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第052話:中央図書館前で再び交わる声

 中央図書館前の広場は、職人工房街とも植物園とも違う静かな賑わいを見せていた。人の数そのものは決して少なくないが、ここへ集まる者たちは大声で呼び合うことを好まず、石段を上り下りする足音も、腕へ抱えた本を落とさないよう自然と控えめになる。高い円柱が並ぶ正面玄関の左右には、読み終えた本を返却する者、調べ物の合間に外の空気を吸う者、筆記用具や紙束を抱えた学生、地図や記録簿を持ち込む商人、役所の書類を確かめに来た職員らしき姿まであり、同じ場所へ集まっていながら、それぞれが違う目的へ意識を向けていた。


 冬の光を受けた図書館の外壁は白く乾き、石段の脇へ植えられた常緑樹だけが濃い緑を残している。広場の端には飲み物や焼き菓子を売る小さな屋台がいくつか並んでいたが、利用者の静かな空気へ合わせて、客を呼び込む声は市場よりずっと穏やかだった。


 オルゼンとクィナスは、その一角に定められた短期販売用の区画へ荷車を止めた。二十個のそぼろ瓶、販売台、包み布、価格札、釣り銭箱、簡単な商品説明を書いた紙。持参したものはほかの二組と大きく変わらないが、クィナスは荷を下ろす前から、広場へ出入りする人々の足取りをじっと観察していた。


 黒い毛並みを持つケットシーである彼女は、決して小柄ではない。むしろ人の女性に並んでも見劣りしないほどすらりと背が高く、細身ながら腰や脚の線には無駄のないしなやかさがある。今日の衣服も販売向けに控えめなものを選んでいたが、濃灰色の上着を細い帯で締め、袖口を邪魔にならない長さへ整えた姿には、帳簿係というより人前へ出ることへ慣れた者の落ち着きがあった。長い尾は荷車へ触れないよう静かに揺れ、尖った耳は広場の音を拾いながらも、表情にはほとんど変化がない。


 オルゼンは販売台を抱えたまま、クィナスが動こうとしないことへ気づき、正面玄関から出てくる人の流れへ目を向けた。


「どこへ置くか迷っているのか。区画の中なら、それほど位置は変わらないと思うけど」


「区画の内側で一歩ずらすだけでも違いますよ、マスター。図書館へ入る者は、目的の本や調べたいことを頭の中で考えているため、入口前では周囲をほとんど見ません。逆に出てくる者は、調べ物を終えた安堵や疲労があり、次に食事や休憩を考え始めます。私たちが見るべきなのは入館者より退館者です。正面玄関へ販売台を向けるのではなく、石段を下り終えた者が自然に顔を上げる位置へ札を置いた方がよいでしょう」


「それなら、正面から見て少し左か」


「ええ。右側には飲み物の屋台があり、石段を下りた者の視線がそちらへ流れます。その流れの先へ置けば、わざわざ振り向かせる必要がありません。ただし飲み物の客を奪うように近づきすぎるのは悪手です。向こうは長くここで商売をしているのでしょう。短期で来た私たちが目の前へ割り込めば、二十個を売る代わりに一つの悪評を買うことになります」


「クィナスは、販売場所へ着くと最初に商品より隣の店を見るんだな」


「帳簿の数字は店の中だけで生まれるものではありませんからね。近くの店、人の流れ、時間帯、天候、客の財布、買った後に持ち歩けるか。そこまで見なければ、売れた理由も売れなかった理由も分かりません。もっとも、マスターは商品へ触れれば何となく流れを感じるのでしょうが、私はそういう便利なものを持っていません。ですから見えるものを数え、聞こえるものを集め、考えられる理由を一つずつ潰すしかありません」


「便利と言われるほど使い勝手はよくないぞ。流れを感じても、何をすれば売れるかまで教えてくれるわけじゃない」


「そこまで教えてくれたら、マスターは今頃もっと楽をしているでしょうね。ただ、楽をするマスターは想像しにくいですが」


「それは褒めているのか」


「半分ほどは」


 オルゼンは苦笑しながら、クィナスが示した位置へ販売台を置いた。地面は平らに見えたが、石の継ぎ目へ片脚が乗るとわずかに傾く。クィナスはすぐに木片を差し込み、台を押して揺れがないことを確かめた。それから瓶を六個だけ取り出し、二列へ分けて並べる。手前へ三個、少し奥へ三個。中央を空け、その場所へ商品説明の札を置いた。


