王冠と硝子
王冠が襤褸布の上で眩く輝いていた。
それは、武梨が久しぶりに登校したその朝のこと。電車に揺られ、駅の北口を抜けて、さぁ学校へ赴かんとした時だ。視界に見慣れないものが入り、武梨は思わず立ち止まってしまったのである。
入り口から出てすぐ脇の場所に積まれた襤褸布、その上に銀と光る西洋式の王冠が載っている。余すところなく星々が散りばめられ、要所には燃え立つような炎があしらわれたその姿は、豪奢と瀟洒を絡み合わせて造形したような美々しい逸品。
武梨はおそるおそる近づき、周りを見渡して、魅せられたように手を伸ばす。
「さわるな」
低いしゃがれ声がそれを制止する。
あわてて下がった武梨の前で、襤褸布がゆっくりと動き、骸骨めいた顔を前へ向けた。そしてカタカタと笑う。
「盗人め。この美しき冠がほしいのか」
骨だけの腕が王冠を掴み、見せつけるようにゆらゆらと振った。
「くれてやってもよいぞ」
「じいさん……」
なにかよくわからないものが武梨の中で疼いた。肉の削げた骨で引っかかれたような――あるいは、骨すら失われた無で撫で付けられたような、そんな感触。
立ち竦み、去ることもできずに王冠を見つめる武梨に向かって、襤褸の者は座る地面から言葉を放つ。威厳に満ちた声で。
「ひとつ仕事をこなせばよい。……王を殺すのだ」
王冠と硝子
「……で、王ってなんなんだよ」
苛立った様子の武梨は、そう呟いて窓の外を見た。
あの後に、武梨は何度も襤褸の者へそう問いかけたのだが、『王は王だ』という木で鼻を括ったような言葉しか返されなかったので、諦めて学校へ来ていた。
「で、殺すとかなんだよ」
武梨は繰り返し溜め息を吐くしかない。
「どうしたんや、ブリ。恋煩いでも患ったんかいな」
「違う違う。まったく、タツキはそればっかだな」
急に話しかけてきた緑目の級友、玉月に武梨は手を振って言った。その者は目の細い平坦な顔つきをしているが、いまは愉しげに瞼を開き、珍しい緑色の瞳を爛々と輝かせている。
「ずっと休んどったやん。……誰かにフラれたんやろ? あんたとあたしの秘密にするさかい、正直に話したってーや」
頭をかいて、辟易しながら武梨は声の方へ顔を向ける。そこで、玉月の後ろから顔を出した者がいた。女にも男にも見える幼げな造作をした者だ。
「なになに? 恋バナ?」
「ちげーよイモリ」
顔をしかめながら武梨は言う。
「タツキがなんか適当こいてるだけだ。鬱陶しいから散れ」
「やけど、ブリの好みって気になる……気にならへんか?」
玉月はにんまりと笑って横を見た。稲杜もまたはそれに乗っかっていく。
「気になる……うん、気になる」
肺を空っぽにするような溜め息を吐き出してから、武梨は苛々と吐き捨てる。
「ったく。久しぶりに登校したらコレだよ、まったく。王冠を被った妙なやつと出遭うわ、たるい話に付き合わされるわ」
「王冠? ……それってどういう」
「知るかよ俺が」
我慢しきれなくなった武梨は席を立って、教室の出入り口に向かった。
そこで、ちょうどある者とかち合ってしまって、お互いが足を止める。扉から入ろうとしたのは猫背の者だ。姿勢は悪いが、長身であるためそれでもかなり大きく見える。精悍な顔立ちをしており、翼を広げた猛禽類のような印象だった。
「あん?」
立ち止まりはしたものの、猫背の者は道を譲らずに入ってきたため、武梨は後ろに下がらざるを得なくなる。
「イモリ、いるか」
「……キザハラさん」
嬉しげに語りかけたその猫背の者、木座原だったが、稲杜は怯えたような様子で愛想笑いを浮かべている。
「話したいことがあんだけ――」
木座原の言葉が終わる前に、稲杜はそっと武梨の後ろに身を置いた。不愉快そうな色が、木座原の目をちらりと掠める。
「――俺はキザハラって言うんだけど。てめー、何」
「えっと。ちょっと待ってくれ」
右手を上げて木座原に頼んでから、武梨は小声で稲杜に問いかける。
「なんだよ。なんで隠れてんだお前」
「いいから。適当に合わせてよ」
「つっても……」
「……奢るから! なんでも!」
切羽詰まった様子の稲杜を放り出せず、仕方なしに武梨は言葉を返す。
「あー、待たせた。うん、俺の名前だよな。俺はブリだ。そんで、イモリのツレ」
待たされたことにも怒りを見せず、木座原はふてぶてしく笑って声を返す。
「イモリを連れてきてーんだけど。どいてくんね?」
『だめ! だめ!』と小声で叫ぶ稲杜を鬱陶しくは思いつつも、武梨は怒らせないよう気をつけて返す。
