私の愛犬、ケルベロス ?
部屋に漂う甘い香り。
最近、百合子は甘いものを切らせたことがない。常に何品か常備している。
かと言って、安いだけの体に悪い駄菓子では駄目。原料、製法に気を使った一級品でなければ。
そんな高級スイーツを探し、買い求めるために、常日頃から雑誌やネットのチェックは欠かさない。
今日も、その毎日の努力の成果がテーブルの上に燦然とか輝いている。…ああ、今日も完璧だ。
一品目。オープンしたばかりなのに、もうすでに話題の店のタルト。濃厚な三種類のチーズを使っているのが特徴。
二品目。一見様には敷居が高い老舗の高級和菓子。今月は和栗。丹波の栗を贅沢に。
三品目。購入に三ヶ月待ちは当たり前、クリームたっぷりのラズベリーケーキ。信じられないほど柔らかいスポンジを、緩めのクリームで包み、上には真っ赤なラズベリーを飾っている。それは光り輝き、まるで宝石のようだ。
そして、忘れてはいけない蜂蜜ケーキ。これは出来立てでなければいけないから手作り。
「うん、今日も良い出来です」
百合子はリビングのテーブル一面に乗せられた極上スイーツの群れの端に、自分の作ったケーキを置いて満足そうに頷く。
先日、買い換えたばかりのオーブンにも慣れて、今日の蜂蜜ケーキは良い出来だ。鮮やかな黄色だし、形もふんわり膨らんで絶好調だ。
よし、準備は整った。最愛のあの子の名を呼ぼうではないか。
「平蔵ーー、へいぞうーー。ちょっと来てー」
並べられた甘味より、ずっと甘い声で呼ぶ。練乳に桜でんぶ、スプーン印の砂糖がはいった特大ゴミバケツをガムシロップで攪拌したものより甘い。そんな声。
その声が聞こえたのか、隣の部屋からガタゴトと音が聞こえた後、カチカチと爪をフローリングの床で鳴らしながら小さな動物が走ってきた。
「あら平蔵、もしかして、またお兄ちゃんの部屋のゴミ箱を漁っていたの ? もう、駄目よ。汚いんだから、めっ」
めっ。口から粉砂糖を吐きたいくらい極甘な「めっ」。まったく叱っている声音ではない。叱られた方の「平蔵」も、平気な顔どころか、やに下がっている様なだらしない表情をしている。口は半開き。卑猥な色の舌はぬらぬらと唾液を滴らせ、そして何故か落ちたそれは紫色の花になった。
不思議な現象だが、いつもの事なので百合子はさして気にしない。そんな事、平蔵の圧倒的可愛らしさの前には些細なことなのだ。
平蔵、愛。百合子は今、愛に生きている。そして大いなる愛には、小さな雑事を踏み潰し、蹴っ飛ばし、無かった事にさせる作用がある。
「おいで、平蔵。抗菌ティシュで拭いてあげる」
小さな白い、と言うか、灰色い、と言うか、光の加減で銀色に見えなくもない微妙な色の体を持ち上げ、百合子はソファに座った自分の太ももの上に平蔵を乗せる。
「シャリィーーシャリリィィ」
「そう、嬉しいの ? ふふふ、平蔵ったら、はしゃいじゃって」
柔らかい太ももを、太く短い足でもみもみ堪能しつつ、鼻面を百合子の豊満な胸にぐりぐり押し付ける。見る間に肌理の細かい白い肌が、平蔵の鼻水や唾液で濡れた。その滑りを広げるように、ぬちゃ、ぬちゃと粘着質な音を響かせ顔を動かし続ける。
激しくしつこい。勢いあまって襟刳りから中に入ってしまいそうになっていても止めない。
飼い主が、さすがに堪らなくなって、やんわりと胸から顔を引き剥がす。
「こらこら、くすぐったいってば。それより平蔵、今日のおやつを食べて ? 今日の蜂蜜ケーキは良いできなの」
「シャリィィ」