 オルゼンは残りを木箱へ収めたまま台の下へ入れ、布を掛ける。


「全部並べないのは、ほかの組と同じだな」


「理由は少し違うかもしれません。図書館前で品数を多く見せると、客は選択肢が多い店だと誤解します。しかし今回は一種類だけです。ならば数量を強調するより、何なのかを一目で理解できる方がよい。瓶を山のように積んで、近づいてみたら全部同じだったとなれば、期待を裏切ります。それに本を持っている者は片手が塞がっています。手前へ出しすぎると鞄や外套が触れて落とす危険もあります」


「今日はずいぶん話すな」


「マスターが聞くからでしょう」


「聞かなくても話す時はあるだろ」


「それはマスターが聞く前に間違えそうな時です」


 二人の会話は、主人と従者というより長く同じ場所で働いてきた友人同士のものに近かった。クィナスはオルゼンをマスターと呼び続けているが、その呼び方に過度なへりくだりはない。呆れればため息をつき、間違いがあれば遠慮なく指摘し、時には辛辣な冗談も口にする。そのため、知らない者が聞けば、なぜ彼女があえて主従を思わせる呼称を使うのか、不思議に感じるだろう。


 販売開始からしばらくの間、客は思ったほど足を止めなかった。図書館へ入っていく者は予想通り商品へほとんど目を向けず、出てくる者も本や書類を抱えたまま、次の目的地へ急ぐことが多い。中央通りほど衝動的に買い物をする場所ではなく、品が珍しいからといってすぐ手へ取る者はいなかった。


 だがクィナスは焦らなかった。客が札へ向ける視線の長さ、歩みを緩めた場所、隣の飲み物屋台へ寄ったあと販売台を振り返る人数まで静かに見ていた。


 最初に立ち止まったのは、三冊の厚い本を抱えた若い男性だった。学生らしい外套の裾には乾いた泥が付き、目の下には薄い疲れがある。彼は瓶の中身よりも先に価格札を読み、少し眉を寄せた後、商品説明へ視線を移した。


 クィナスはすぐには声を掛けなかった。相手が文字を読んでいる途中で話しかければ、内容を邪魔することになる。最後の行まで目が動き、顔を上げたところで初めて口を開いた。


「肉を細かくほぐし、香味野菜と調味料で水分を飛ばしながら仕上げたものです。温かい穀物へ載せても、パンへ挟んでも使えます。一度で食べ切る必要はありませんので、開封後に冷やしていただければ、何度かに分けて召し上がれます」


 学生は腕の中の本を抱え直し、瓶を見た。


「調べ物で遅くなる日が多くて、帰ってから食事を作るのが面倒なんです。けれど外で買うと毎日それなりにかかる。これは一瓶でどのくらい使えますか」


 オルゼンが答えようとしたが、その前にクィナスが相手の体格と本の量、服装を一度見てから言葉を選んだ。


「一食ごとに主菜として多く使えば二度ほどでしょう。ただ、粥や煮た豆、刻んだ根菜へ味を足す形であれば、四度か五度には分けられます。勉強の合間に手間をかけたくないのでしたら、最初から一食分ずつ小さな器へ分けて冷やしておくと楽です。毎回瓶から取り出すより、必要な量だけ温められますから」


「そこまで分けても味は落ちませんか」


「空気へ触れる回数を減らし、清潔な匙を使うなら問題ありません。ただし長く置くことを前提にした品ではありませんので、開けた後は早めに召し上がってください。保存食だからといって、永遠に保つわけではありません」


 学生は納得したように頷き、一瓶を買った。両手が本で塞がっていたため、オルゼンは包み布へ長い持ち手を作り、肩へ掛けられる形に整えた。学生は礼を言って立ち去ったが、数歩進んだところで振り返り、店の場所を尋ねた。


「今は店舗の工事中ですが、再開すれば中央通りから少し奥へ入った場所で営業します。店の前に新しい看板を出しますので、迷うことはないと思います」


 オルゼンが答えると、学生はもう一度頭を下げて図書館の横道へ消えていった。


 クィナスは代金を釣り銭箱へ入れながら、淡々と呟いた。


「一個目としては悪くありません。ここでは一度の食事より、複数回へ分けられることを前へ出した方がよさそうですね。図書館を長く使う者は時間を節約したい一方、毎食へ多くの金を使えるとは限りません」


