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夢の世界で会ったなら

作者: quiet

 目が覚めるとまだ部屋の中は薄暗かった。


 もぞもぞと布団にもぐって髪をこすりつける。今は何時だろう。深夜に一度起きたような気がするし、もううっすら朝が来ているような気もしたけれど、もうひと眠りできそうだからまだ枕元の携帯で時間を確認する気は起きなかった。

 それからもう一度、五分くらい浅く眠って、ようやく眠気が取れた。枕もとの携帯を確認すると、もう午前七時半だった。


 ……あれ、遅刻じゃないのか。


 今日は月曜日だった気がする。昨日は日曜日だったから。時刻を見ると急に意識がはっきりし始めた。昨日は急に夕方くらいからひどい頭痛がして、それで随分早くに寝たんだった。どうせいつもの時間までには起きるだろうと目覚ましをセットしなかったけれど、その予想はどうやら甘かったらしく、結果としては半日くらい眠っていたことになる。


 けれど不思議に思った。いつもなら寝坊した日は親が起こしに来る。朝食が片付かないからだ。体調不良を考慮されて放っておいてくれたのだろうか。


 まあしかし幸いその頭痛も収まっている。多少遅れても学校に行こう、と部屋の外に出ると。

 家は驚くほど静かだった。生活音がしない。七時半は普段ならばちょうどみんな家から出るくらいの時間帯で、結構バタバタしているはずなのに。


 リビングに着いて、そこにはやはり誰もいなかった。カーテンは閉まっていて電気も点いていない。薄暗い部屋の中で考える。ふたりとも寝坊だろうか。さすがに家族三人そろって寝坊というのはなかなかなさそうだけど。

 とりあえず視覚を確保しようと思って、探り足で窓辺に近付く。そしてカーテンをつかんで、一息にそれを開け放って。


 白光だった。


 一瞬目が眩んだ後に、その奇妙な発色に気が付いた。ガラス張りの天窓でも見ているような感覚。窓から射し込む光はうっすらと紫がかっていて、それがかえって鮮やかに白くも思わせる。

 何だか幻想的な風景のようにも思えた。誰もいない朝の輝くリビングに、どこか不思議な気持ちになる。


 とりあえず、親を起こしに行くか。

 と、寝室まで行って、扉をノックした。


「おーい、朝だぞ」


 コンコン、と叩いてみても返答はない。というよりも、この扉の向こうに人の気配を感じなかった。

 奇妙に思ってノブに手をかける。


「入るぞー?」


 中はもぬけの殻だった。布団は畳まれて、ベッドの上には誰もいない。カーテンは閉まっていて光量は少なかったけれども、それくらいはわかる。

 どこに行ったのだろう。


 疑問に思いながら玄関を見に行ってみると、ドアロックも閉まったままだった。ということは家の中にいるのだろうか。けれどリビングから寝室に抜けるまでの間には、当然人の気配なんてなかった。


 サンダルを突っかける。一応外も見ておこう、と。

 ドアロックを開けて、鍵も回して、それから外に出て。



 それから、天国を見た。



 紫がかった白光が降っている。空の青すら白んでしまうほどに。

 見慣れた風景が、どこか清潔な廃墟めいて照らされている。

 朝の空気は水の中にいるように澄んでいて、見知らぬ植物が地面を這い、不規則に色鮮やかな花が咲いている。


 この世の果てみたいだと思った。


 それから妙に悲しいような気持ちが湧いてきて、じわりと目元に涙が溜まって、気付けば胸のあたりを締め付けるように手で押さえ込んでいた。


 俺は今、一体どこにいるのだろう。



*



 これはきっと、夢なんだろうと。そう思った。思うことにした。


 冷蔵庫の中を適当に漁ってつくった間に合わせの朝食。フライパンに油を引いて焼いただけだけれど、それなりには食べられる。それなり以上のものではないが。

 それでも食パンをくわえながらリビングに座っていると、どこかのテラスで優雅に食事でもしているような気分になる。


 贅沢な夢だ。自分の頭の中にこれだけ明確に『美しいもの』をイメージできる力が眠っていたことに驚いた。人並み程度には映画だって音楽だって趣味にしてはいるけれど、自分にそんなことができるだなんてことは考えてもみなかった。

