短すぎるメモ書き
「今朝……」
言いかけた口を噤んでしまった。
スーツ姿、仕事が終わったお父さんは2日に1度はこうして顔を見に来てくれる。
「今朝? 聞いたの?」
亜美が笑ったって。
「あ、あぁ……」
お父さんは長い間、単身赴任していた。たまに帰ってくると、いつもめんどくさいくらい話し掛けてきてた。それなのに、あの事件を境に変わっちゃった。
いつも私の……。亜美の顔色を窺ってる。
でもお母さんから聞いてるよ?
亜美が……。世間的には亜津が自殺した日からずっと単身赴任先の帰還命令を無視したってこと。亜美の傍を選んだってこと。
私に気を使って、話したいことも我慢してるって。
「うん……。つい、笑っちゃった……」
だから笑ってあげてみた。ぎこちなかったと思うけど、そこは許して。
「あ、亜美……!」
お父さんは両手を伸ばして……止まって……。その手を下ろした。ベッドの上に。
その大きな手に、亜美の大切な右手を重ねる。
つらかったと思う。お父さんも。同情や哀れみなんかじゃない、本当に心配してくれてる目をお父さんがしてるから。
だから、もう1度、笑いかけてみた。
きっと、『怖くないんだよ?』って伝わったはず。亜美のこと、触っていいんだよ?
抱き締められた。強く。力強く。
でも、ごめん。
私……。僕、亜美じゃないんだ……。
もう1度。お父さんもお母さんも冷静さを取り戻してる時なら……伝わるかな?
今まで何度も入れ替わってたってこと。
その結果、何が起きたか……。
僕は伝えたい。
亜美が優しすぎたからこうなっちゃったんだって……。
亜美は今の僕みたいに可哀想な子なんかじゃなくって、自分を捨てられるくらい良い子だったんだよって。
軽い音がしたのは、お父さんが亜美を抱き締めたまま……。そんな間の悪いタイミングだった。
「なっ! 何してるのっ!?」
お母さんは、この病院の一階にあるらしいコンビニの袋を投げ捨てると、こっちに向けてパタパタと走ってきた。私は襲われたトラウマを抱えてるって思われてるから。
「あっ、亜美が……」
そのまま頭でも引っぱたきそうな勢いは、お父さんの顔を見て萎んでいった。
……泣いてたからね。ボロボロに。
「……ま、まぁ、離れようね……?」
お母さんはそう言うのが精一杯だった。
「ごめんね……。亜美……」
お母さんはそう言いながらぐちゃぐちゃになったプリンを開けて、手渡してくれた。
「ううん。ありがとう……」
……頬がなかなか思う通りに笑顔を作ってくれない。もしかして、ずっと笑ってなかったから、筋肉がおかしなことに……?
「亜美……」
でも、伝わったみたいだね。
このままじゃいけないって思ったこと。これから笑うんだって決めたこと。
可哀想なことになっちゃったプリンをひと口、食べてみる。
その滑らかさは、あの時の亜美の唇みたい……って言ったら、亜美は怒るかな?
……あれ? あの時の私は亜美の中だったから、亜津の唇……?
なんか、やだ。
「……そんな顔して。ちょっと崩れちゃっただけじゃない」
「え? ……えっと……。そうじゃなくて……」
しどろもどろ。亜美だったらもっとこう……上手に返すんだろうけど、私はあいにく、口下手だから。
もっと上手に亜美にならないといけない……の?
亜美は私にこの体をくれて、どうしたかったの?
亜美に成り切る……じゃないと思う。亜津のほうがこの体に似合ってるって……。
だったら……。亜津のままでいい……のかな……?
信じて貰えないかもしれないけど、また言ったほうがいいの?
亜津なんだって言った上で、亜美として生きればいいの?
……分からない。
……分からないよ。
「もう……。そんな顔したままなら、食べなくて結構」
あ……。そうじゃないのに……。
取り上げられた。プリン。
「お前、そんな意地悪を……」
お父さんが抗議してくれたけど、お母さんの目が違った。
それは私が……。亜津が何度も何度も見てた目……。僕を観察の対象に置いた目。
「いつまで拗ねてるの? 亜美はこんな時……」
……亜美はこんな時?
唇を突き出してた! 亜美の癖!
「唇が出てきてたよね……? 亜津……?」
そっか……。バレちゃってたんだ……。いつからなのかな?
「そうなのね? 亜津?」
お母さんの真っ直ぐ見詰める目が強すぎて、思わず俯く。
でも正直を言うと、安心感のほうが強くて、不思議な気分。
「何を言ってるんだ……?」
お父さん、本当のことなんだよ?
「私の場合、気が半分以上、狂ってたから……。でも後で聞いたらね?」
亜美は先生の前で僕は亜津だって。
そう言ったんでしょ?
あぁ、それは僕も聞いている……けど……。
お父さんは静かに聞いてて?
亜美の体に触るなって。
それを聞いていっぱいいっぱい考えたの。
なんで亜美はそんなこと言ったんだろう……って。
その言葉を信じてあげる方向で……ね?
…………どうして? どうしてそんなこと、信じられるの?
そんなの簡単よ?
……え?
我が子の言うことよ?
いちばんに信用してあげたいじゃない?
……お母さん…………。
でも、確信は持てなかったの。
ごめんね。
確信したのは優子ちゃんが届けてくれた1枚のメモ書き。
優子ちゃんの教科書に挟んであったんだって。
それを届けてくれたのが3日前。
なんのことか分からないって優子ちゃんは言ったけどね。
私には十分のメッセージだった。
はい。これ。亜津が持ってなさい。
お母さんはそこで一枚の小さな紙切れ。ノートの切れ端を私に……。僕に手渡した。
亜津のこと、よろしくね?
たったこれだけ。
これだけの遺書だった。
再完結となります。
更なる続きは、また機会がありましたら書くかもしれません。