彼女の許されざる仕事
最近、うちの部署では酸っぱい臭いがするようになった。その原因だと言われるのが、営業の首藤さんだ。
首藤さんは営業成績がよい会社の先輩で、黒髪ロングヘアの美人なので社内でも注目されている。しかしここ数日、彼女の身体からなんだか酸っぱい臭いがし始めている。それも、日を追うごとにだんだんと臭いが強くなっているのだ。
彼女のことが文字通り「鼻に突く」社内の女性は、「何日も風呂に入っていない」「お酢ダイエットをしている」などの噂をしている。しまいには「妖怪お酢女」などという人まで現れるほどだ。
私も時々彼女が通る時、こっそり臭いをかいでいる。お酢というより、何か薬品のような感じもする臭いだ。
「土方君、これ、コピー取ってくれる?」
ふと顔を上げると、首藤さんが会社の資料をこちらに差し出していた。私は慌ててその資料を受け取ると、慌ててコピー機に向かった。
立ち上がる瞬間、やはり酸っぱい臭いが彼女から漂った。彼女自身は、この臭いについてどう思っているのだろう?
仕事が終わり、首藤さんは他の社員よりも早く会社を出た。
ここ数日、彼女の退勤する時間が早い。以前は終業時間になっても机に座っていることが多く、一時間程度残業することもざらだ。しかし、今は終業のチャイムが鳴ると同時に、席を立ってタイムカードを押しに行く。
「首藤さん、また早く帰っちゃったわよ」
「男でもいるのかしら?」
「まさか、あんな酸っぱい女に?」
「人でも殺しに行くんじゃないかしら?」
「うわぁ、こわーい」
首藤さんが帰った後、奥から女性社員のひそひそ声が耳に入ってくる。これもいつものことだ。
それにしても、とうとう人殺しまで噂されるようになったか。いくら美人で仕事ができるからといっても、女は嫌いな相手にそこまでの悪口を言って妬む生き物だったのか、と若干呆れ気味にため息をついた。
次の日も、首藤さんは仕事を早く切り上げ、終業のチャイムと同時に席を立った。今日は私も仕事が早く終わったので、彼女と同時に席を立つ。
「お先に失礼します」
同僚は「もう終わったのか?」という顔をしていたが、構わず事務所を出る。そして、ちょうど更衣室から出た首藤さんに声を掛けた。
「首藤さん、この後何か予定ありますか?」
首藤さんは驚いた様子で振り返ったが、すぐさまにこりとして首を縦に振る。
「ごめんなさい、今からちょっと用事があって。珍しいわね、土方君が私に声を掛けるなんて、どうしたの?」
「あ、いえ、たまには食事でもどうかなとおもいまして。ちょうど近くに新しくレストランが出来ましたから」
「あら、そういえばそうね。でも、今日はパス。また次の機会によろしくね」
そう言うと、彼女は手を振りながら階段を降りていった。
どうしても首藤さんのことが気になった私は、会社を出るとすぐさま彼女の後を追った。なんとなくストーカーのようで気がひけるが、仕事中気になってしょうがなかった。
会社を出ると、オフィス街をゆっくりと歩いていく。物陰に隠れながら、私は人ごみの中で見失わないようにしっかりと後をつける。こうしていると、なんだか犯罪者を追っている刑事のような気分だ。周りから見れば、やはりストーカーと思われても仕方ないだろうが。
彼女はオフィス街を抜けると、海の方へ向かった。この先にはこの街の埠頭がある。こんな時間に女一人で埠頭だなんて、気晴らしに海を眺めに行くのだろうか? だったらもう少し先の砂浜に行った方が眺めがよさそうなものだが。
しばらくすると、沢山の倉庫と船が見えた。他に目だったものは無い。後はあたり一面海で、その先に島が見えるくらいだ。
「こんなところに何の用なんだろう?」
人の気配すらないこの場所で、首藤さんは何をする気なのだろう?