「最初の客一人でそこまで決めるのか」


「決めません。仮説を一つ置くだけです。次の客へ同じ説明をして反応が違えば、別の理由を考えます。マスターは時々、私がすぐ答えへ辿り着いているように見ているようですが、実際には答え候補を大量に並べ、外れたものから捨てているだけですよ」


「大量に並べる時点で大したものだと思うけどな」


「マスターに褒められると、何か頼み事の前触れかと疑ってしまいます」


「普段の信用が低すぎないか」


「信用はあります。警戒もしています。両立するものです」


 その後、少しずつ客は増えた。古い地図を抱えた旅商人が一瓶、子どもの迎えを待つ女性が一瓶、役所の記録を調べていた老夫婦が二瓶。誰も大量には買わなかったが、用途を聞き、自分の生活へ当てはめ、納得したうえで手へ取っていく。クィナスは相手によって説明を変えた。旅商人には移動中に割れない持ち運び方を、女性には家族で分ける際の使い方を、老夫婦には味を薄めたい時の調理方法を話した。


 オルゼンも客との会話へ加わりながら、クィナスの視線が商品や代金だけでなく、広場全体を絶えず追っていることに気づいていた。彼女は接客中であっても、相手の背後を通る者、妙に長くこちらを見る者、台へ近づきながら結局止まらなかった者を見落とさない。過去に身につけた習慣なのだろう。今は殺意や危険を探すためではなく、客の迷いや周囲の流れを読むために使われている。


 販売数が七個に達した頃、図書館の正面扉から、一人の男が出てきた。


 長い外套は旅人向けの丈夫な布で作られ、色はくすんだ緑。腰には武器らしきものを見せていないが、歩き方に無駄がなく、人混みを避ける時も身体の中心がほとんど揺れない。年齢はオルゼンよりいくらか上に見え、短く切った褐色の髪と、笑っているようで笑っていない細い目が印象的だった。彼は石段を下りる途中で一度足を止め、販売台を見たのではなく、クィナスの横顔だけをじっと見つめた。


 その瞬間、クィナスの尾が止まった。


 表情は変わらない。耳も伏せず、姿勢も崩れない。しかし、長く近くにいるオルゼンには分かった。彼女が驚いている。それも、ただ昔の知人を見つけたという程度ではない。予想していなかった場所で、二度と会わないと思っていた人物と再会した時の警戒と戸惑いが、ほんのわずかに身体へ表れていた。


 男はゆっくり石段を下り、販売台の前まで歩いてきた。瓶へ目を向けることもなく、クィナスへ向かって片方の眉を上げる。


「生きていたか、クィナス。いや、生きているとは思っていたが、まさかこんなところで瓶詰めを売っているとは想像しなかった。帳簿でも抱えているならまだ分かるが、客へ食べ方を説明している姿まで見ることになるとはな」


 クィナスは数秒ほど男を見つめた後、息を吐いた。緊張を解いたわけではない。ただ、少なくとも今この場で危害を加える相手ではないと判断したらしい。


「ゼファル。あなたこそ、図書館へ入るような趣味があったとは知りませんでした。誰かの住所でも調べに来たのですか。それとも、依頼人から渡された名前を読み違えないよう文字の練習でしょうか」


「相変わらず口が悪いな。古い交易路について調べていただけだ。今は人を追うより、荷物の流れを追う仕事の方が多い。だが俺の話より、お前だ。噂では妙な商店へいると聞いていたが、まさか本当とは思わなかった」


 ゼファルと呼ばれた男は、そこで初めてオルゼンへ視線を移した。その目は値踏みするようでありながら、露骨な敵意まではない。長く裏の仕事へ身を置いた者が、相手の姿勢や手の位置、視線の揺れを無意識に確かめる目だった。


「こいつがそうか」


 クィナスの耳がわずかに動いた。


「言葉を選びなさい。ここは図書館前で、私たちは商売中です」


「別に争いに来たわけじゃない。だが理解できないだけだ。お前が誰かの下につく姿は何度か見たが、それは仕事のためだった。金、情報、逃げ道。必要なものを得る間だけ頭を下げ、不要になれば消える。そういう奴だったはずだ。それが今は、ずいぶん自然にマスターなどと呼んでいる。何だ、この男は。どう見てもお前が従うほどの怪物には見えない」


 ゼファルは悪意を込めず、むしろ本気で不思議そうに言った。だからこそ、その言葉は遠慮がなかった。オルゼンは反射的に何か返そうとしたものの、クィナスの横顔を見て口を閉じた。