 夢っていうのは案外すごいものなのかもしれない。食事すればちゃんと味がわかるし、頬をつねってみれば痛む。


 おまけに目覚めることができない。


 まあこういうこともあるだろう、と開き直ることにした。悪夢が覚めないなら困りものだが、この夢が覚めないということで困ることは特にないのだから。


 さて、と食べ終えた皿を洗って部屋に戻る。それから着替えだ。

 選んだのは制服。何も考えなくていい分、私服よりずっと楽だ。


 玄関でいつもの少しくたびれた靴を履いて、出かけることにした。

 行く当てのない散歩だ。せっかくこれだけ綺麗な夢なのだから、外に出て色々見てみたい。


 外に出ると相変わらず清潔な光。照らされた街は自ら輝いているようにも見える。

 玄関を出たところで、しゃがんで足元の花をじっと見つめた。

 黄、青、赤、橙。

 この花の名前は何というのだろう。じっと見つめてみればそれぞれの花の形は独特だ。花の名前なんてたんぽぽと向日葵とチューリップ、それからバラと桜くらいしかわからないけれど、これにも驚く。どんな風に俺はこの花を記憶したり想像したりしていたのだろう。


 立ち上がって歩みを進める。好きな花が咲いている方に向かってみよう。

 どこかおとぎ話の中にいるような発想に、我ながら少し笑ってしまった。



*



 自分では青色が好きだと思っていたけれど、案外それだけでもないらしい。


 ふらふらとした足取りに規則性はない。光の中を気まぐれに歩く。

 色とりどりの、それぞれ形の違う花を気ままに追っていく。普段は植物なんて気にも留めないけれど、案外こういうのも面白いものだ。今度起きたら、休日に植物園にでも行ってみようか。


 歩いているうちに、自分がどこにいるのか本当にわからなくなる。当然だ。来た道を覚えておく気もなかったのだから。迷ってしまっても帰りは一本道だ。必ずベッドの上に戻ってくる。


 街に人はいなかった。ふと、小学生の昼休みに校内でかくれんぼをして図工室に隠れたときのことを思い出した。あのとき教室の塵は陽射しに溶けてきらめいて、世界は遠くに感じた。そしてそれにどこか安心していたことも覚えている。


 今はどうだろう。確かに安らかな風景ではあるけれども、どこか焦燥めいた落ち着かなさがうっすらと胸に沈殿しているような気もする。その正体は、わからないけれども。


 パッと開けた場所に出た。

 遮るものがなくなりまた目が眩む。そして少し目を慣らして見ると、俺の通う高校の校庭だった。普段の通学路とは違うルートで、ぐるっと裏から回って校庭のフェンスの前に辿り着いたようだ。


 ハハッ、と思わず笑いが漏れてしまった。よほど俺は真面目らしい。夢の中でも無意識のうちに学校に辿り着くのだから。けれど相変わらずの静寂は、学舎の住人の不在を伝えている。


 どうしたものかな、と考える。実際に学校に入ってみて、誰もいない昼間の空気を堪能してみたいとも思う。一方で、どうせ現実世界でも見られるものならそれよりも街を歩くことを優先した方が得な気もする。


 そんな風に悩んでいると、突然名案が思い付いた。というよりも、思い出した、と言うべきか。


 学校の外れに、旧校舎がある。かなり昔のもので今はもう使われていないけれど、歴史的価値があるとかなんとかで未だに取り壊されていない建物が。

 普段だったら立ち入りなんて禁止……、あれ、されているんだろうか。特に注意されていた覚えもないし、案外自由に行けたりも……。まあいい。とにかく普段は入るような場所じゃないけれど、夢の中だから折角だし、ということで。