まるで青銅を擦り合わせるかのような可笑しな鳴き声で返事をする。その声は普通ならば背筋がもぞもぞする系。けれど愛に侵されている百合子にとっては天使の歌声。違う意味で背筋を震わせる。ぞくぞくーっと。身悶える。鳥肌が止まらない。
(ああんっ ! 私の平蔵っ、かっわいっいーーっっ)
百合子は、小さいくせに妙に筋肉質な平蔵の体を「たまらないっ」とばかりにおもいきりハグした。
ーーーー若干、病の匂いがする。
だが、それを指摘する者は、ここには誰も居ない。両親は仕事だし、兄は七日ほど行方不明である。つまり、今、このリビングは、二人にとって、誰にも邪魔されない小さな楽園なのだった。
「さぁ、今日も平蔵の大好きなお菓子を、いっぱい買っておいたからね。遠慮しないで食べてね」
「しゃりぃぃ」
意味が分かっているかのように一つ返事をして、ぱっとテーブルの上に飛び乗る。と、すぐさま手前にあったクリームたっぷり、ラズベリーケーキに口を付けた。
顔を押し付け食べる姿は、「食む」というより「貪る」という感じだ。良く言えば野性的。悪く言えば下品。もしくは卑猥。
ぐっちゃっ、ぐっちゃっ。大きなホールケーキが見る間に減っていく。いったい、その小さな体のどこに入っていくのか不思議でならない。
「びっちゃ、ぶるるるるっ」
「あ、こら」
平蔵が、眉間に付いたクリームが気になるのか頭を振うと、ぱぱっと、そこら中にクリームが飛び散った。後ろにいた百合子の頬にもとんでしまう。
つつーっと、柔らかなクリームが百合子の白い頬を伝い顎に流れた。
「しゃりりぃぃ」
それを見た平蔵は、黒目の無い白目ばかりの瞳をいやらしげに細め、百合子に飛び掛るようにして伸し掛かった。そして頬といわず顎、口、鼻と顔中を嘗め回す。
「シャリッシャリッ」
「あはははっ、こらっもうっ」
健康的な光溢れる昼のリビングに、嫌だ、とか、止めて、だとか、言葉だけの抵抗の声が響く。何故か淫靡な臭いがした。
まだ昼間なのに、三時過ぎのおやつの時間なのに。相手はお世辞にも可愛らしいとは言えない犬(のような生き物)なのに。
けれど百合子は幸せだった。ずっと犬を飼うのが夢だったし、一目合った時から夢中なのだ。この、平蔵と名づけた天使に。
「 見つけた 」
一人と一匹が二人掛けのソファでイチャ……ではなく、戯れていると、いきなり聞き覚えの無い声。それも直ぐ近くから。
はっとした百合子は、警戒して飛び起きる。するとテレビの前に一人の大柄な男。
「へ、変態が家の中に……」
「はぁ ? 誰が変態だ、誰が。変態っつーのは、そこの犬もどきのことを言うんだ。おい、ケルベロス、やっと見つけたぜ。くっそ野郎がっ」
そう言うが、やはり百合子には変態意外には見えない。何故ならこの男、上半身は裸同然で、逞しい胸や肩をこれでもかっと剥き出しにしているし、頑丈そうに引き締まった腰には、ボロボロの布を巻き付けているのだ。しかも手には凶器だろう、柄の長い櫂のようなものを持っている。これが変態意外の何者であるのだろうか。
「ちょっと、近付かないで下さいね。今、警察に電話しますからね」
せっかくの楽しい一時を邪魔して………と、不機嫌に立ち上がり、テーブル近くに置いてあったコードレスフォンに手を伸ばす。
「おい待てよ。俺が用があるのは、こいつだけだ。こいつを連れたら直ぐにここから去る。だから余計な事はすんじゃねぇよ」
男が威圧的に言って、平蔵に手を伸ばす。
百合子は慌てて、クリームだらけの小さな体を抱え後ろに隠した。