 彼女は怒鳴らなかった。爪を立てることも、過去を知る男へ威圧を返すこともない。ただ、台の上へ並ぶ瓶の向きを一つ直してから、静かな声で答えた。


「まず訂正します。マスターは、あなたが想像しているような大人物ではありません。剣を取れば私より弱いでしょうし、人を疑うことにも向いていません。利益を前へ出せばよい場面で余計なことを考え、困っている相手を見ると自分の都合を後へ回す。商人として見ても、時折こちらが頭を抱えるほど甘い判断をします」


「クィナス、それは訂正なのか。それとも俺への苦情か」


「両方です。今は黙っていてください、マスター」


 ゼファルは低く笑った。


「そこまで言っておいて、なお従うのか」


「ええ。大したことがないからこそ、私には分かりやすい。力を隠しているわけでも、善人を演じているわけでもない。目の前で困っている者がいれば助けようとし、その後で帳簿を見て青ざめる。本当にそれだけの人です」


「ますます分からんな」


「あなたは、従うという言葉を力へ結びつけすぎています。私がマスターと呼ぶのは、この人が私を支配したからではありません。私がそう呼ぶと決めたからです」


 クィナスはそこで一度言葉を切り、オルゼンへ短く目を向けた。その目には普段の皮肉も、仕事中の冷静さもあったが、その奥に、滅多に表へ出さない柔らかなものが滲んでいた。


「昔、私が自分で作った逃げ道をすべて失い、誰かを信用することも、誰かから信用されることも、ただの弱みだと思っていた時期があります。その頃にマスターは、私の過去を知らず、それでも余計な質問をせず、目の前へ食事を置き、働く場所を渡した。恩を売る言い方もせず、見返りを決めることもなくです。本人は大したことをしたつもりなどないでしょう。ですが、助けられた側がどう受け取るかは、助けた側が決めることではありません」


 オルゼンは何か言おうとしたが、クィナスの言葉がまだ続くと分かり、黙ったまま彼女を見た。


「それに、これはマスター本人との縁だけではありません。彼の祖母と交わした約束もあります。正確には、彼の本当の祖母と呼ぶべきでしょうね」


 ゼファルの笑みがわずかに薄れた。


「……あの女か」


「知っているのですか」


「直接会ったことはない。だが噂くらいは聞いた。表に出る組織の名をいくつ重ねても辿り着けず、それでも裏側の大きな争いが起きると、最後には必ずあの女の意向が残っていた。誰かに命令するのではなく、命令する者が何を恐れ、何を欲しがるかを先に知っていたとか。姿を見た者の話が一致しないとか。名前も立場も、聞く相手によって全部違った」


 クィナスは目を細めたが、否定しなかった。


「概ね正しいでしょう。私も、最初に会った時はただの気難しい老婆だと思いました。次に会った時には、国境を越える密輸路を三つ潰した張本人だと知り、その次には潰したはずの組織の金が別の場所へ流れるよう仕組んでいたと知った。どこまでが本人の計画だったのか、今でも分かりません」


 オルゼンは思わず顔をしかめた。


「待て。俺の祖母は、そんなことまでしていたのか」


「マスターへ話していないことはまだありますよ。すべてを知ったところで、今の商売に役立つとも思えませんでしたから」


「役立つかどうかより、自分の祖母の話なんだけどな」


「では今夜、帳簿を終えて時間があれば少し話しましょう。ただし、知った後で眠れなくなっても責任は取りません」


 ゼファルは二人のやり取りを見ながら、ようやく納得しかけたように鼻から息を吐いた。


「なるほど。あの女との約束で、孫を守っているのか」


「それだけではありません。約束は始まりです。続ける理由は、今の私が決めています」


「どんな約束だった」


 クィナスはすぐには答えなかった。広場を横切る人々へ一度視線を向け、周囲へ聞かせる話ではないと判断したのだろう。声を落としながらも、言葉自体は明瞭だった。


「マスターが、自分の力を利益だけへ使うようになったなら止めること。自分だけを守るために他者を切り捨てるようになったなら、見限ること。そして、そうならない間は、本人が気づかない穴を埋めること。彼女は私へ『孫を守れ』とは言いませんでした。『あれがあれでいられる間だけ、傍にいてやってくれ』と言ったのです」


