は、他の人間達を助けに戻ったのだが――空が薄明るくなり始めた頃に、私は救出作業を中断して海底へと逃げ帰ったのだ。
あの後しばらくして、一人でしっかり泳げるようになった弟妹達の母親達が次々に去り、残された弟妹達の面倒を私が見るようになってからは、自然と海面から尾鰭が遠退いた。
しかし暗くて顔は憶えていないが……そういえばあの時に助けた息子は、確か私と同じくらいの年頃の子供だった気がする。今頃どうしているのだろうか。父親と仲が良さそうだったから、父親がいなくなった後に苦労をしていなければ良いのだが……と。
少しばかり感傷的になっていた私の耳を「この間のことで思ったんですが、もうここは他人のふりをしたままで、副団長さんに協力を持ちかけてみるべきではないでしょうか?」という唐突なエレオノーラの提案が強襲する。
いったい何がどうなってそうなったのかと驚いて「いつの間にそんな話題になっていたんだ?」と訊ねれば、エレオノーラはあっさりと「いつの間にも何も、今ですよ? わたしが話しかけているのにジェルミーナさんったら上の空だったもので」と白状した。
……この娘は時々こういう油断のならないことをし出すな……。
「いやまぁ、その、何だ。いきなりエレオノーラらしくもない、荒っぽいことを言うじゃないか?」
年上として余裕を見せなくては駄目だと思い、何とか動揺を取り繕おうとしたものの、それを見越していたのかたたみかけるように「いえ、こういうことは早期決戦の方が望ましいかなと思いまして」と、シレッとした顔で返されてしまう。
……本当にこの娘はのんびりした見た目を裏切るな。ただの食堂の娘だというのに空恐ろしいものを感じるぞ。
「う、うむ。それはそうだろうし、私としても早期解決が望ましいとは思っている。だがそれとこれとは話が少し違うと言うかだな……」
「うふふ、いやですわジェルミーナさんったら。解決してしまえば同じではないですか。それに妹さんの仇を気が済むまで殴れば、当初の目的を達成出来て、ジェルミーナさんは自由になれますよね?」
「いや、流石に気が済むまで殴ると相手が死ぬかもしれんだろ。それにそこまで殴るとは言っていなかったはずなんだが……」
「ですが、そもそもジェルミーナさんの妹さんを死に追いやった張本人なのですから、その方にはそれくらい耐えて頂かないと。亡くなった妹さんも、ジェルミーナさんも、次に進めませんわ」
最初に会った頃とはまるで違うエレオノーラの過激な発言は、少しだけ私のせいなのではないかと思わないでもない。女が強くなるのは良いことだが、この店にエレオノーラの癒しを感じたくて立ち寄る客や、淡い恋心を抱いているファビオに若干申し訳ない気がするな……。
けれど何となく初めて出会った日の気弱な姿よりも、こちらの方が本来のエレオノーラの性質なのかもしれないと思う。私にはよく分からないが、家族を失うということは生き物の本質を変えてしまうことなのかもしれない。
そんなことを考えていると、エレオノーラも妹の一人に思えてくる自分がおかしくて。長年弟妹達の面倒を見ているつもりだった自分が、実のところ一番面倒を見てもらっていたのではないかと気付く。
苦笑を浮かべて「そうだな」と曖昧に答えれば、エレオノーラが「仕事も終わりましたし、お酒でも如何ですか?」と悪戯っぽく微笑む。
その表情に海底に残してきた妹達を重ねて「ああ、頂こう」と返す鼻先にほんのりと、客の残した海が香る。