「俺も用事があるんだ。先着順ってことで、またにしてくれよ」
左手を掴まれているため、右手だけで謝意を示し、武梨は言う。木座原はしばらくその姿をじっと見据えていたが、諦めた様子で舌打ちすると、残念そうにイモリへ笑いかけた。
「なんだよつれねーなー。じゃ、な」
そう言って、木座原は踵を返して去っていく。木座原に同伴していた眼鏡の者もまた、少しの間だけ稲杜を睨みつけた後、その背を追いかけていった。
「……ふう」
「『ふう』じゃねぇよ。なんだよイモリ、どういうトラブルだ」
「イモリがキザハラに言い寄られているだけやで」
「タツキ!」
『言い寄ら』の辺りで、遮るようにして稲杜は玉月の名を叫んだ。だが声をかき消すには至らず、武梨は得心して、なんとも言い難い表情で稲杜に目をやる。
しばらくそっぽを向いて知らぬ顔を決めていたものの、稲杜はついに耐えきれなくなり、呟くように言う。
「……そうだよ。ブリが休んでる間に、告白されちゃったんだよ」
「断ったんやろ?」
「うん。でも、ぐいぐい来るんだ。いくら断っても」
心底から困ったように稲杜は言った。
「はー、惚れられてんのかー、お大事に」
適当なことを言って肩を竦め、玉月はちらりと武梨を見る。微妙な居心地の悪さを感じながら、武梨はぽつりと呟くようにして言った。
「嫌なやつじゃなさそうだけど」
「そんなの関係ないよ……」
険のある表情になって、稲杜は言う。『それもそうか』と武梨は思った。
帰り際にも、王冠を被った襤褸の者はいた。
適当なところに座り込み、武梨は遠間から様子を観察していたのだが、誰も襤褸に気付いた様子がない。いくらなんでも、こんな奇妙なものが居れば、誰かがどかせようとするだろうに、そうなってはいない。
「いよいよもってどういうことなんだろな……」
「気味悪いわぁ」
声にならない声を上げて、武梨は飛び退く。
「どしたん、毒虫でもおった?」
こっそりと忍び寄り、声を掛けたのは緑目の者、つまりは玉月である。
「なんだよ、タツキか。心臓に悪いぜ」
「あんたも気味悪いんよ。ひとりでぶつぶつ、阿弥陀さんでも拝んどるんか?」
「ちげーよ……」
瞼を瞬かせ、緑目を出し惜しむように細めて駅の北口あたりを見詰め、それから玉月は溜め息を吐く。そんな様子と先ほどの言葉で、あることに気付いた武梨は問いかけた。
「……いま、『あんたも』つったか?」
「知らんわ。さいなら」
言うや否や、玉月は商店街の方へてくてくと歩き出した。その背中を武梨は追いかける。
「なんや、ブリ。あたしのバイト先に興味があんの?」
「バイト禁止じゃなかったっけか」
「バレたらあんたがバラしたってことやな」
振り返りもせずにそう返して、玉月は商店街から路地裏の方へなお歩き進んだ。
「ごっつ懐かしい風景があっても行かんときや。下手に迷うと面倒や」
その道筋はひどく奇妙だった。さっきまでは夕暮れだったのに、急に真白い日差しが降り注いでたり、緩やかに霧が広がっていたり……。
道ゆくさなか、武梨は夏の季節であるかのように緑が輝いている場所を見つけていた。小山がそこにはあり、そのためかいくらか強めの風も吹いている。奥には妙に開けた場所があり、屋根の下に壊れかけた椅子がふたつ。小川のせせらぎ、蝉の合唱なども聞こえてくる。
「……迷うのか?」
その光景は、武梨にとってひどく懐かしい気がした。見覚えはなかったが。
「好きにしたらええと思うけど、迎えにはいかんで、あたし」
進む玉月の背を見て、風景を見て、武梨はかぶりを振った。諦め、玉月を追いかけることにしたのだ。
そのまま、壁面すべてが蔦に覆われた狭い道を抜け、いくつもの下着が干されたアパートの脇を抜け、川の橋を渡らずに横の階段を降り、大股歩き程度の長さの隧道を進んで。その先になお進めば、往来の脇にある妙な店にふたりは辿り着く。
看板は大きい樹木を削り出して文字を彫ったものだが、どうにも見慣れ難い変な形である。それに武梨が気を取られている間に、玉月は姿を消している。
僅かだけためらって、武梨は店に足を踏み入れた。扉を開けて。
気がつけば武梨は自分の部屋で横になっていた。制服も着替えている。
「……いよいよもってわけがわからないな」
頭を抱えて、武梨は天井を仰いだ。
登校しての昼休み、広場として開放されている屋上に武梨はいた。
着いてきた稲杜と共に、向かい合って弁当を食べている。稲杜のそれは見かけは不格好だがそれなりに味は良く、好物もあったため武梨はいくらか中身を交換していた。交換歩合はどちらかと言えば非適正ではあったが。