 オルゼンは困ったように眉を寄せた。


「祖母らしいと言えば祖母らしいけど、ずいぶん曖昧な頼み方だな」


「曖昧に見えて、かなり厳しい条件ですよ。マスターを無条件で守れとは言わず、変質したなら切り捨てろとまで含めている。あの方は身内へ甘い人ではありませんでした」


「それを聞くと、俺は毎日試されている気がするな」


「安心してください。今のところ大したことがないままです」


「安心できる言い方じゃないだろ」


 ゼファルはとうとう声を立てて笑った。その笑いには先ほどまでの値踏みが薄れ、昔の友人が思いがけない場所で、自分の意思によって立っていることを確かめた安堵が混じっていた。


「分かった。少なくとも、脅されているわけでも、牙を抜かれたわけでもなさそうだ。むしろ前よりよく喋る。昔のお前なら、ここまで自分の事情を説明する前に俺の喉へ爪を立てていた」


「図書館前で血を流せば、清掃費を請求されますから」


「店の損得で殺意を抑えるようになったのか」


「商売は人を変えるものです」


「違うな。お前の場合は、変わったことを認められる場所ができたんだろう」


 その言葉に、クィナスは何も返さなかった。ただ、耳がほんの少しだけ後ろへ傾いた。図星を指された時に見せる、ごく小さな癖だった。


 ゼファルはようやく販売台へ目を向け、瓶の一つを手に取った。


「それで、これは何だ。昔のお前なら、保存食の中身より毒を混ぜるならどの段階がいいかを考えていただろう」


「客の前で物騒な話をしないでください。肉を細かくほぐし、香味野菜と調味料で煮詰めたものです。温かい穀物へ載せるか、パンへ挟めば簡単に食べられます。移動が多いなら、宿へ着いてから湯で少し伸ばし、乾いたパンを浸してもよいでしょう」


「俺が移動していると分かるのか」


「外套の裾に付いた土が三種類あります。乾いた赤土、湿った灰土、それに街道の補修へ使う白い砕石。少なくとも数日の間に西門と北街道を通っていますね。靴底も片側だけ減っているので、荷を背負って歩く時間が長い。昔より体力が落ちたのではありませんか」


「会って早々、そこまで見抜くな。気分が悪い」


「あなたも先ほどからマスターを値踏みしていたでしょう。お互い様です」


 ゼファルは瓶を傾け、中身の状態を見た。


「一つもらおう。お前がそこまで真面目に売っているなら、味くらい確かめてやる」


「買っていただく立場なので礼は言いますが、上からの物言いは不愉快ですね」


「昔の友人からの祝儀だと思え」


「祝儀なら二つ買ってください」


「商売人になったな」


「帳簿を預かっていますから」


 ゼファルは苦笑しながら、結局一瓶分の代金を出した。クィナスは受け取った硬貨を数え、釣り銭を返す。オルゼンが瓶を包もうとすると、ゼファルは手を伸ばして止めた。


「そのままでいい。鞄へ入れる」


 クィナスはすぐに首を横へ振った。


「駄目です。鞄の中でほかの荷物へ当たり、蓋が緩めば台無しになります。布で包み、瓶の底へ衝撃が伝わりにくくしてから入れてください。あなたが雑に扱って割った挙句、店の品が悪いと吹聴されては困ります」


「俺はそこまで性格が悪くない」


「以前、仕事道具を壊して依頼人の保管方法が悪いと言ったでしょう」


「あれは本当に保管が悪かった」


「半分はあなたが投げたせいです」


 ゼファルは諦めたように両手を上げ、オルゼンが包むのを待った。包みを受け取ると、その重さを確かめるように一度持ち上げ、それから鞄の奥へ丁寧に収める。


「店が再開したら、一度くらい見に行く。お前がどんな顔で帳簿をつけ、どんな連中と働いているのか、少し興味が出た」


「来るのは構いません。ただし、店内で昔の話を大声でするのは禁止です。子どもも来ますし、食事中に聞かせる内容ではありません」


「分かった。今日のところは、瓶一つで納得して帰る」


 ゼファルはそう言ってから、オルゼンへ向き直った。


「悪かったな。最初から妙な言い方をした。クィナスが誰かをマスターと呼ぶ姿が、どうしても想像できなかっただけだ。だが今の話を聞く限り、あんたが特別強いからでも、恐ろしいからでもないらしい」