「ひっ、触らないでっ ! うつったらどうするのっ、変態がっ」
「だから誰が変態だっつの。あーーもう、どこを見たらそうなるんだよ」
短めの硬そうな髪をガリガリと掻く。困っているようだ。
けれど百合子は警戒を解かず、じりじりと間合いをとる。なにせ相手は二メートル以上ありそうな体格の筋肉馬鹿。きっと脳ミソも筋肉で侵されている脳筋馬鹿に決まっている。なにより粗野な言動が証拠だ。筋肉に操られ、何をするか分からない。それに手に持った凶器が怖かった。ああ、お巡りさん、この洋モノ変態を凶器準備集合罪で捕まえてくださいっ。そう祈らずにはいられない。
「おい、ケルベロス、お前、何を他人事みたいな顔してやがる。ったく、このカロン様がわざわざ迎えに来てやったんだぞ。ありがたく思えよ。ってか、帰るぞ。ハデス様が心配してる」
百合子越しに平蔵に言う。
「けるべろす」「かろん」「はです」訳がわからない。理解不能の台詞に百合子の警戒はマックスに。
(ここからじゃ電話がとれないわ。……しょうがない、走って助けを呼んだ方が確実ね)
慌てず、冷静に。心で繰り返し、逃げ道を視線だけで探す。と、モゾモゾと平蔵が百合子の胸から顔を上げた。気のせいか満足そうに目を細め口は半開き。そして、
「自分、ケルベロスという名は棄てたシャリ。今は平蔵シャリ」
「っ ?!! 」
喋ったっ ! 私の平蔵がっ ! あまりの衝撃に百合子の時が止まる。
もぞもぞ………硬くなった体から、平蔵と名乗る生き物が名残惜しそうに抜け出し、カロンの足元へ。そして、素っ気無く言う。
「そういうわけだから、カロン帰るシャリ。ハウス、シャリシャリ」
「はぁ ? 何言ってんだ ? せっかく迎えに来てやったってのによ。だいたいお前、『ちょっとラグナロクっぽいから行って来る~』って言って、今までどこに居たんだっつーの。もう、とっくにラグナロク終わってるっつーの。散々探したんだぜ ? ハデス様なんか、探し犬の張り紙まで作ってよぉ」
「しょうがないシャリ。オーディンさんちのラグナロク、結構たいへんだったシャリからぁ」
ハデス様の気持ちを考えろ。責めるカロンにケルベロス改め、平蔵は軽い口調で、あの時はフェンリルに頭を二つも吹っ飛ばされて大変だった、などと言っている。
カロンはそれを聞いて益々呆れた顔をした。平蔵の行動が理解出来ないようだ。というか、大概、頭は一つなので、分からないのが普通だろうが。
「オーディンさん家はオーディンさん家。俺んちは、俺んち。関係ないだろが。何で地獄の番犬がアースガルズくんだりまで出張って行ってんだ。訳わかんねぇ……」
「長く生きていると、付き合いってものがあるシャリよ。千年ぼっち地獄のカロンには分からないシャリ」
「何が付き合いだ。どうせ女の尻でも追っかけてたんだろうが。それに、ぼっち言うなよ。俺はただ、孤独を愛しているだけだ」
カロンはエレボス(闇)とニュクス(夜)の息子。そしてアケローン川(悲嘆)の渡し守。性質上、孤独と静寂を好むのだ、決して、友達が出来ないわけではないのだ ! と強く押して言う。
が、平蔵は簡単に無視した。
「で、ラグナロクが終わってから色々あって暫らく放浪していたシャリが、世紀末を何度も越え、退廃のソドムとゴモラで運命の女神に出合ったシャリ。――― 百合子(17歳)、我の妻候補、シャリ」
「えっ?! 」
百合子が、急に出て来た自分の名前に驚く。
(え、何 ? 妻 ? 私が ? は ? )
