いつか…
私の人生は幸せでした。
優しい夫に出会え、可愛い子どもたちと楽しい時を過ごせて。
今、もうすぐ消え逝くこの命の火を見守るために、こんなにも多くの人が集まってくれた。
ああ、でも、ただ一つ、心の中に残るもの。
それは、愛しいあの子のこと。
会うことの叶わなかった、けれど、愛しい、大事なあなた。
いつかどこかで会うことができるのならば、その時はこの腕で抱き締めて、ただ一言を伝えたい。
――あなたを愛している、と。
*
高校を卒業してすぐに、私は地元の小さな事務所に勤めたの。
勉強はそんなに好きじゃなかったから大学に行こうなんて全然思わなくて、まあ、とりあえず、どこか就職できればなぁ、っていうくらいの気持ちで。バリバリ働くぞ、なんて気持ちは、正直、なかった。それよりも、いっつも仲が良いお父さんとお母さんのことを見ていたから、早く『奥さん』に、『お母さん』に、なりたかった。
大好きな旦那さまと、子どもが二人――できたら、三人。
年子よりも、二歳か三歳くらいずつ離れてる方がいいな。
それなら、二十歳までには結婚したいな、とか。
気楽な独身生活なんて、全然興味がない。
たった一人の愛する人と、無条件に慈しめる子どもたち。
私の夢は、それだけ。
まだ好きな人もできたことがなかったのに、人を好きになるという気持ちも知らなかったのに、ただそれだけを望んでた。
そんなこと夢見ながら入ったその会社で、彼に出会えたの。
彼――私の運命の人。
生涯を共にする人。
彼は私よりも十歳年上で、新入社員で何にもできなかった私の世話を焼いてくれた。仕事のことではちょっと厳しいけれども、とっても優しい人。
私の中で、彼は『イイ人』から『好きな人』になって、そして『失いたくない人』になっていった。
告白しようかな。でも、十歳も年下の、彼から見たら子どもみたいな私なんて、絶対に守備範囲外だよなぁ。
そんなふうに迷っていた私に、彼の方から「結婚を前提に付き合って欲しい」と言ってきたのは、出会ってから一年経った春のこと。彼は、自分が私の指導係ではなくなるのを、待っていたんだって。
もう、天にも昇る気持ちって、こういうことを言うんだろうなって、思った。
それくらい、嬉しかった。
そうして一年間のお付き合いを経て、私がハタチになった時、結婚したの。私の中に小さな命が宿ったのは、それから一年もしないうちだった。
もじもじと、言葉を選びながら『報告』した私を、初め、彼は目を丸くして見つめてきただけで。
何も言ってくれないから、もしかしたら嬉しくないの? と勘繰っちゃった私を、次の瞬間、彼はぎゅっと抱き締めてくれた。
それから、あたふたと腕を放したわ。そして、「ゴメン。お腹大丈夫か」って。そのまま膝立ちになって私のお腹に耳を押し当てた彼に、「まだ聞こえないよ」と笑ってしまった。
もう、幸せで、幸せで。
段々大きくなっていくお腹を撫でながら、毎日毎日、こんなに幸せでいいのかしらって、思ってた。
妊婦検診に行っても、いつも「順調ですよ」の言葉だけ。
多分、自分は世界で一番幸せな人間なんだって、思ってた。
予定日もドンドン近付いて、赤ちゃんを迎える準備も、全部整って。
――もう、あなたが出てきてくれるだけなのよ。
早く出せと言わんばかりにあなたが蹴ってくるお腹をそっと両手で包んで、一日に、何度もそう囁いた。
まだ見ぬ、愛しい愛しい、あなた。
ただただ、元気に生まれてきてくれればいいとだけ願って。
絶対に、元気に生まれて来てくれると信じていて。
ずっと、『その日』を心待ちにしていたわ。
*
なんだかおかしいな、と思ったのは、予定日の三日前のこと。
いつもと同じように夫を会社に送り出して、朝食の洗い物が終わったら、ソファで一休み。
ふと気付くと、いつも元気にお腹を蹴ってくるあなたが、さっきから、奇妙におとなしかった。
寝てるのかな?
首をかしげながらトイレに行くと、少しだけ血が付いた。
それを見た私の胸は、ドキドキと早鐘のように鳴り始めて。
破水って、血も出るんだっけ?
前回の検診の時に聞いたことを一生懸命に思い出そうとしたけれど、何だか頭が上手に働いてくれなかった。でも、血が出るのは、あまり良くないことのような気がする。
何でもない、きっとお産が始まったんだわ、と自分に言い聞かせながら夫に電話して、すぐにタクシーを手配した。
彼は「大丈夫だよ」と言ってくれたけど、そこに潜む不安そうな響きは隠せていなかった。
到着したタクシーに、ヨタヨタしながら乗り込んで。
病院への距離が縮まるにつれて、お腹の痛みは強まっていった。
陣痛って、波があるんじゃなかったっけ? 何で、ずっと痛いんだろう。
それに、なんだかフラフラして。
不安でたまらなかったけれど、私もお母さんになるんだもの。しっかりしなくちゃ。カチカチになったお腹をさすって、「大丈夫、大丈夫」と何度もあなたに囁いた。絶対、ちゃんと産んであげるから、もう少しだけ待っててねって。
ちょっと目を上げたら、ルームミラー越しに、運転手さんが驚いた顔をしているのが、見えた。
何で、そんなにびっくりしているの?