「はい、コーラ」
「……なんでいつもこれなんだ?」
渡されてきた黒汽水の缶を眺めて、不思議そうに武梨は言う。
「好きだよね? 昔から」
「そうだっけか、覚えてない」
顔を伏せて、稲杜は寂しそうに呟く。
「そっか……」
「いや、嫌いじゃないよ。本当に」
それきり、しばらく会話が途切れた。武梨は沈黙も気にせずに黙って弁当を食べ続けたが、稲杜はなにかを考え込んでいる様子である。
結局、次に口火を切ったのは稲杜の方だった。
「……相談があってさ」
「どうした、改まって。金ならないぞ」
笑いながら冗談を飛ばす武梨だが、稲杜はそれには反応せず、ただ真剣そうな目を向けてくる。
「私はさ、やっぱりキザハラさんと付き合いたくはないんだ。……でも、諦めてくれなくて」
「待て待て。なんかひどく面倒なことに巻き込まれそうな」
人差し指を上に立ててから武梨の口に添え、黙らせて、稲杜は言う。
「面倒な恋人は嫌い?」
「あー……。恋人役、やれってか」
少しだけ体を引きながら、武梨は言う。その様子に、つまらなそうに笑った稲杜が返事をした。
「ん、そう。ブリにしか頼めない」
その言葉を契機にしたように、直後、屋上の扉が重い音を立てて開かれる。その様子を見ていた稲杜が血相を変える――木座原とその付添いの眼鏡の者、ふたりが姿を表していたからだ。
だばだばと周りを見渡し、潜伏先を見つけられず、藁にでも縋っているかのような表情の稲杜は、あちこち体をぶつけながら机の下に潜り込んだ。
木座原らも屋上を眺め回し、隠れた稲杜に勘付いたのか、あるいは武梨と会話する気なのか、颯爽とした歩き方で武梨に向かって進んでゆく。
「よー、ブリ」
「おっす」
快活に笑う木座原に、武梨もまた手を上げて応じた。
木座原はちらりと机を見て、置かれている二個の弁当箱を視線で吟味し、武梨に問いかける。
「メシ食ってんの? 弁当箱ふたつあっけど」
「あぁ。いまちょっと、ションベンに行ってる」
「……ふーん。ま、ちょうどいいか。俺、話があるし」
机の下で竦む稲杜を見ないようにしながら、武梨は言った。
「いや、俺としちゃランチデートの最中なんでね。邪魔はしてほしくない」
「すぐ戻ってくるこたねぇよ。そうだろ? ……きっとそうだ」
ゆるく影を帯びながらも口を歪めて笑い、木座原は長机に腰を降ろした。
『聞いてた通りにぐいぐいくるやつだ』と思いつつ、武梨は木座原と視線を合わせる。その瞳にいくらかさえ気後れすることなく、木座原は言い放った。
「俺はイモリが好きだ」
破顔して言うその幸せそうな表情に、武梨は言葉を失う。
「だから、ブリに邪魔してほしくねーんだけど」
すぐさま言い返そうとして、わからなくなり、それでも言葉をひねり出して武梨は言う。
「俺に……俺には関係なくないか。そりゃイモリの勝手」
どん、と左拳で木座原は机を殴った。弁当が揺れて中のものが少し溢れる。
木座原の表情は先ほどのものから変貌しており、今にも蹴りかからんばかりの剣呑さがあった。姿勢も、机から腰を上げて、いつでも動けるような格好だ。
「なぁ、本気で言ってんの? ちょっと鈍感すぎねーか」
流石に怒りを覚えて、語気強く武梨は言い返す。
「なんでそんなこと言われなきゃならねぇんだよ」
「いつもイモリの側におめーがいるからだよ。その反対かもしれねーけど」
左の人差し指で武梨を指し示し、木座原は言い募る。
「どちらにせよ言う資格はあるね。逆に、ブリにはその資格がねーよ」
「資格、資格って、なに言ってんだお前はよ!」
舌打ちをして、木座原は不愉快そうに呟く。
「わかってねーのかその振りか」
だが、すぐに何らかの結論を出したらしく、木座原はつまらなそうに武梨を見下ろし、情動の篭ってない乾いた口調で宣告した。
「ブリ、お前、要らねーよ」
「だからお前は何を言って……!」
まず体を沈め、体を回すようにしながら木座原は蹴りを打ち込む。相手をじっと見ていたはずの武梨だが、その動きのしなやかさと速さに対応できず、顔の目の前に靴が来るまで身動きひとつ取れなかった。
ぴたりと喧嘩相手の顔に視線を据えながら、木座原は吐き捨てる。
「……次に邪魔をしたら蹴っ飛ばすからな」
言って、靴底で軽く武梨の顔を踏み触った後、木座原は体を戻した。なにひとつ壊すことなく蹴撃が収められたのは、木座原の強烈な自負ゆえだ。『いつでも必要な時に壊せる』という自信があるからこそ、『無用な時にはそれを使わない』という挟持に昇華される。