喋り始めた愛犬。いきなり現れた半裸族。頭の中はぐちゃぐちゃ。まったく意味が分からない。
だが、そんな中でも、最愛の平蔵に自分の妻呼ばわりされて胸が高鳴った。
(良く分からないけど、平蔵は私を選んでくれたって事よっ。元の飼い主より、この私をっ)
選ばれたことに純粋な喜びを感じると同時に、ほの暗い快感が湧く。顔も知らない元の飼い主から、愛しい者を奪ってやったという優越感からくるものだろう。
「平蔵っ」
片手で持ち上げられるほど小さな体を、胸に抱き上げ、頬づりをする。
平蔵は、にたぁぁぁ~と口を尖った耳の方まで裂けさせ悦に入る。絶え間なく滴るいやらしい唾液は、床に落ちる度に、紫の花を咲かせた。
その床中に咲いた花をカロンが「あーーっっ、そこら中にトリカブト咲かしてるんじゃねぇよ、歩きづれぇな」と怒鳴りながら足で蹴飛ばす。
そして百合子に近付くと、顔を覗き込むようにして忠告する。
「それ、あんたが抱いてる犬っぽいの、それが何だか知ってるのか。地獄の番犬だぜ。とてもじゃねぇが、ただの人間が愛玩していい生き物じゃねぇんだよ」
だから、さぁ寄こせ。カロンが手を差し出す。
奪われるっ。百合子は咄嗟に身をよじってカロンから平蔵を遠ざけた。
「いっ、嫌よ、絶対渡さないっ」
「聞き分けろよ、それがあんたのためだって。化物なんだぜ、その犬っころは。おまけに淫乱甘味大王だし」
普通ではないもの。生きる世界が違うもの。そして、少しスケベ。
そんなことは最初から分かっていたのだ。あの、コンビニのゴミ箱の前で、アイスの蓋を舐めている平蔵に出合ったあの時。私を見て、夕日の中、平蔵がニヒルな笑いを浮かべたあの時。
そう、あの時、目が合ったあの瞬間、「ああ、この子は私とは違う次元に生きている」そう、漠然とだが確信したのだから。
―― でも、それが何だというのだ。化物 ? 地獄の番犬 ? ケルベロス ?
―――― 違うっ !
「この子は平蔵よっ。私の、平蔵なのっ。絶対に、渡さないっ―― たとえ相手が、神様でもっ ! 」
百合子は毅然とカロンに告げる。
色白の顔が興奮で赤らんで、それがどこか扇情的でもあり、強い意志を湛える瞳が凛々しくもあった。
そんな百合子の表情にカロンは魅了され一瞬固まり、直ぐに目をそらす。薄っすらと耳の端が赤い。女慣れしていない純情さが窺えた。
カロンを睨む百合子、視線を落ち着かなく彷徨わせているカロン。その間に、小さな白い体が空間を切り裂くように割ってはいる。
ケルベロスこと、平蔵だ。何故か殺気立っている。周囲の空気がいっきに冷えた。
「カロン、百合子に色目を使うと………殺す」
「なっ、何が色目だっ。あほかっ ! つか、語尾の『シャリ』が抜けてんぞ。アイディンティティーはどこ行ったっ。なにが、色目だっっなにがっっ」
「お前こそ無愛想はどこへ行った殺すぞ。ぼっちがアイディンティティーだろうが殺すぞ」
焦るカロンが話をそらそうとしても、直も睨むのを止めない。凶暴そうな牙をガチガチ噛み合わせ威嚇する。だらしない顔が一変し、地獄の番犬の顔を垣間見せた。
そんな光景を見ながら、「はて、色目とは何の事 ? 」と百合子が額に汗を掻いているカロンを不思議そうに見る。と、見られたカロンは、はっとして、この話は終わりだと言うように腕を一振り。そして無理やり話を戻した。
「とっ、とにかくっ、ケルベロス。お前は、冥界に帰るんだっ ! お前がいないせいで、オルトロスが過労で死にそうなんだぞっ」
