◆プロローグ◆
絵本の王道と言われて真っ先に思い浮かべる物語は何でしょうか?
色々あるかとは存じますが愛する者に裏切られて、泡になってしまった人魚姫のお話は皆さんご存じですよね?
あの物語のクライマックス近くを覚えていらっしゃる方は、はたしてどれほどおられるでしょうか。
というのも、今からお話しますのはあの物語のクライマックス近くで人魚姫に短剣を差し出す怖ろしい姉がいたことを覚えていらっしゃいますか?
えぇ、そうですそうです。
「これで王子の胸を一突きして命を奪えば、お前は泡にならないわ!」
――そう叫んでいた、あの人魚。
このお話はそんなバイオレンスな発言をさらっとしてまで愛する妹を救おうとした、愛情深い姉姫のお話の始まり始まり。
***
「おい、スキュラの魔女はいるか!」
そう気を吐いて岩場の魔女の住処に乗り込んできたのは、女だてらに海の戦士として名を馳せた人魚姫の長姉・赤髪のサメ姫ジェルミーナ。
スキュラとは下半身が魚ではなくタコの人魚体のことをさすのだが、今はそんなことはどうでもいい。
意思の強そうな太い眉をキリリとつり上げ、紅玉の瞳を怒りに燃やした彼女は末妹を間接的とはいえ死に追いやった魔女を毛嫌いしていたので、未だ悪辣な商売をしている魔女にとっては怖ろしい来訪者である。
「この槍で貫かれたくなかったら、今すぐ私に足をよこせ。なに、今度私の可愛い末妹を棄てて泡にした王子が、のうのうと王位継承して戴冠式とやらをするそうだから出席してやろうと思ってな」
その凶暴性を抑えきれない笑みに、確実に“出席の理由が違うのでは?”とはいかな海の魔女とて突っ込めるものではなかった。
彼女の手には「娘はまだ一杯おるのだし良いではないか」と曰う父王をボコボコにして取り上げた魔槍・グングニルが握られていた。
血気盛んな性格と人魚の女性にしては厳つい容貌が災いし、近寄る男の一人もおらず、弟妹達の中で唯一結婚も婚約の予定もない彼女は現在二十五歳。
そもそも人魚の女性はその鱗の美しさで男性を惹きつけるのであるが、なにぶん彼女の半身は戦闘で出来た傷だらけで、しかも女性体には珍しいサメの半身をしている。
前半はともかく、後半は父王の女性に対するストライクゾーンの広さが災いしたと言っても良い。
人魚は大抵十代で結婚して子をもうけることを考えると、彼女は完璧に婚期を逸していた。その嫁き遅れ感は海底でも有名である。
が、しかしそれには致し方ない理由もあり――。
女遊びが激しい父王が色んな女性と浮き名を流して作った弟妹は全部で両手の数でも足りなかったが長子であり長女でもある彼女にとって、弟妹達はすべからく可愛いかった。
そしてそんな子供を増やすだけ増やして愛情の一つもかけない父王との仲は険悪で、彼女にとって男は全て父王のようなものだと結論付けられている。そんなこともあっての嫁き遅れは彼女なりの抵抗の現れであった。
十五歳の誕生日を迎えた末妹が最後まで海面に行くことを禁じた彼女にとって、この幕引きは到底我慢できるものではなかったのである。
唯一女性らしく美しかった鮮やかな赤髪を投げ打ってまで手にした短剣だけが海底に戻った時、彼女は泣き崩れて他の弟妹達を心配させた。
「今度は何が欲しい? 対価ならいくらでもくれてやろう」
喉元にグングニルを突きつけられたままの魔女が「じゃあ、これを」と曰うと、即座に周囲の水圧が五十気圧は下がった。
「ははは、こやつめ……命あっての物種だろう? やり直しだ。ほら、どうだ? もう一度言ってみろ。あと――この後その私の可愛い妹の声で意地汚い発言をするようならば、貴様の喉を潰してくれる」
赤髪のサメ姫は切れ長の目をギラつかせて魔女に詰め寄る。この時点で魔女は自分に拒否権は一切ないと感じて諦めた。
「ひぃぃ!? で――では姫様、貴女様のその手にはめている海龍の鱗で拵えた手甲では如何です!?」
――――魔女、必死!
「ん? 何だ、急に謙虚だな? こんなもので構わんのなら良いぞ。またアイツが暴れた際にでもぶん殴って剥いでこられるしな」
ジェルミーナがそう軽く言って放り投げた手甲は、当然彼女の言うようなお気軽な代物ではない。海神の一柱である海龍をぶん殴って鱗を剥ぐなどという行為は、この海広といえども彼女くらいのものだった。
その鱗、堅牢であるのは勿論のこと、荒れ狂う海に一枚落とせばたちまち海が穏やかになると言われる、航海の御守りとしては特級品である。
しかし、如何にありがたい御守りとは言えジェルミーナには全く必要がないのだ。
「また海が荒れれば、アイツを半殺しにすればいいだけのことだ」
……こうして、震え上がった魔女はそれ以上の対価を要求することもなく彼女の末妹“人魚姫”に与えたのと同じ薬を与えたのだった。
「ふふ、あの娘は少し足りないところがあったから……私はこれを海面近くで飲むぞ。さすがにこの歳で全裸に海藻はありえんからな」
そう渋い顔をしたジェルミーナはほんの少しだけ悲しげに口角を上げる。そんな横顔に僅かばかり心を痛めた魔女は、それを振り払うように薬の説明をしようと声をかけることにした。
「で、では姫様、薬を飲んだ後の効能は前回と同じですが、今回は仇を討たなければ人魚の姿に戻ることは――」
「……貴様、誰に向かってそれを曰っているのだ? ん?」
突如またあの獰猛な笑みを向けられて怖じ気づい魔女はブンブンと首を横に振り、それ以上言葉を続けることが出来なかった。けれど「ああそうだ、服も用意しろ。勿論オマケでな?」とグングニルを喉元に突きつけられて、あわや首を縦に振るところであった。
寸でのところで魔女の頭を鷲掴んでそれを止めるジェルミーナ。彼女は何も無闇やたらと槍を振り回す狂戦士ではないのだ。
雄々しく泳ぎ去るジェルミーナの姿を見送りながら、魔女は地上の王城で血の雨が降る想像をして震え上がるのだった。