木座原とその同伴者は、やるべきことはしたと言わんばかりに、無言のまま歩き去ってゆく。対して、武梨と稲杜は、言葉も出せずに木座原の背中をじっと見つめていた。あるいは、睨みつけていた。
ふと、その最中、木座原の体が不自然に揺れて。
すぐさま木座原の横にいた者がその体を支えた。そして、力の篭った目を稲杜に向けると、震脚でも踏むように一度だけ地団駄をやって、踵を返した。
そして風が強く唸り。
昼休みの終わりを告げる鐘が響いても、まだ二人は動き出せない。
机の上で、ふたつの弁当箱とその中身が、粉々になって飛び散っている。
「『怪異』」
言葉を聞いて、怪訝そうな表情を武梨は浮かべる。
そこは、個人経営の喫茶店だった。よくわからない道を通り抜けた先、木で作られた妙な看板を出していた店だ。
内装は統一感がまるでなく、どこかから拾ってきたような椅子や長饗卓が並んでいる。匂いも猥雑としており、珈琲の香りや黒茶の匂いが混じり合って、どうにも掴みどころがない。音だけは普通で、電波越しの古い曲が静けさを強調するように流れていた。
「かいい?」
緑色の瞳で武梨を睨めつけるようにして、玉月は言う。
「『置き忘れ』な。……あんたらのなん所業やで? 『捨てるために変わる』んやなくて、『変わるために捨てる』でもなくて、ただ『置き忘れて』く。ま、せやけどな、人間はそういう生き物なんやから」
そう言い切って溜め息を吐く玉月に、武梨は混乱しながらも問いかける。
「なんの話だ。オカルトの話っぽいけど……ぜんぜんわからん」
武梨の言葉を聞きながら、玉月は窓際からの往来の人々へ目を向けている。
「王冠、欲しいんか」
半分だけ驚き、もう半分で納得しながら、武梨は言う。
「やっぱり、タツキにもあのじいさんが見えてるのか」
「そら見えるわ。このヒスイの目やったらなんでも見える」
自らの両目を指差し、玉月はそう吐き捨てる。その瞳は濃い緑色で、まさしく翡翠玉のような煌めきを宿している不思議な目だ。実際、魔法のようになにかを見透かしてしまいそうな目だった。
「あんたに見えるのは、波長が合ったか……あるいは縁が在ったか。ま、行き遭うのにもそれなりの論理がある。諦め」
「だけどよ……」
出されていた黒汽水の瓶を振りながら、武梨は言う。
どうにもよくわからなかったし、騙されているという気もしたが、武梨はとりあえず呑み込むことにした。言葉にならない思いもあったが。
「……まぁ、うん。信じる。信じたよ」
「あっそ。話が早くてええわ」
武梨は熱の篭った溜め息を吐いた後、半笑いを浮かべながら両手を掲げた。降参でもするかのような体勢だ。
「よもや、こんな科学万歳の時代に、行き遭うなんてね」
「地図を埋めたって空白は消えへんもんよ。裏側に行くか表で混ざるか。ま、世界なんてレコードのアレコレやから、しゃーない」
愛想良く笑いながら玉月は言う。諦観とも悟りともつかない態度で。
「オカルトの話か? 世界の全部が刻まれてくってレコードの」
「逆。レコードを再生して世界が投影されとんのよ」
急須から黒茶を注ぎ、緩く啜りながら玉月は問いかける。
「で、あんた。行き遭った『怪異』をどうすんの。ほっかむりするならそれでええと思うけど」
「詳しそうだから聞くけど、関わらない方がいいのか?」
「知らんよ」
急に突き放されて、武梨は渋い顔をした。
「あんたらに比べれば詳しいとは思うけどな、あたしはただの学生でバイトや」
言葉通り、玉月は喫茶店の制服を雑に着ていた。それなりには給仕に見えるかもしれない。席に座って、黒茶を気楽に啜ってさえなければ。
「なんよ。いちおうあんた客やろ。接客中ってやつな」
「なら、せめて客の話を聞いてくれ」
「わかったわかった。話せや」
肩を竦めて、玉月は面倒くさそうに笑う。その表情に促されて、武梨は自分が行き遭った『怪異』のめいた存在、王冠の者のことを話し始める。
「なんかあのおっさん、物騒なんだよ。『王を殺せ』とか言ってくるし」
「王なー。そんなもんこの地におらんがな」
「居たとしても殺すってのは嫌だねぇ」
「殺しは嫌か?」
「当たり前だろ……」
緩く頷く武梨に、どこか切なげな眼差しになった玉月が、言う。
「……『怪異』を殺す方法、知りたいか?」
また、気づけば武梨は自分の部屋の寝台に居た。今度は制服のままだ。
「どうなってるんだ?」
あの喫茶店周りでは、認識がおかしくなるのだろうか。そう武梨は思う。
「たしか、今日はそのまま帰ってきて……」