「我が弟は優秀シャリ。大丈夫シャリ、たぶん」
「あいつ子沢山だろ。ここんとこ子育てと仕事とでノイローゼ気味だ。この間なんか、右の頭と左の頭で、三日間延々しりとりしてた。しかも、ずっと一言一句同じ言葉を繰り返して、毎回、「みかん」で終わるんだ。………やべぇよ、まじで……」
「ははは、楽しそうシャリね~」
ケルベロスの弟、オルトロスの過剰労働を訴えるが、全く聞く耳をもたない。お前はそれでも兄かっ、と罵る。けれどやはり暖簾に腕押し。冥界には帰らないという意思は固いようだ。
ならば、こちらが駄目なら攻めやすそうなあっちを、とカロンが百合子を上から見下ろす。
「女、聞いただろう。こいつの弟は、今にも質問おじさんのいる病院にぶち込まれそうなんだ。可哀想だと思うだろう ? それに、こいつがいないと冥界から亡者が逃げ出し放題になって、こちらの世界も滅茶苦茶になるんだ。もう、お前達の好き勝手に出来る状況じゃねぇんだよ。だから、な、諦めろ」
言葉が出ない。百合子は下唇を噛んだ。
(………いつか、こんな事になるんじゃないかって思っていたのよ)
平蔵と初めて会った時、ただの犬ではないと思うと同時に、いつか、顔も知らない誰かが、この子を迎えに来るのではないかと予感があった。
毎日、毎日、私から平蔵を取り上げないでと祈るように。怯えるように暮らす日々。それでも彼との暮らしは何物にも換えられない素晴らしい時間だった。
そして、相反する責め苦の中、いつの間にか自分の中に、一つの答えが生まれた。
(そう、そうね、これしかないんだわ。平蔵、ごめんなさい………)
百合子は紅くなった唇をほどき、カロンを見上げる。
「分かりました。でも、時間を下さい。平蔵と二人だけの時間を」
「おう、いいぜ。でも時間は、この『ニコニコ埼玉』が終わるまで。後、10分ってとこだな」
「そんな、10分だなんて、短すぎます」
見るともなく、つけっ放しにしていたテレビを親指で指すカロンに抗議する。数日くれとは言わないが、10分間とはあまりにも短過ぎた。
「百合子、カロンは『ニコニコ埼玉』の電波に乗って、我が家に来ているシャリ」
「電波に ? 」
「ああ、いきなり現世に冥界とを繋ぐ穴なんか開けたら、亡者どもが群がってくるだろうし、楽なんだよ、この方が」
週に一度のローカル番組、ニコニコ埼玉。これに乗ってやって来た ? そんな馬鹿な話しがあるだろうか。にわかには信じがたい。
というか、この男自身が電波(を患っているだけ)なら良かった。その場合、警察に一本電話をすれば簡単に済んだ話しなのに。
どうしてもカロンを変態にしてしまう。やはり彼が半裸だからだろうか。
「………しょうがないわ。10分ね、わかったわよ。でも、最後は平蔵と二人きりにしてもらうわ」
百合子は沈んだ顔で平蔵を抱き部屋を出た。その背にカロンが、「正確にはあと九分なー」と声を掛ける。
返事は返さず、リビング隣のドアを開け中へ。
そこは七日間、主不在の部屋。兄の自室だ。
やはり平蔵はこの部屋で遊んでいたようで、ゴミ箱が倒れ中身が散乱している。菓子の袋、ペットボトル、丸めたティシュ、などのゴミに混じり、やけに肌色の面積が多い雑誌が。
百合子の目が、広げられた雑誌の周囲に咲き乱れる紫の花に留まる。
「………………」
無言で花を鷲掴むとブチブチと引き千切り、ゴミ箱上から、ゆっくりと見せ付けるように指を解き、中へと落とした。足では雑誌を踏んづけている。
「ゆ、百合子 ? 」
