ある日の日記33回
三十三回
一時的なことにしろ、このような幸せが来るなんて予想もしていませんでした。
あの生死の境をさ迷い歩いていた頃の苦しさ空しさ、心細さというものが、今では信じられないような気がします。
本当にあの経験は確かにあったことなんです。
僕は思い詰める時には、とことん思い詰めるたちだし、あの時は本当に目の前がまったく真っ暗だったのです。
真っ暗な荒野にただ一人ポツ~ンと立たされている心境というものは、まさに死んだ人の魂を、巫女を通して呼んで、その人から聞いたような状態とまったく同じなんです。
あの三島由紀夫氏の話のように
「今どうしていますか?」
「とても苦しい! 首が痛い! あんなにして死ぬんじゃなかった。もう一度生き返りたい!」と懇願していることや――
「今どこに居ますか?」
「分からない? とにかく霧がかかって何も見えない。どうやらススキの生えている高原みたいだ。誰もいない。どこを見ても薄あせたススキ原だ。とても寂しい。友は何処に居るのか? いくら呼んでも彼等は見あたらない。心細い心細い」などと言っているように、その苦しさ心細さというものは、まさに霧のかかった草原にただ一人ポツ~ンと立たされているような心境です。
あえて戻ろうと思っても、そこまで来た道すら見当たらずに、先へ進もうとしても足元先1cmとも身動き出来ないのです。
ただジ~ッと霧が晴れるのを待っているか? または意を決して我武者羅に突き進んで行くかしかないのです。
僕はその二つをまざまざと見せつけられたのです。
この会社の人達から、君達から、限りのない嘲笑と批難を受けて、僕は遠い故郷ともゆうべき川口のママさん所に飛んで帰るしかなかったのです。
「お前なんか死んでしまえ! 生きていても何の価値もない。死んでいるのと同じことだ!」という――
まさに僕の生きる望みをえぐり取るようなひどい批難でした。
その頃には、もう会社の人達、君たちの良心、価値などまったく認められず
「ふざけろ! 手前らこそ死んでしまえ! お前らこそ人間の仮面をかぶった悪魔の化身じゃないか! お前らには人間としての幸せなんて受ける資格などない!」――
そのような言葉を吐きながら、会社の人達や、君達の幸せそうな顔を見ていると、無性に腹が立ってムカムカ、ムカムカしてしょうがなかったのです。
それで会社を出ると、すぐに川口の方へすっ飛んで行くしかなかったのです。
そしてそこでジッと身を縮め、心細さと不安と苦しさに、身もだえしながら佇んでいたのです。
そのようことをしていても、いっこうに霧など晴れそうもないのです。
いくら待っても、いくら待っても、そんな気配の微塵も感じられない状態だったのです。
だから……、だから僕は意を決して一寸先も見えない霧の中に突っ込んで行ったのです。
もしかしたら、すぐ1m先は断崖絶壁が待ち受けていて、僕は真っ逆さまに転落していたかも知れないのです。
しかしそのような決定的な死にも会わなくて、僕はただススキが原を……、ヤブの中を、林の中を、小川を、沼を、ありとあらゆる苦しみを切り開いて行って、何とかここまで来れたのです。
茨のツルに足を引っ掛けて、ぶっ倒れ、手足全身をトゲに刺されて、血まみれになったり――
林の中で途方に暮れたり、沼の中で溺れ死にそうになったり、まさに生死の境をズッとくぐり抜けてきたのです。
今はどうにか太陽もサンサンと照り輝き、すきま風も防げるような居心地の良い住居に住んでいられます。
今は何とか世間の冷たさも批難も、嘲笑も、防ぎ止めれる幸福の砦を築いているみたいです。
今はとにかく安心して幸福に浸っていることが出来ます。
しかしそれはあくまで世間の風をまったくくいとめられる我の中に閉じこもっている幸せであって、いつまでも確保出来るものではないのです。
世間の荒波にも打ち勝ち、本当の幸福境涯を構築していく為に、そろそろそのちっぽけな我の幸福から飛び出さなければならなくなってきているのです。
どのような荒波にもまれようとも、決して負けないような信心を築いていく為に、これからはあえて彼等(荒波)の中に飛び込んでいかなければならないのです。
そしてありとあらゆる苦難と闘い、それらを一つ一つ打ち砕いていかなければならない使命を持っているのです。
皆の為の、皆のものである幸福境涯建設の為に、これからは(も)闘争の明け暮れになるものと思います。
だからこれからは今までのように君達と楽しい恋遊びに浸っていることも加減していかなければならないのです。
せっかくこうして君達の好意を受けていながら、それを返すということは、自分としても辛いことなんですが、仕方のないことなんです。
本当に長い間暖かいご支援と激励を授けて下さって有難うございました。
僕は決して自分一人の幸福境涯を求めているんじゃないんです。全ての人の(会社全体の)幸福境涯を求めているのです。それだけは信じて下さい。
外部から直して(改革)していけないものなら、内部に浸透していって、直していくしかないのです。
彼等にはそのような信念も無さそうだし、とにかく僕は一足先に旅立つことにします。
三十三回