……疲れていたから制服のまま横になった。だがさっきまで、武梨は玉月と話していたように感じていた。
「夢なのか?」
その割にはひどく鮮明で、なにを話していたかすべて思い出せてしまう。
「夢だけど……夢じゃない?」
寝転がり直し、天井を見上げて考える武梨へ、階下から呼びかける声。晩御飯ができたと伝えてきている。とりあえず降りていくことにして、武梨は身を起こす。
白米をよそったり味噌汁を運ぶなど、晩御飯の手伝いをし始めた武梨へ母親が世間話を投げかけてくる。それに生返事を返しながら作業を続けていると、ふと気になる言葉を彼女は語った。
「そう言えば、久しぶりにイモリさんちの子とお話したの。近くにずっと住んでたのに、このごろなかなか顔を見なかったのよねー。相変わらず可愛いかったわ」
「なに言ってんだよ母さん」
武梨の言葉に、からかうような笑みを浮かべて彼女は言う。
「仲良いんでしょ。また連れてきなさいよ」
「じゃなくて。……あいつは一年前に帰ってきたんじゃないか」
首を傾げて、彼女は不思議そうに武梨を見た。
「なに言ってるの? 引っ越しはしたけど、ずっとこの新約市に住んでらっしゃったじゃない」
「本気で言ってる、んだよな。母さん」
武梨の母親は緩く頷いた。だから、武梨は再び訂正することはなかった。
「じいさん」
「敬意のない呼び方だな」
声をかけられた襤褸布は体をもぞりと動かし、骸骨めいた顔を武梨に向ける。
「なぁ。あんた、『怪異』なんだろ?」
愉しげに襤褸は笑う。
「そうさな。忘れ物よ。『置き忘れ』られ、それすら忘れられた」
言いながら襤褸は骨の手を伸ばし、ケタケタと歯を鳴らしながら自らの王冠を指で押さえる。その姿を真っ直ぐに見詰め捉えながら、武梨はなお問う。
「『置き忘れた』のは、誰だ?」
「もちろん、推測はできよう。だが、自らの記憶としてそれを語りうる者は、いまやどこにもおらん。……もはや誰ひとり思い出せぬがゆえに、真に『置き忘れ』となり、『怪異』と成る」
なにかを責めているような、あるいは宥めているかのような口調だった。そこに込められた『怪異』なりの感情を武梨はうまく解することはできなかったが、それでもさらに問いを重ねた。
「『怪異』はなにができる?」
「足すこと引くこと、世界を薄く覆って物質や認識を調節すること」
王冠の怪異の言葉をしばらく考え、しかしうまく理解できずに武梨はうめく。
「よくわからないな。ものを壊したりとかはできるのか?」
「やろうと思えば。どんな概念を纏うかでなにもかもが変わるが」
武梨は砕けた弁当箱と中身のことを思い出していた。あの時に起こったことは何だったのだろう。あれもまた『怪異』なのか。そう考えたくなるほど、あの物体たちは粉々に壊されていた。
「ここまで話したのだ。迷わず、王を、殺すのだ」
期待の目で武梨を見つめる王冠の怪異に、溜め息を吐きながら武梨は答える。
「色々と考えたんだけどさ、俺、殺したくねぇよ」
「おや。王冠を諦めるか?」
再びの溜め息。
「それもマズい気がするんだ」
肩を落とす武梨を鼻で笑い、王冠の怪異は言った。
「気負うな、若者よ。なにもかもいまさらなのだ。お前のそのさまも。自分のこのざまも。そして、お前の想い人のありさまも。なればこそ思うがまま、その果てを引き受けるがよい」
そう語る姿は、まさしく零落した王の姿だった。他者の上に立つにふさわしい威厳と視野を備えながら、もはや剣も笏も玉座も持たぬ、朽ち続けいつか果てるまでただそこに在るだけの、王冠のみ残された襤褸布の者だった。
宣告めいた声音で、しゃがれ声の『怪異』は語る。
「そもそもだ――取り返しがつくことならば、『怪異』など生まれないのだから」
学校の職員室から出て、武梨は息を吐いた。
担任の教師は断言した――『稲杜は転校してきたのではなく、最初からずっとこの学校にいた』と。それは武梨にとって予想通りではあったが、だからといって暗澹とした気分が変わるわけえはない。
なにかを迫られている。なにかから起きたことが、総決算を求めてにじり寄ってきている。だが、それがなんなのか、武梨にはわからない。自分の中に確証がないからだ。
そんな武梨に、走ってきていた者が声をかける。玉月だ。
「ブリ!」
「どうした、そんなに血相を変えて」
驚きながら言う武梨に、咳き込みながらも息を整え、玉月が言う。
「キザハラが……強引に……イモリを、校舎裏に」
「マジか……」
「だから、先生に伝えようと、あたしは」