「そこは少しくらい良い言い方をしてくれてもいいと思うけどな」


「では訂正しよう。大したことはなさそうだが、こいつが自分で残ると決めるくらいには、信用できる男らしい」


 オルゼンは少し考えた後、苦笑して頷いた。


「それなら十分だ」


 ゼファルは口元を緩め、今度こそ背を向けた。数歩進んだところで振り返り、クィナスへだけ聞こえる程度の声で告げる。


「元気そうでよかった」


 クィナスは一瞬だけ目を細めた。


「あなたも、以前よりまともな仕事をしているなら何よりです」


「余計な一言がなければ、素直に喜べたんだがな」


「それでは昔の私らしくないでしょう」


 ゼファルは肩をすくめ、そのまま広場の人混みへ紛れていった。追う者もなく、呼び止める者もない。ただ昔の友人が偶然通りかかり、言葉を交わし、商品を一つ買って去っただけだった。


 事件など起こらない。過去から伸びてきた影が、今の店を脅かすこともない。それでもオルゼンは、ゼファルの姿が見えなくなった後も、すぐには販売へ意識を戻せなかった。


 クィナスは何事もなかったかのように代金を記録し、空いた場所へ新しい瓶を補充している。だが、その指先がいつもよりわずかにゆっくり動いていることを、オルゼンは見逃さなかった。


「クィナス」


「何ですか、マスター。祖母の話なら、今ここですべて説明するつもりはありませんよ。販売中ですし、私もどこから話すべきか整理できていません」


「それも気になるけど、今は別の話だ。昔の友人に会えて、嬉しかったのか」


 クィナスは瓶の向きを直したまま、しばらく黙っていた。広場の風が彼女の上着の裾を揺らし、長い尾が一度だけゆっくり左右へ動く。


「嬉しい、という言葉だけでは少し違いますね。あの頃の知人へ会う時は、互いに生きていたことを喜ぶより、どちらが先に裏切ったかを疑うのが普通でした。ゼファルとは比較的長く仕事をしましたが、最後まで背中を預けたわけではありません。それでも、今こうして会い、何も起こらず、商品を一つ売って別れられたことには……安心しました」


「そうか」


「それだけです」


「それだけなら、十分だろ」


 クィナスはようやく顔を上げ、オルゼンを見た。


「マスターは時々、聞き分けがよすぎますね。もう少し過去を問い詰めようとは思わないのですか」


「話したくなった時に話せばいい。俺が知りたいからって、今すぐ全部出させるものでもないだろ。それに、昔のクィナスがどうだったかより、今ここで一緒に瓶を売っているクィナスの方が、俺には大事だ」


 彼女はしばらく何も言わなかった。皮肉を返そうとして、適切な言葉が見つからなかったようにも見える。やがて小さく息を吐き、視線を販売台へ戻した。


「そういうところです」


「何が」


「私がマスターと呼ぶ理由の一つですよ。本人だけが、いつまで経ってもよく分かっていませんが」


「今の説明でも、よく分からなかったぞ」


「分からないままでいてください。理解して意識し始めると、マスターは余計なことをしそうです」


 オルゼンは不満そうに眉を寄せたが、クィナスの口元へ微かな笑みが浮かんでいることに気づき、それ以上は追及しなかった。


 その時、図書館の扉が開き、まとまった人数が石段へ出てきた。講義か読書会でも終わったのか、若者から年配者まで十数人が資料を抱え、広場へ散っていく。そのうち何人かが販売台へ目を向け、札を読みながら足を緩めた。


 クィナスは瞬時に仕事の顔へ戻り、オルゼンへ低く告げる。


「マスター、ここから少し忙しくなります。先ほどまでに売れたのは八個、残り十二個。包み布は左の束から使い、二個以上買う客には底を二重にしてください。それから、私が説明している間にほかの客が札を読んでいたら、黙って待たせず、何に使いたいかだけ先に聞いてください。答えによって説明を分けます」


「分かった。随分細かいな」


「今さらでしょう。昔の友人が来た程度で、帳簿係が仕事を忘れると思わないでください」


「思ってないよ」


「それなら結構です。ではマスター、残り十二個も丁寧に売りましょう。売り切ることより、誰が何を求めて手を伸ばしたのかを忘れないように」


 クィナスはそう言うと、最初に近づいてきた年配の男性へ穏やかな声で挨拶した。オルゼンも包み布を手元へ寄せ、次の客へ向き直る。


 過去から訪れた男は、瓶一つと少しの納得を持って去った。残されたのは不穏な予兆ではなく、クィナスが今の場所を選び続けているという、静かな確認だけだった。


 そして中央図書館前の販売は、ようやく本当の人波を迎えようとしていた。

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