地獄の番犬すら一歩たじろぐ迫力を漲らせ、百合子が傍にあったダンボールを手に平蔵の方を向く。
「………ごめんね、平蔵」
夕日を背にした百合子の顔は逆光で黒く染まり、どんな表情をしているのか分からなかった。
間も無くリビングのドアが開き、百合子が静かに入ってきた。傍らに平蔵の姿は無く、手に一抱えはある段ボール箱を持っているだけ。
「お、きたか」
「………」
それまで体育座りで大人しく、ニコニコ埼玉の番組コーナー、今日の御悔やみを「あーあー、ばたばた死にやがってよー。今日も過積載まちがいねぇな」と言いつつ見ていたカロンが、百合子に気付き立ち上がる。
百合子は終始無言で、ダンボール箱を差し出した。
「丁寧に扱って。絶対に振ったりしないで。………お願い」
受け取った箱は適度に重い。
なるほど、この中にケルベロスを入れたのか。顔を見ると別れが辛くなるからな。
カロンが状況を察して頷く。
「分かった。絶対に落としたり、蹴ったりしねぇ。責任を持って、ハデス様のところまで届けるぜ」
そう約束し、カロンはテレビに近付き振り返る。
「本当なら、船賃は1人頭1オロボス貰うところだが、あんたが死んだ時は半額に負けてやるぜ。ーーじゃ、またな。百合子」
言い終わると同時に姿が忽然と消える。来た時と同じく行き成りだった。
そして気が付けばニコニコ埼玉も終わっていて、テレビは次の番組に切り替わっていた。どうやら五時からは歌番組のようだ。知らない歌手が陽気に歌い始めた。
その賑やかな音の中、百合子が糸が切れた人形の様に床に崩れ落ちた。
「ごめんなさい」
息を吐くような微かな呟きに、これで一区切りついたのだと重く実感し、手で顔を覆う。そして、もし、神様が本当にいるのなら、もう私から何も奪わないでと強く願った。
一週間後。
パティシエの今月のオススメは、カボチャのモンブラン。
ハロウィンが近いということもあり、ちまたはお化けランタンが溢れている。買い求めたケーキも三角の目。ぎざぎざの口が付いたハロウィン仕様。
可愛くて尚且つ美味。まさに私の天使にぴったりのおやつだ。
百合子はテーブルの上にパティスリーにゴリ押しして頼んだ特注のランタンケーキを、でんっ ! と置く。その脇には、いつもの蜂蜜ケーキも忘れない。
そして可愛いあの子の名を呼ぼうと口を開きかけた時、消しておいた筈のテレビが独りでに点いた。お馴染みの「ニコニコ埼玉」だ。
驚いた百合子が振り向く、
「こっのクソ女っ、てめぇ嵌めやがったなっっ ! 」
一週間ぶりの半裸族、カロンだ。かなり頭にきているようで、現れる早々怒鳴り散らしている。
「やっぱり来たのね………はぁ、今度はどうやって引き取ってもらおうかしらねぇ」
小声で言ったつもりだったが聞こえていたようで、カロンの目がますます吊り上った。
「てめぇ、これはいったいどういうつもりだっ」
「どうもこうも、見てのとおりシャリよ」
「平蔵っ」
詰め寄るカロンに、リビングの入り口から声が掛けられた。ケルベロスこと平蔵だ。百合子に手を出すと殺すと歯軋りをしている。
「我は帰らないと言ったシャリ。だいたい、箱の中身が可愛らしい我だとは誰も言ってはいないシャリシャリ」
「てめっ」
怒りで顔を赤くしたカロンが平蔵に掴み掛かろうとし、咄嗟にそれを止めようと百合子が前へ飛び出す。変態になど触りたくは無かったが平蔵のためだ、しょうがない。腹をくくって近くのガラス製の灰皿を両手で持ち上げた。
その時、
「待て」