そこで、玉月は壁を背にへたり込んでしまう。
「……『邪魔するなら蹴る』つってたな」
かぶりを振って、武梨は呟いた。
「上等」
「離してよ!」
左手で稲杜の手を掴み、引きずるようにして木座原は校舎裏へ進んでいく。苦痛を感じている表情で稲杜は叫ぶが、木座原はその足を止めることはない。
「強引過ぎるよ!」
「わかってる。……わかってるってーの」
その木座原は、悲壮とも意固地ともとれる表情だった。
「これで最後だ。だから、来い」
「いい加減にしてくれ!」
ぎちり、と稲杜が木座原の腕へ爪を立てる。服の上からだが、それでもその力の強さに、木座原は足を止めた。稲杜はやけっぱちめいた瞳で睨みつけていく。
「それ以上の無茶をやるなら……酷い目に合わせるから」
なにも言わず、木座原はただ笑った。
だから、どうしても、稲杜はそれ以上のことができなくなってしまう。
「キザハラぁ!」
走り込んできた武梨が、その勢いのままに叫ぶ。歩み寄りながら。
「手ェ出すなよ、俺のツレに」
「どーいうツレだよ」
「見苦しいんだよてめ」
迷わず踏み込んで、木座原は武梨を前蹴りで吹っ飛ばした。その衒いのなさに避けることもできず、声を途切れされながら武梨は地面を転がった。そんな武梨を獣めいた敏捷さで追いついた木座原は、そのまま見下ろしてゆく。
「言ってみろよ。聞いてやるから。言わねーなら殺す」
「てめぇなんかにゃ死んでも言わねぇ」
険悪に顔を歪めて、木座原は叫んだ。
「言いたくなるまで蹴ってやるよ!」
「やめろ!」
稲杜を無視して木座原は足を振り上げ、武梨を踏み付けんとした。
だが、途中、頬を殴られたような衝撃を受けて、たたらを踏んで横に移動させられる。それを撃ったのは稲杜だ。念力めいた不可視の打突を撃ち込んだのだ。
「やめないと……キザハラ、あなたを殺す」
明確な殺意を稲杜から向けられて、木座原は睨み返し、口から血混じりの唾を吐き出す。
「……それで、いーのかよ」
それでも、木座原の瞳に気後れはなかった。なにかを拒絶するかのように、ひたすら強く叫んでいる。
「俺はあんたを大事にする! お互いが幸せにする! できるだろ! ……できるはずなんだよ」
「だめだよ」
強く、それから弱く、稲杜は首を横に振った。
「そんなの、私は、望んでない……」
「嘘だ!」
稲杜と言い合っている木座原の隙をついて、武梨は手元にあった棒切れを投げつけた。そして、体勢を崩した木座原に、武梨は体ごとぶつけていくような殴り込みを敢行した。
吹き飛ばされ、地面で仰向けになりながら、それでもなお木座原は言い募る。
「なんで、てめーみたいな人は幸せになろうとしねーんだ!」
「……うるさい、ばか!」
稲杜の言葉に押されるようにして、武梨は木座原に頭突きを強烈に叩きつけた。
意識を失ったのか、あるいは気力を失ったのか。木座原は動かなくなる。
ふらふらしながらも立ち上がり、頭を押さえながら武梨は稲杜を見る。歯を食いしばりながら、それでも流れている涙を止められないでいる稲杜を。
視線に気付いた稲杜は顔を拭い、呼吸を整えてから武梨に問いかけた。
「なんで来たのさ。こんなことして」
「そりゃあ、俺が、お前の恋人役だからだろ」
「役」
感情にまみれたそのひと単語の声を、噛みしめるようにしながら武梨は言った。
「だってよ。お前、そう言うしかねぇじゃねえか」
言葉は止まらない。導火線のように、終点を目指して走っていく。
「お前、俺のこと嫌いだろーが」
ずっと武梨の中で抱え込まれてた思いだったからだろうか。それは時間を止めたみたいに、ふたりの動きを止めてしまっていた。
目も逸らせず、ただ、瞬きだけを何度も何度も繰り返してから、稲杜は言った。
「いつから、気付いてたのかな」
「一年前。お前に、……たぶん、初めて遭ったときからずっと」
「最初からだったなんて」
泣き笑いのような表情で俯いて、呻くように稲杜は言う。
「だって。私はこれからもずっとこのままなのに。ブリは、もうずっと先に行ってたから」
背は低く、顔は幼く、声は高く、年相応とは言えないその幼い容姿。同世代と並べば、その違いは無残なほど明らかになる。そして、その差が本質的な意味で埋まることはなく、開いていくしかなかった。
それが、煩わしくて、呪わしくて。稲杜は他者を、特に――武梨を嫌うしかなかったのだ。
稲杜は立ち上がる。世界のすべてに背を向けて走り出そうとする。
「なぁ!」
その背中に武梨は叫んだ。
「俺、お前のことが好きだ」