 フェンスを乗り越えて校内に入る。校庭を横切って、正門も昇降口も駐輪場も通り過ぎて、さらに先。第二体育館の前を左に曲がって、駐車場を過ぎて、それからプールの横の坂道を下っていくと、その先にある。


 でかい。

 パッと見てまずはその感想が出た。このあたりまで出てくることはほとんどないし、受験校検討のために見学に来たときが最初で最後だったろう。ここの中を見回るだけで一時間、二時間くらいは容易に潰せそうだ。

 では、と正面玄関のドアノブを握って。


 開かなかった。


 そう来たか、と思うと同時に、そりゃそうだよな、とも思った。家の鍵だって閉まってたんだから、旧校舎の鍵が閉まってない道理はない。

 アテが外れたな、と軽く息をつく。折角だし、中に入れなくても周りをぐるっと見て回ろうか、と。


 旧校舎は、ヨーロッパ風の(というのも随分ざっくりした分類だと思うが、建築には明るくないからこう言うほかない)木造建築で、それにカラフルな草花が絡みついている様子は、廃墟と言うよりもそういう観光地のようにも見える。

 案外面白がるような気分で校舎の表側を見て、それから角で曲がって裏側へ。それからすぐに。


 女の子を見つけた。


 灰色がかった銀色の髪に、それこそ童話みたいなドレスを着た女の子。年の頃は俺と同じくらいか。その近くには色鮮やかな花壇があり、彼女はそれを見つめている。


 えっ、この夢ってそういう感じなんだ。


 幻想的な空気の夢だとは思っていたけれど、こういうメルヘンな感じの女の子が登場してくるとは思わなかった。少し動揺している。


 迷ったけれど話しかけてみることにした。この子がこの夢の中にしか存在しないなら、話しかけずに立ち去るのも何だかひどいような気もしたから。


 口を開いたところで、けれどその少女が声を出す方が早かった。その言葉は俺じゃなくて、目の前の白色の花に、今にも溜息が零れそうな調子で向けられる。


「……消えちゃいたいなあ」


 グラビティガール。

 また迷いが生じたけれど、思い切って話しかけてみることにした。どうせ夢なのだから。


「ねえ、君」

「わひゃあ!」


 すごい声を上げて彼女は飛び跳ねた。そして腰を抜かしたようにその場にへたり込んだ。あまりのオーバーリアクションに、こちらの方が唖然としてしまう。

 彼女は動悸を鎮めるように胸を押さえながら言う。


「ななななな、なにっ! なんでっ! どうしてっ!」


 何だか奇妙な感じがした。俺の夢の中だというのに、俺の方が不審者みたいな扱いを受けているというのは。


「俺は――」

「待って。いいわ。あなたの名前を聞く必要なんてないもの」


 質問に答えようとして、機先を制される。彼女は先ほどの動揺を取り繕うように、キリッとした表情で立ち上がり、スカートの後ろをはたいた。一度土がついたらなかなか汚れが落ちなそうな材質に見えるし、大変そうだ。見た目の通りちょっと変わった子かもしれない。