そう訊こうとしたけれど、おかしいな。口が動かない。
――それを最後に、私の意識は、遠のいて……。
*
目を開けると、心配そうな夫の顔が覗き込んでいた。仕事でうまくいっていない時でも全然外には出さない彼なのに、蒼褪めて、瞬きもせずにジッと見つめてくる。私の右手は彼の両手にしっかりと握られていて。
「どうしたの?」
私がそう訊くと、何故か彼は泣きそうな顔をしたわ。もう少し手の力を緩めてくれないと、ちょっと、痛いんだけどな。
「大丈夫か?」
質問したのは私なのに、彼は、そう問い返してきた。
――何かが変。
夫に更に言葉を重ねようとして、不意に違和感に気付いた。気付いてしまった。
――お腹が、軽い。
急に、不安が込み上げてくる。
恐る恐る触ってみたお腹は、ペタンコだった。これって、どういうことなの?
「何で?」
私のその言葉に、彼はグッと唇を噛み締めて、軋むような声で答えたわ。
「そこには、もう、いないんだよ」
――じゃあ、どこに?
私のその思いが伝わったのか、夫は何回か目を瞬かせると、言った。
「もう、何処にも、いないんだよ」
彼が何を言っているのか、さっぱり解らなかった。
眉をひそめた私に、夫が更に繰り返す。
「あの子は、もういないんだ。僕たちの手の届かないところに、逝ってしまったんだよ」
そんな筈はなかった。だって――
「今朝まで、元気だったのよ?」
私がそう言うと、夫は目を見張った。そして、私に事実を伝える。
「お前は、二週間、意識がなかったんだ。凄い出血で、昏睡状態で、お前も危なかったんだよ」
解らない。解らない――解らない。
彼が何を言っているのか、解らない。
じゃあ、私の赤ちゃんは、今、どうしているの?
夫が、唇を震わせる。
これ以上、聞きたくない。でも、聞かなければならない。
「あの子は、もう、送ったよ。お前が目覚めるのを、待っていられれば良かったんだけど……」
ああ、私のこの手が一度も触れることができず。
あなたのその目が、私を見てくれることもなく。
私の知らないうちに、全てが失われてしまった。
「男の子だったよ」
夫のその一言だけが、私の胸の中にコトンと残った。
*
それから、最初の一年は、何を目にしても、何を耳にしても、涙が溢れた。
この空を見たら、あなたは笑っただろうか。
この風を感じたら、あなたは泣いただろうか。
キレイな花を見ても、温かな日差しを感じても、何をしても、湧き上がってくるのは、あなたに何も与えてあげられなかったという思い。
喋らず、笑わず、眠らず。
ただ毎日涙を流すだけの私に、夫は、黙って傍にいてくれた。手を伸ばした時に、何も言わず、黙って、この手を握り締めてくれていた。
その温もりで、私はまた、涙を流して。
ようやく涸れたかと思った涙は、またすぐに頬を濡らした。
そうして、日々は流れていった。
*
静かに季節は一巡し。
ある日気まぐれに取り出したあなたの産着に、ふと、笑みがこぼれた。
私の微かな声を聞きつけて、夫が驚いたように振り返る。そんな彼を見つめて、私は口元に笑みを刻んだまま、問い掛けた。
「黄色で、正解だったでしょう?」
あの頃、お腹の中にいるあなたのことを、夫は「女の子に違いないからピンクにする」と言い張ったの。私はどちらか判らないのだから黄色にすべきだ、と主張して。あなたの服を買いにいくたび『戦争』になって、結局買わずに帰ってきてしまうことも何度かあったのよ?