「私だってそうじゃんか……」
立ち止まってそう言葉を漏らし、再び走り出せば、稲杜と呼ばれた『怪異』はもはや足を止めなかった。
『怪異』。王冠。黒汽水。調節された世界。破壊された弁当箱。
さまざまな要素が武梨の頭のなかでぐるぐると回る。喧嘩の後、ただ立ち尽くしている武梨の中で。
敵意を持って睨みつけてくる眼鏡の者――木座原といつもいた誰か――は地団駄を踏もうとして、途中でやめる。木座原を抱え上げると、足早に去っていく。向かう先は保健室だ。
「あいつも……そうなのか?」
木座原か。眼鏡の者か。
彼らもまた『怪異』なのか。なにかがつながっているのか。あるいは、繋がっていなくても、ただ、絡んだのか。
「名探偵がいればなぁ」
縋るような弱々しい声が、校舎裏に響く。
「犯人は、俺なのか?」
応えはなかった。それでも武梨は答えるしかない。
確証はなく、推論もなく、それでも記憶の中にある虚ろの手触りだけを頼りに。
「とても大儀そうに見えるな、若者」
実際、武梨は疲れていた。駅の北口まで進むだけでもひどく辛かった。それでも堪え、王冠の怪異の労るような言葉をわざと無視して、なお苦しげに武梨は言う。
「なぁ、じいさん」
王冠の怪異の、髑髏めいた表情やしゃがれ声からは感情が読み取りづらい。その断絶性に少しだけ救われながら、武梨は本音を吐露した。
「今のままで良かったんだけどな、俺」
即座に王冠の怪異が哄笑し、それから後に割れた声で諭す。
「円盤は回り続けるが理。動きはいつか兆しにまで至り、そうなれば何一つそれを留め得ない。神も悪魔も」
「わかってる。……わかってるさ……」
武梨にもそれはわかっていた。だが苦しかった。だけども、それを誰かに言ってほしかった。そして、言われた。だから。
深く嘆息し、こともなげに見えるやり方で、武梨は襤褸布の王から王冠を盗む。
「これが俺の王殺しだよ、おっさん」
そうして、今でも煌めいている王冠を握りながら、武梨は言葉を続ける。
「これ、王冠だろ。ただの」
重々しく襤褸布の髑髏は頷いた。
「然り。我は片割れ、王冠の怪異なり」
もはや王冠を失った怪異は、瞼を閉じて言葉を連ねる。
「核を人に知られれば怪異は解け始め、すべて解ければ怪異は死ぬ」
『怪異』が解れて消え始める、襤褸布の端から手品のごとく。核となっていたものが『ただの王冠』だと知られ、それを知らしめられて。
伝承にある物語と同じく、本性を知られれば『怪異』は消えるのだ。鶴のように、蛤のように、そして鶯のように。だからこそある種の『怪異』はそれを隠す。
誰かのために。自らのために。――そこにある黄金めいた暖かき日々のゆえに。
「かつて王はどこにでもいた。王であるならばそう振る舞い、そう振る舞えば即ち王だからだ。だが、剣を失い、笏も失い、玉座すら消え、もはやこの座標に王を為す者は少ない。つまり王は忘れ去られた概念なのだ――それが我が肉であり」
最後の演説を襤褸の王は行っていた。それを、ばつの悪そうな顔をした武梨は聞き続けている。自分が殺したがために、他人事のような顔ができないままで。
「そして、たったいま盗まれたるその王冠こそが核、我が骨。骨に肉を結びて怪異は成り、怪異を解けば概念は消え核が正体を現す。見事とは言うまいが、お前はここに至り、その解たるただの王冠を掴んだ」
しゃがれ声が、最後を告げる。有無を言わさぬ鐘のように。
「おそらくは、再び」
武梨はたまらず目を閉じた。
「……そうか。やっぱり、そうなんだろう。思い出せないけど」
その武梨の声は、ただ、虚しい音を響かせるのみだった。
「俺が、置き忘れたんだ」
返事もなく襤褸の王は崩れ消えた。煌めく王冠も消え果てた。
残ったのは、ただ、黒汽水の瓶の蓋、ちゃちいギザギザで製造会社の銘が刻まれただけの――ただの王冠。
「もう、この場所、ないんだって」
喫茶店に向かう道の脇にある場所、小山を背に負っている開けた空き地。小川が流れ、風が走り、蝉が鳴き響く、季節外れの夏模様。その奥、壊れかけの椅子ふたつのうちの片側に、稲杜の姿をした者が目を閉じて座っていた。
無理やり体を引きずるようにして進み、空いた側の椅子に尻をねじ込んでなんとか座りながら、武梨は言う。
「この椅子、小せえな……」
「そりゃそうさ。子供のころはちょっと大きかったけどね」
吹っ切った口調の声が響く。
屋根の下の椅子から空を見れば、もくもくと高い入道雲と青空が目に痛い。武梨もまた瞼で瞳を守りながら、やるせなさそうに言葉を紡いだ。