「だって、この世界にはきっと私とあなたしかいないんだから」


 核心を突いていそうな発言に興味が湧いた。


「ああ、そうなんだ。ということは君はこの夢の中で唯一の人間ってことか」

「夢?」


 彼女は俺の言葉に小首を傾げる。その表情はどこか楽し気で子供っぽいようにも思えたけれど、口元にあるホクロがなんとなくそれを艶っぽく見せていた。


「夢なんかじゃないわ。こっちが現実よ」

「んん?」

「私もあなたの頭の中から生み出された存在なんかじゃないわ。お望みなら、そうね……。あなた、この花の名前を知ってる?」


 彼女が指さしたのは先ほど語り掛けていた白い花だ。いや、と答えて首を横に振る。


「これはポピー。あなたが知らない花の名前を私は知ってる。これでも私があなたの想像の産物だって言える?」


 彼女の言葉に少し考えて。


「……いや、言えるんじゃないか?」

「え?」

「だって俺は知らないわけだしな。君が現実に存在しないような形の花を適当に指さしてポピーだって言ってるだけかもしれないし」

「んぐ」


 彼女はしまった、と言葉に詰まる。浮世離れした外見の割に、結構表情豊かな子だ。


「……じゃあ、どうしたら信じてくれる?」

「この世界が現実だって?」

「そう」


 そんなこと俺に聞かれてもな。

 そう思いはしたけれど、この奇妙な倒錯が少し愉快だったので俺も考えてみる。


「頬をつねったら痛い、とか」

「痛みを伴う夢だって普通にあるわ」

「あ、やっぱりそうなんだ」

「それはそうよ。視覚と聴覚が働いて、その他の感覚が働かないなんてことないでしょ」


 確かに言われてみればその通りな気もする。しかしそうするとどういうところで夢と現実を区別すればいいのか。


「覚めたら、夢、とか」

「覚めちゃったら現実じゃないの?」


 俺の何気ない言葉に、しかし彼女はどこか悲し気に問いかけてきた。


「たとえばあなたが現実だと思っている世界を考えてみてよ。あなたが毎晩ベッドで眠って夢を見るなら、その間は『現実から覚めてる』って状態なんじゃないの?」

「……胡蝶の夢?」

「……あ、そうね。そんな感じね」

「んー……、でもさ、現実の方って連続性があるだろ? でも俺は今朝起きたら突然こんなことになってたわけだし」

「連続性って現実の証明になるかしら? 連続した夢を見る人なんていっぱいいるわ。それに連続性の存在自体だって本当だか怪しいものよ。人の記憶なんて思っているよりもずっと脆弱なものだし、未来だって未だ到来していないものだもの。知りようがないわ」

「そこまで遡るのか」


 まるで思考実験だ。ううん、と唸る俺に彼女はにっこりと笑う。


「それにあなたは今まで自分がいた世界とこの世界を別に考えてるみたいだけど、そうとも限らないんじゃない? 目が覚めたら別世界……。想像したことくらいあるでしょう?」


 確かにあるけど。

 嫌なことがあった日とか、緊張して眠る夜とか、『明日、目が覚めたらまるで違う世界にいますように』なんて、望みのない願い事を唱えた日くらいはあるけれど。

 しかしそれを現実だと言われても。


「君は、どうしてこの世界が現実だと思うんだ?」


 結局のところ、これは否定も肯定もできない思考だ。現実の方にいるときでさえ、『これは夢か現実か?』と問われれば答えようがない。

 だから俺は彼女に尋ねて、すると彼女はにっこりと笑って。


「だって、この世界は綺麗だわ」


 と。

 白い光と鮮やかな花に囲まれて言うものだから。


 まあそれでいいか、と。

 そんな風に思ってしまった。



*



「お話しましょ」


 と彼女が言うので(本当に童話みたいな喋り方をする子だなと思った)、ふたりで近くのベンチに並んで座った。

 けれど隣の彼女は何も喋らない。何を考えてるんだかわからない表情で、花壇の花を見つめている。俺も何を話せばいいのかわからなくて、とりあえずは、と目線の先から。


「花、好きなのか?」

「うん、大好き」


 こっちを向いて幸せそうに笑う彼女の顔が思ったよりも近くにあって、少し気恥ずかしくなった。それをきっかけに、今この少女と俺はこの世界でふたりきりなんだ、ということを思い出して、なんだか妙に落ち着かなくなってくる。


