もも缶、鮭缶、みかん缶
世の中グルメを自負する輩があふれ帰り、その手の食を評価する雑誌、グルメマップなるものが多数出版されていて、先日も海外のタイヤメーカー監修による店をランク付けするような、グルメ冊子が出版されたが、本当に感動を覚え、満足し、一生忘れられなくなるようなおいしい物なのであろか?人それぞれ、価値観、生活感、食感のちがいから評価の分かれるのも理解できるが、私のような庶民には、一ヶ月に一回にせよ足が遠く及ばない。きっと店の敷居、格調の高さ、まわりのハイソサエティーな常連に気圧され、まともに味わうことなどできず、店を後にすることが容易に想像することができる。そんな貧乏性な私にも、格安で、
「ああ!これはおいしい」と思う物を延々と幼少気より持っている それは、ただの缶詰である。その中でも、もも缶、鮭感、みかん感はかくだんにだいこうぶつである。 もも缶、風邪を引いて熱を出した時、枕元でお袋が食べさせてくれた、もものしゃりしやりした食感、甘い、甘いシロップをすすり、子供ながらに熱が下がってしまう、風邪が治ってしまうんだと、少し複雑な思いを持っていた。鮭缶には、父親の思い出がある。酒飲みの父親だったので、テーブルには何かしら酒の肴がならんでいたが、自分の好む物がないと、必ず鮭缶をあけ、缶から直に橋でほじくるように食べていた。そんなある日、鮭缶の中骨を、
「いいから、食え、食ってみろ」と私の口の中に、それを放り込んできた。その言葉に黙って、その得体の知れない物を奥歯でそっとかんでみた。 子供にとって、未だ味わったことのない、食感、なんておいしい物なのだろうと、陶酔した。未だに鮭缶も好きだが、中骨の缶ずめの方が好きになってしまった。 みかん缶、夏に冷蔵庫で凍らせて、兄弟で争い、むさぼり食べた。こんな他愛もないような缶詰一つ、一つに、幼少期の家族との思い出がつまり、未だに忘れることのできない逸品である。今私は、理由があって両親とあうことができないが、家内とスーパーに買い物に行き缶ずめを見ると家族との思い出がよみがえってくる。 飽食の時代、私の子供たちはどんな物に思い出を見つけだしていくのだろう。