その一声で、噛み付く気まんまんの平蔵、首を絞めてやろうとしているカロン、そして二時間サスペンス劇場の凶器で御馴染みの灰皿を持ち上げた百合子の動きが、ピタリと止まった。
おやつ時の明るいリビングに暗黒が広がり瘴気が充満――する事は無く、いつもの風景があるだけ。ただ違うのは、いつもの部屋に完全に異質な物が入り込んでいるという感覚。それは違和感だなんて言葉では足りない、もっと強烈な異物感。半裸のカロンよりも、もっと「違う」もの。
それは凝縮された闇。それを統べる王。
「―――― ハデス様」
平蔵が呟く。
それが聞こえたのかハデスは平蔵を見下ろし、
「久し振りだ、ケルベロス」
とだけ返し、威厳に溢れる知的な眼差しを、ほんの少し和ませる。
(この人(?)が元の飼い主………)
ここは負けられない。一歩だって引いてはいけない場所だ。
百合子は気合を入れなおし、突如現れたラスボスを睨みつけた。
それに気付いたのか、平蔵にあてられていたハデスの視線が、ふっと百合子に。
交じり合う視線。最初に口を開いたのは、意外にもハデスの方だった。
「女、これの前足が動かない。病気だろうか」
ハデスが黒いローブの袖から銀色のメタリックカラーのロボットを取り出し百合子に見せる。
それはだいぶ前に流行した家庭用犬型ロボット。少々、値が張るが独居老人や、犬が飼えない人間に人気があった高級玩具だ。ちなみに人工知能が入っている優れもの。
ただ、ハデスが手に持っているものは足がふらふらしていて壊れているらしく、悲しそうに動かない足をそっと摘んで確認している。
「それ、ただたんに壊れているんです。昔、兄が踏んづけて、それっきり………」
「では直せば良いのだな」
「ごめんなさい。実はそれ、メーカーでは製造停止していて、メンテナンスサービスも終わっているんです」
百合子の告げた事実に、ハデスの暗い深淵のような瞳が大きく揺れる。
( もしかして、平蔵の換わりに箱に入れた犬ロボット、気に入ったの ? )
「おい、百合子っ。お前が箱の中にこんな物を入れたりするから、ハデス様が大変なんだからなっ。どうしてくれんだっ」
ロボットを指差し、カロンが怒る。
大変って何が ? 別に壊れた玩具なんて棄てておけばいいだけだろうに。
不思議に思い平蔵に視線で尋ねる。
「ハデス様は犬好きシャリ。冥界の王じゃなかったらトップブーリーダーだったシャリ。犬、まっしぐらシャリ。だから、我の代わりのあの偽犬にロックオンシャリね」
犬好きに、壊れた犬ロボットなど送り付けて悪かっただろうか。自分ならきっと、なんとも嫌な気分になっただろう。
今になって良心が痛んだ。
「あ、あの、その犬、新品はないんですけど、動く中古品なら探せばあると思うんです………」
ネットなり、電気屋なりをしらみつぶしに探せば、きっと五体満足な犬ロボットがある筈と提案する。が、ハデスは静かに首を横に振る。
黒い髪がさらさらと音をたてて揺れた。
「唯一の大切な者に換われる者はいない。開いた穴は同じモノでしか埋まらない。そうだろう ? 娘よ」
「あっ」
直ぐに平蔵の事を言っているのだと分かった。
百合子は、その時初めて敵愾心抜きにハデスを見た。――とても穏やかな瞳があった。
「あのっ、へ、平蔵のこと幸せにしますっ。だから、だからっ」
「我は百合子の傍にいたいシャリ。お願いシャリからここにいさせて欲しいシャリ。冥界には連れ戻さないでシャリィィ」
「はぁぁ ? お前ら、この期に及んで何言ってんだ ?! 」