「俺は花には全然詳しくないけど」


 彼女から目線を外して、今度は俺が花壇を見る。


「こうして見ると綺麗なんだな。朝起きてからここに来るまで色々見てきたんだけど、ちょっとそういうのに興味出てきたよ」

「そうなんだ。どんな花を見たの?」

「さあ。全然名前は知らないんだ」

「そうかしら? 見た目と名前が結びついてないだけじゃない? たとえばあの花」


 つ、と彼女の指先が花壇の黄色い花に向けられる。


「あの花の名前を知ってる?」

「……いや」

「パンジー」

「あー」


 そうか。確かに小学生の頃の花壇作業で見たことがある。なんとなくこれがわからないのは恥ずかしかった。


「じゃああれ」

「……わからない」

「デイジー」

「あー……」


 何か楽しくなってきたのか、しばらく彼女に花の名前を教えられた。

 マーガレットとかなんとか、最初の頃は何となく名前と見た目が結びつく花だったけれど。


「あれはガザニアで、あれはネモフィラで……」

「全然わからん……」


 綺麗、という以外はよくわからない花が増えてくる。花ってたくさん種類があるんだな、なんて頭を一ミリも働かせてないような感想が頭に浮かぶ。流石にすぐに教えられた全てを覚えるのは難しそうだ。


「あっ、ごめんね。ひとりで夢中になっちゃって」

「いや、面白いよ」

「そう?」


 うん、と頷くと彼女は嬉しそうに笑う。

 それでふと気になった。


「君は、俺が来るまではここで何をしてたんだ?」

「何をって?」

「ずっとひとりだったのか?」

「そうよ。ずっと花と一緒にいたの」

「ずっと?」

「ずっと」

「いつから?」

「ひみつ」


 そう言われてしまえばもうその先は聞けない。だから質問を変えて。


「寂しくなかったのか?」

「寂しい?」


 彼女は首を傾げる。そして少し悲しそうに。


「ひとりの方が、安心するわ」


 その答えは、何となく予想していた。

 この世界で目覚めたとき、確かにどこか安心したような気がした。静かで明るい世界。誰もいない世界。きっと、子供の頃に願った『別の世界』はこういうものだったんだろうと。

 だからこそ、疑問が湧く。


「なら、どうして俺と話をしようなんて思ったんだ?」


 例えば居心地の良い箱庭に、侵入者がやってきたとして。

 きっと、多くの人間はそれを快く思わない。


「そうね……。どうしてかしら。そう言われると、確かに不思議だけど……」


 彼女は困ったように頬に指を添えて。


「この世界にいるような人なんだもの。きっと優しい人だって思ったからだわ」


 その答えには、どう反応していいかわからなかった。

 優しいと、そんな風に自分のことを思ったことはなかったけれど。

 確かに俺も、彼女を一目見たときに、悪い人だとは……、


「そう言えば君、最初に……」

「うぇえっ?」


 反応は顕著だった。彼女は急に焦ったような顔になって。


「き、聞いてた?」

「聞こえた」


 うー、と彼女は頭を抱える。


「あの、あんまりその、言い触らしたりしないでね?」

「言い触らす相手が君しかいない」


 この世界では。

 そんな言葉に彼女は安心した顔になって続ける。


「こっちじゃない世界の方の話なんだけど」


 その話出しで、彼女も俺と同じ……、あっちの方の世界にいる人間なのだ、という前提は理解できた。


「不安にならない? 生きてると」

「生きてると?」

「将来のこととか」

「そりゃ、まあ……」


 そろそろ進路も考えなくちゃいけない時期だし、多少は不安になることもあるけれど。


「考える時間が欲しいの。ひとりでずっと、落ち着いて考える時間が」

「ひとりってことは、俺が来たのはやっぱりマズかったか?」


 申し訳なさとともに尋ねると、彼女は首を横に振って。


「ううん。言い方が良くないのね。ひとりっていうのはつまり……、誰にも強制されないこと。自由だってこと」


 それはつまり、きっと、こんな世界で生きることなんだろう、と。

 そんな風に考えて、頷く。


「本当は私たちってもっと自由でいていいはずなんだけど……。未来があるってだけで、どうしようもなく落ち着かなくなっちゃう。こんなに綺麗な場所にいたって、心の底では焦っちゃうの」