あなたが男の子なのか女の子なのか、お医者さんに教えてもらったら良かったのだけれど、私も夫も生まれてきてからのお楽しみにしたかったから、敢えて訊かずにいたの。
でも、最終的には、いつも結果は私の勝ち。彼は黄色の産着をレジに持っていく間も、ブツブツ未練がましく何かを言っていたわ。
その時の彼の様子を思い出して、私はまた、小さく笑った。
あるかどうかわからないような私の微笑みに、夫は、何度も頷いて。
「そうだな。黄色で、正解だった」
今でも愛しい、私のあなた。
いつの間にかあなたのことを過去形で話せるようになっていたことに、ほんの少しの寂しさを、感じた。
*
そして、また、一年が過ぎ。
私は、そっと、お腹を撫でた。
まだ、何も感じない。
会社から帰ってきた夫に、私は何て言おうかと考えて。
「今度の産着も、黄色にしておく?」
夕食の後、そう問いかけると、夫は一瞬首をかしげて、そして、目を見張ったわ。私があんなに泣き続けていた時も涙一つこぼさなかった彼が、声を震わせた。
「今度こそ、ピンクだろ」
私は立ち上がり、彼を抱き締める。胸の中にある彼の頭は、ずいぶんと白いものが混じっていて。
じんわりと温かく湿っていく胸元が、私の心を締め付けた。
「ありがとう。ありがとうね。私を待っていてくれて、ありがとう。もう大丈夫だから。あなたを泣かせてあげられなくて、ごめんなさい。つらいままにしてしまって、ごめんね」
そう言いながら私が彼をぎゅぅっと抱き締めると、私の背中に回された彼の腕にも、同じくらいの力が込められた。
――あなたを忘れることはできない。誰もあなたの代わりにはならない。
だから、あなたのことを胸の中に留めたまま、私たちは前に進む。
*
十月十日が過ぎた時。
私の腕には、小さな小さな女の子がいた。
柔らかく、頼りなく、でも、確かな温もり。
愛おしさに、胸が潰れそうになった。
この子を、幸せにしよう。
この子も、次の子も、その次の子も。
私の全てをかけて、幸せにしよう。
そう、誓った。
*
私と夫は、三人の娘を授かって。
ある日、夫がポロリとこぼした。
「女ばかりで、僕は肩身が狭いよ」
口にしてしまってから、彼はハッと顔を強張らせたの。
私は、夫に笑顔を向ける。何の屈託もない笑顔を。
「そうだね、もう一人くらい、頑張ってみる? 確率から言っても、今度こそ男の子かも知れないよ?」
私がそう言うと、彼は少し呆気に取られたようになって、そして、笑った。
「チャレンジしてみようか」
――結局、それは達成されなかったけれども。
いつの間にか、あなたを思い出す時にも視界はにじまなくなっていた。ただ、会いたいな、と思うだけで。
*
娘たちは皆、すくすくと成長し、それぞれかけがえのない人を見つけ、大事な家族を増やしていったわ。あの子達を巣立たせるのは寂しかったけれど、それ以上の嬉しさがあった。
巡る季節には、いつもいつも笑顔があったの。
そうして、いつしか私と夫は共に年を重ね、やがて終わりの時がやってきた。
枕元には、三人の娘とたくさんの孫たち。
夫は、三年前に、先に逝ってしまった。
こうやって、静かな時を迎えた時に、ふとよぎるのは、私の中に確かに宿り、けれどもこの手をすり抜けてしまったあなたのこと。私が捕まえていてあげられなかった、小さな命。
一緒に時を過ごしてきた娘たちのことを愛しているけれど、同じくらいに、会うことのできなかったあなたのことも、愛してる。
ああ、かけがえのない、あなた。愛しい、あなた。
命は巡るものだから、いつか、また、どこかであなたに会えるはず。
その時は、あの時抱き締めてあげられなかった分だけ、抱き締めてあげたい。
あなたと笑って、あなたと泣いて――あなたと同じ時を過ごしたい。
そして、私は、瞼をおろす。
あなたと出会う、旅に出るために。
***
――押し寄せる、波。
死んだ方がマシ、と思ってしまうような痛みに、フッと意識が遠のいた。すかさず、助産師さんの叱咤が飛ぶ。
「ほら、頑張って! 赤ちゃんも頑張ってるよ! ちゃんと深呼吸して、ほら、今! 今力んで!」
あたしはハタと我に返って、お腹に力を込める。
と、スルンと何かが抜け落ちるような感覚。そして響き渡る、大きな泣き声。
「頑張ったわね! 元気な男の子よ」
そう言いながら助産師さんが見せてくれたのは、真っ赤でクチャクチャでとっても不細工な、でも、最高に可愛い愛しいあなた。のどが飛び出ちゃうんじゃないかって思うくらい、声を張り上げてる。
あたしの胸の上に置かれた途端、あなたはピタリと泣き止んだ。
「ふふふ、赤ちゃんにはお母さんのことが判るのよ。不思議でしょ?」
「ええ……」
あたしは助産師さんに生返事をしながら、胸の上でもぞもぞと動いているあなたに手を伸ばす。指先で頬をくすぐると、あなたはその小さな手でキュッと握ってきた。
その瞬間、込み上げてきた涙が堪えようもなく零れ落ちる。
なんだか、ずっと、あなたを待っていた気がするの。
とても、とても長い間、ずっと。
初めてお母さんになった人は、皆、こんな気持ちになるのかな? 色んな気持ちで一杯で、自分でも何が何だかよく解からない。
愛しい。
嬉しい。
大事にしたい。
――懐かしい?
とにかく、全力で幸せにしよう。
色んなものを見て、色んなものを聞いて、色んなものに触れて。
あなたをいつでも笑顔で包んでいたい。
「はじめまして。ずっと、会いたかったんだよ」
あたしは、そっと囁きかけた。
輪廻転生、あったらいいなぁ、と、思います。