一人と一匹がハデスの前に躍り出て頭を下げる。聞き様によっては、親に結婚の了承を取り付ける場面のようだ。
それを見たカロンが、ふざけるなと怒鳴った。
ケルベロスは亡者を取り締まる番人。監視者だ。常に冥界にいなければならない存在なのだ。なのに現世で惚れた女と暮らすだと ? そんなこと前代未聞だっ。
そうでしょう ?! と傍らのハデスに訴える。
皆の視線を身に受けたハデスは、カロンに返事は返さず、腕に抱えたメタリック犬ロボットを優しく撫で、静かに百合子へと尋ねた。
「こやつには名はあるのか」
「え、あ、ああ……金四郎です、けど」
「ウェヌス、明けと宵の明星か。ふむ、良い名だ」
微笑み、ロボットの頭を撫でるとロボットの眉間のランブが緑色に光り喜びを表現した。ハデスも嬉しそうだ。威圧感が幾分軽くなっている。
そして音も無く百合子達に背を向け、ニコニコ埼玉を放送中のテレビに近付くと、少しだけ横を向き言った。
「これで私は帰るが、ケルベロス。何か困った事があったら、電話でも、メールでも、鳩でも、飛脚でも、好きなものを飛ばしなさい。私はただ、お前が息災であればそれで良い」
「ハデス様っ ! ありがとうシャリッ ! 」
「よかったねっ、平蔵っ」
「シャリシャリッ」
ボスが許してくれたと百合子と平蔵は抱き合って喜んだ。
これでずっと二人一緒に居られる。もう、いつか引き離されるのではと怯えなくてもいいのだ。よかった ! 百合子の目には涙が光る。
けれど一人納得していない人物が。
「ちょっとハデス様、どこへ行くんですかっ ?! まさか、本当にこいつを置いていくんですかっ ?! 」
「ああ、そうだ、置いてゆく。………では、私は冥界に帰り、急ぎ行かなくてはならない所があるのでな。さらばだ」
「どこですか ? 説得させるのにオルトロスでも連れてくるんですか ? 」
「いや、冥界ホームセンターへ行かなくてはならないのだ。こやつの足を直してやらなければ可哀想だからな。のぅ、ウェヌスよ」
「はあぁぁ ?! 」
もはやハデスの目にはメタリックな愛犬しか映っていないようだ。大事そうに犬型ロボットを抱え、いそいそと姿を消してしまった。
もしかして自分で直すのだろうか。メカに強いなんて意外だ。
一方、残されたカロンは頭を抱え、どうなってんだよこいつらーーーっっと絶叫している。
真面目な彼は当たり前のことを言っているだけなので、今の状況は不憫にも思える。だが、それぞれの愛に生きている者達にとって「あたり前」や「常識」は意味を成さないものなのだ。
ハデスは負傷しているニューフェイス犬に。平蔵は幼な妻に。そして百合子はケルベロスこと平蔵に。皆、まっしぐら。残念ながらそれ以外はどうしても二の次になってしまう。
「絶対、絶対、連れて帰るぜっケルベロス ! お前ばっかり良い思いさせてたまるかっ ! 」
つい本音がぽろっと出てしまう。
それを嘲笑うように、ニタリと口をゆがめた平蔵が、百合子の胸の谷間から顔を上げた。
「んーーー、やだシャリ。つか、カロン、時間は大丈夫シャリか ? ニコ玉、終わりそうシャリよ」
「え ? ええぇぇ !! やっべぇぇ !! 」
テレビでは、ニコニコ埼玉最後のコーナー「今日のお悔やみ」がながれ、もう番組の終わりを告げている。右下には、来週も見てね ! の文字。
結局、カロンは冥界に帰れたのか、それとも百合子宅に一週間居座る事になったのか、それはまた別のお話し。
どちらかと言うと、北欧神話の方が好きです。