「……お前はイモリじゃない」
「そうだよ」
足をぶらつかせながら怪異が言う。怪異の体にとっては、その椅子はちょうどの大きさだった。
「イモリは死んじゃった。ブリも忘れ切ってた。だから、ここに『置き忘れ』られた私と王様が、『怪異』になった」
ぽつりぽつりと、ゆっくりと。あるいは惜しむようなやり方で、あるいは繋ぎ止めようとするようなやり方で、稲杜の怪異は語る。そして、同じようなやり方で武梨も返した。
いったりきたり。
そうやって日差しが陰っていく。
「約束、してたんだよね。また会おうって」
「うん。……してたかも」
「イモリはさ、ずっと覚えてて。最後まで死ぬつもりはなかった」
「ごめん」
「知らないよ。僕はイモリじゃない」
青い空が消えて。
赤い日が落ちる。
すぐになにも見えなくなる。遠く、遠くにだけか細い夜灯。ときおり鳴き切れなかった蝉が馬鹿みたいに喚いては、静かになる。
「本当はさ、こんなにややこしいことにするつもりはなかったんだ」
悪びれなく怪異は喋っていたが、そのことだけは申し訳なさそうだった。
「わかってる」
「少なくとも最初は。……イモリのことだけ、告げて伝えて、それで終わりにするつもりだったんだ」
「わかってる」
でも、そうならなかった。
そうできなかった。
「わかってるから……」
言葉をそれきりにして、武梨は怪異の手を握った。怯えたように竦みながら、それでもその手は握り返してくる。ゆっくりと、だけども強く。
『元気にしてた?』
『……お前、誰だよ』
『うぇー。それ、酷くない? 流石に私でも怒るよ、それ』
『待て。待って、思い出すから。思い出すまで待っててくれよ』
『えぇー……うん、まぁ……うん。しょうがないか……』
それからどれくらい経ったのか。
ふたりが遠くに見ていた夜灯が音もなく消え、小川の音さえも消え去って、天地すべてがひたすらに満天の星空に変わったころ、怪異は言った。
「これで終わり。どうなるにせよ、私は行くよ」
「……そっか」
未練たらしい武梨の手をもぎ離して、怪異は立ち上がる。
「さよならは言わないで。それを言うべき機会は、もう期限切れだろうし」
それは実際、もはや武梨には取り返しのつかないことだった。なにひとつ覚えて無くて、綺麗さっぱり忘れ果ててしまっていたことに、どうしようもない後味の悪さを感じてしまう。もはや当人が責めないとしても。
だから、武梨は結果をすべて受け入れる心積もりでここにいる。
顔もよく見えない薄温かいの暗がりの中で、武梨から足音が離れていく。
そして、なぜか怪異は立ち止まった。
「じゃあね。……さよなら」
心算すべてが吹っ飛んで、追い縋って。ただ、武梨はその背を抱きしめる。
「……さよなら」
絞り出せたのはそれだけで。
「……うん。ばいばい」
帰ってきたのもまた、涙声のそれだけだった。
武梨の手に残ったのは、黒汽水の硝子瓶、中身の残った置き忘れの瓶だけ。
星すら消えた薄ら寒い夜の下、闇の中で佇んでいた武梨はある匂いを嗅ぎ取っていた。人の匂い。怪異の匂い。行灯の燃える脂の匂い。
嗅ぎ取ってからしばらくして、武梨は灯りが近づいてくるのを発見する。目を凝らして見れば、それは行灯を持った玉月であることが見て取れた。
安堵の溜め息を吐いてから、武梨は灯りに向かって歩き寄る。
玉月の方も武梨を発見したらしく、愛想良く笑いながら行灯を掲げて向けた。
「お。見つかった見つかった」
「助かる。帰り方もわからなくなってたから……」
「まったく。手間かけさせよってからに」
恩着せがましく玉月はそう言って、ふとあるものに気付く。武梨が未だに持っていた、もはや中身のない空の硝子瓶を目ざとく見つけたのだ。そして問いかける。
「それ、持って帰るんか」
「……いや。捨てるよ」
言って。それから、少しだけ躊躇したものの、武梨はその空瓶を闇の中に勢い良く放り投げた。どこにも届かないその硝子は闇に呑まれ、この世から消え失せる。
渋面の武梨に、玉月は意地悪く笑った。
「行儀悪いなぁ」
「もうここにすらなくなるんだろ、この場所」
「察しがええな。せやから迎えに来てんで、感謝せいよ」
恩に着させるつもりの玉月は、繰り返し言い聞かせるように言った。辟易しながらも、武梨はあることを思い出して、訊ねる。
「そういや、迎えには来ないって言ってたよな」
「覚えがないわ。あんたの忘れんぼが伝染ったんやろな――」
――それからしばらく経って、玉月は面倒くさそうに言った。
「泣くなや」
「泣いてねぇし」