埠頭に入って最初の倉庫の前で立ち止まると、彼女は辺りを見回し、海の方へ向かった。私はなんとか隠れる場所を見つけながら、彼女の後を追っていく。まだ明るい時間とはいえ、周りに誰もいない。こっそり追いかけるには好都合だ。
いくつかの倉庫を通りすぎた後、彼女は小さな倉庫の鍵を開け、入っていった。私もその後を追って近づこうとする。しかし、倉庫の中から白い煙が出てきたのと同時に、わずかな刺激臭が鼻を突いた。
「うわっ、な、なんだこの臭い!?」
何とも言えない酸っぱい臭い。首藤さんの臭いと同じだ。なるほど、あの倉庫の臭いが、首藤さんの服に染みついていたのか。
それにしても、白い煙が出ているくらいなので、中はもっと強烈なはずだ。首藤さん、よく耐えられるな。それに、一体何の煙なのだろう。
白い煙の正体が気になった私は、ゆっくりと倉庫の入口に近づく。距離が近くなるにつれて、臭いもだんだんときつくなってきた。
こっそり中を覗くが、暗くてよく分からない。それに、白い煙が目に入りしみる。しばらくすると明かりが点き、中の様子がはっきり分かるようになった。
中にはいくつか頑丈そうな扉が見えた。金庫なのか冷蔵庫なのか、よく分からない。
首藤さんは、その扉のうちの一つを開けようとしていた。かなり丈夫で重いのか、開けるのは苦労しそうだ。扉が少し開くと、中からさらに大量の白い煙が出てきた。思わずせき込んでしまい、その声を聞かれたのか、首藤さんがこちらにやって来る。
逃げるべきだろうか……そんなことを考える間に、首藤さんは私の目の前までやってきた。
「あら土方君、こんなところで何やっているの?」
よく見ると、首藤さんはガスマスクに保護眼鏡をつけている。あれだけの煙が出るものだから、当然と言えば当然だ。
「しゅ、首藤さんこそ、一体こんなところで何を……」
「お仕事よ。と言っても、会社の仕事とは違うけれど」
「お仕事……って、こんな煙が出る中でやる仕事って」
「あら、この白い煙と臭い、何の薬品か知らないの?」
この強烈な刺激臭と、白い煙……そういえば学生時代に扱ったことがあった。
「塩酸……?」
「ええ、濃塩酸よ」
濃塩酸。強酸の一種で、希塩酸といえば中学の化学実験でもよく使われるものだ。濃塩酸は、35%以上の濃い塩酸で、塩化水素の白い煙を発する。
「……なにか合成でも?」
「まさか。もう気が付いているんでしょ?」
彼女は淡々と、いつもより真剣な表情で話し掛けてくる。
気が付いている? と言われても、私には首藤さんがやっていることがさっぱり見当つかない。こんな人気のないところでやっていることなんて、ろくでもないことだろう、ということくらいだ。
「塩酸はいろんなものを溶かすのよ。金属も、人間も」
「人間……って」
「まあ……そういうことよ」
人がいない時間帯の倉庫で、濃塩酸……まさか……
「さて、しゃべりすぎちゃったわね。それに、こんなことしているの、見られるとマズイのよね」
私はとっさに逃げようとしたが、石につまずいてしまった。立ち上がろうとするも、体が動かない。首藤さんは近くにあった鉄の棒を拾うと、少しずつこちらに近寄ってきた。
「そんな……まさか、首藤さん……」
「見られちゃったからには仕方ないわね。先輩の後をつけるなんて、土方君ってストーカーだったのかしら?」
「いや……いやだ……」
「そうね……先輩の女を追いかけまわす後輩には、お仕置きが必要よね」
「や……やめてください、誰にも言いませんから……」
「そう言われてもねぇ……見られちゃったものは仕方ないし……」
先輩は思い切り鉄の棒を振り上げる。私の体は一向に動かない。
「土方君も、お仕事のついでに片付けてあげるわ」
頭に強い衝撃が走ると、私は意識を失った。