 その言葉の意味も、どこかでわかった。俺がこの世界に来たときに涙を流した理由。


「綺麗なものほど、失われていく気がするから」


 俺の言葉に、彼女は驚いたように目を瞠る。それから穏やかに微笑んで。


「……そうね。だから消えちゃいたいって、そう思う。こんな綺麗な場所に溶けてしまえればいいって、そう思うの。……ねえ、あなたは」


 彼女は、ひそやかな声で俺に問いかける。


「どっちが現実だと思う? できれば正直に言ってほしいんだけど」


 俺は少し悩んで、こう答える。


「……正直なところを言えば、やっぱり俺はいつもの方が現実だって、そう思うよ」

「……そう」

「でもさ」


 正直な気持ちのままに。


「こんな綺麗な世界なら、こっちが現実だって悪くないって思う。むしろ、良い、かな」


 言い終えれば、彼女は嬉しそうに笑っていて。


「……やっぱり、あなたって良い人だわ」


 ストレートな褒め言葉に、気恥ずかしくなって目線を逸らしてしまえば、急にあたりの色合いが変わりだした。

 変えたのは、空から降る光だ。


「今日はもう、お終いみたい」

「お終い?」


 空を見上げれば、白い光は徐々に優しい金色に変わっている。

 隣に座る彼女は静かな声で言う。


「この世界から覚めるときはいつもそうなの。空が蜂蜜みたいな色に変わって、それからパーッと光って、気が付くとベッドの上にいる。たったそれだけの、いつもみたいな世界の終わり」


 覚めるのは夢か現実か。あるいはすべてが夢の続きで、それとも現実の続きなのか。

 そんなことは俺にはわからないけれど。


「……目が覚めたら、君に会いに行ってもいいかな」

「いいけど、きっとわからないわ」


 彼女は俺の言葉に、くすり、と笑う。


「私、あっちの世界とこっちの世界じゃ、全然違うもの。顔も姿も、喋り方も。あっちじゃほら、色々自由にならないでしょ?」

「でも、俺が話しているのは確かに君だろ?」

「あっちの私は私じゃないかも」

「んん?」


 難問だ。そう言われると困ってしまう。

 俺が考え込んでいると彼女はくすくすと笑った。


「ごめんね、冗談よ。いいわ。私のことを見つけられたら、会いに来ても。そしてそのときは……」


 彼女の言葉の途中で、空は、ぱあっ、と光り出して。

 結局、その言葉を最後まで聞くことはなかった。



 聞かなくても、わかっているんだけど。



*



 目が覚めたら、ベッドの上にいて、また月曜日だった。時計の指し示す時間は午前六時前。早寝の成果が出たらしい。


 それからまだ誰も起きてきていないリビングに入って、簡単に自分で朝食を作ってしまう。それを食べ終えるころに、両親が起きてくる。

 随分早いな、と驚くふたりに、今朝は用事がある、と伝えて洗い物をして自室に戻る。それから制服に着替えて、靴を履いて、家を出た。


 花を追ったときとは違って、今日は自転車だ。十五分も漕げば、すぐに学校に着く。その自転車を駐輪場に置いても、まだ七時だ。少し早すぎたかもしれない。

 第二体育館の前を左に曲がって、駐車場とプールを通り過ぎる。坂道を下った先には、立派な旧校舎が。


 けれど俺はその建物に入ろうとせず、ゆっくりと裏に回って行く。何かを期待するように。


 あの日のように花はない。

 だから正直なところ、不安ではあったけれど、それでも、と。角を曲がれば。


 黒髪の女の子がいた。


 制服姿で、記憶にあるよりもずっと小さな花壇に水をやっている。

 話しかけようと思って、けれどあれはやっぱりただの夢だったんじゃないかと、どこかに迷う気持ちもあって。

 だから、俺が声をかける前に、彼女が振り向いた。


 そしてバッチリ目が合って、それでふっと笑いがこみ上げてきた。


 どうやら彼女、口元のホクロはお気に入りらしい。


 それから、何て声をかけようか、ぼやけた朝日の中で、見つめ合いながら考えて。


 それで、ようやく決めたのは、そう、きっと。


「おはよう」


 自由じゃないこの世界の俺たちの。



「友達になってくれるか?」



 少しだけ不器用な、始まりの言葉。

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