10 想う人
連休が終わって、海は学校が始まる。
鈴芽も職場に行かなければならない。
「それじゃあ、元信くん。悪いけどお留守番お願いね。」
「心得てござる。」
「武士だから、心強い留守番だよね。お母さん。」
「刀は絶対使っちゃダメだからね?」
「それも心得てござる。未来の法度は殿中と同じようなものでござるな? ご心配召されるな、母君どの。武士でござれば、いささか体術も心得てござる。」
そんなやりとりをしながら、鈴芽は会社に出ていった。
「まあ、大丈夫だと思うけど、わたしが帰るまで1人で外に出たりしないでね。」
海もカバンに必要な物を詰めながら、元信少年に言った。
もっちゃん1人で外に出たりしたら、この慣れない現代でどんな騒ぎになってしまうやら‥‥。
まあ将来の徳川家康様なんだから、そんな迂闊なことはしないと思うけど。
「ここにある本は、どれ読んでてもいいから。」
連休が明けてから、岳川海は極端に付き合いが悪くなった。
たしかに彼女のオタク話についていける友人は一人もいなかったが、だからといって友達がいないわけじゃない。
友人が新しいキッチンカーが来てると誘っても、以前ならついて来たのに、ここ数日は
「ごめん! 用事がある。」
とか言って、そそくさと帰ってしまうのだ。
「なんか、子猫でも拾って面倒見てるような感じだよね。」
「それだったら普通に言うだろ。海なら。」
「だよねー。絶対学校まで連れてくるって。最低限スマホに写真入れて見せてくるよね。」
「でもなんか、授業中も心ここにあらず——って感じだよね?」
「どうしたんだろ?」
そんな海の様子に、困惑している男子が約1名いる。
岩吝図真人である。
海は、見た目的には美少女の部類に入ると言っていい。
ただ、クラスの男子が彼女をそういう相手として考えようともしないのは、彼女にはすでに絶対的な彼氏がいることを知っているからだ。
そう。クラスの全員が知っている。
岳川海。彼女は家康に恋をしている。
それでも、その間のわずかな隙間にでも割り込んで、せめて一緒に家康の話をしたい——と無謀にも努力している男子が1人いた。
それがこの目立たない男、岩吝図真人だ。
成績は科目ごとにムラがあって平均すると中くらい。運動もあまりできる方でなく、無口で友達も少ない。もちろん、女子に関心を持たれるようなタイプではない。
要するに、いるのかいないのか分からないような影の薄いモブキャラ男だった。
真人は戦国期から江戸時代にかけての歴史資料を、懸命に勉強している。
かなりの知識は手に入れたと思う。
あとは話しかけるキッカケ‥‥だったが、その1歩がなかなか踏み出せないでいるうちに、岳川さんは6時限目が終わると、さっと消えてしまうようになってしまった。
何をしているんだろう?
彼女と親しい女子の友達たちの話に耳ダンボになってみても、彼女たちにも分からないらしい。
真人は授業中でも海の横顔を時々チラ見している。
自分でも(これ、行き過ぎたらキモチワルイぞ)と思いながらも、やっぱり気になるから視線だけを向けてしまう。
だから、おそらくその変化に気がついているのは男子の中では真人だけのはずだ。
岳川さんは、連休が明けてから授業に上の空だ。
時々、夢見るような瞳でかすかに笑みを浮かべたりしている。
親しい友達にも言わず、授業が上の空で、終わったら大急ぎで帰ってゆく‥‥。そういう「用事」とは‥‥?
まさか‥‥!
彼氏ができた? 家康以外に? —————————!!!
その日、海が帰ってみると、心なしか元信少年の元気がない。
「どうしたの、もっちゃん? 留守の間に何かあった?」
元信少年は少し弱々しく首を横に振った。
毛糸の帽子の下からのぞく長い髪が、女の子みたいに揺れる。
「いや‥‥。特に何もござらぬ。」
その声が、やはり少し弱々しい。
「もっちゃん。ゲーム、やってみようか? やり方、教えるから。」
「人生は‥‥‥」
元信くんは少しうつむき気味に言葉を発して、そのあと少し沈黙した。
「人の人生は‥‥定められているのでござるかな‥‥。」
海はここで初めて、床に本棚から取り出された本が積んであることに気がついた。
山岡荘八の『徳川家康』
司馬遼太郎の『覇王の家」
「関口の姫は‥‥‥」
と言って、元信少年はまた黙った。
「そ‥‥‥」
海は言葉に詰まった。
それは、後年の「築山殿」——。
家康が信長の命令でその命を奪うことになる‥‥。
そうだ。
この時期のもっちゃんはまだ、関口の姫と結婚すらしていない。
その姫を、先々自ら殺すことになるという話を‥‥‥小説とはいえ‥‥。
「見目麗しき良き女子と聞く。‥‥まだ会ったことはござらぬが‥‥。」
会ってもいない将来の妻を想う少年は‥‥‥哀しい目をしている。