俺、勉強を教えます7 ~恵理の涙~
翌日の放課後も、私と恵理は陸玖を連れて同じカフェへ向かった。この日は古文の勉強だ。前世で古文を得意としていた恵理なら、陸玖の苦手意識もきっと克服できるはずだ。
「よし、陸玖くん。今日は古文をやるよ」
恵理がそう言って、古文の教科書を開く。陸玖は少し緊張した面持ちで、恵理の隣に座った。
「古文って、なんか難しそうで……」
陸玖が不安げに呟く。まあ、現代語とは全く違う言葉だから、苦手意識を持つのは当然だろう。
「大丈夫だよ。現代文と違って、古文は文法と単語の意味をしっかり覚えれば、案外読めるようになるから」
恵理は優しくそう言いながら、まずは古文特有の助動詞や助詞の活用、そして単語の読み方や意味を丁寧に解説し始めた。まるで小学生に教えるかのように、一つ一つの言葉をかみ砕いて説明していく。
「この『る・らる』は受け身とか可能の意味があってね、動詞の未然形にくっつくんだよ」
恵理はそう言って、例文をいくつか挙げ、陸玖に実際に声に出して読ませたり、現代語訳させたりしている。陸玖は最初は戸惑っていたものの、恵理の分かりやすい解説と、その都度確認してくれるおかげで、少しずつ理解を深めているようだった。
「なるほど! これって、そういうことだったんですね!」
陸玖が嬉しそうに声を上げた。彼が古文の文法を理解した瞬間だ。彼の顔には、新しい知識を得た時の、純粋な喜びが浮かんでいる。
しかし、陸玖の隣で教えている恵理の目には、なぜかうっすらと涙が浮かんでいるように見えた。私は思わず恵理の方を見たが、彼女は陸玖から視線を逸らさずに、そのまま解説を続けている。
恵理が、古文を教えていて泣きそうになっている? まさか、陸玖の理解力のなさに絶望しているわけじゃないだろう。いや、陸玖はきちんと理解しているようだし……。
きっと、前世で古文が得意だった恵理が、この女子高生の体になって、再び古文と向き合っていることに、何か特別な感情を抱いているのかもしれない。あるいは、前世では誰かに教える機会などなかったであろう恵理が、こうして誰かの役に立っていることに感動しているのだろうか。
古文の授業は順調に進んでいるが、恵理の涙の理由だけが、私には分からなかった。
陸玖に古文を教えているうちに、気が付けば夜もすっかり更けていた。カフェの閉店時間が迫り、私たちは陸玖と別れて店を出た。
「じゃあ、怜奈、陸玖くんの数学は任せたよ。私、数学は無理だから」
恵理がそう言って、帰ろうとする。私は慌てて彼女の腕を掴んだ。
「ちょっと待って、恵理」
昼間、古文を教えている時、恵理の目に浮かんでいた涙が気になっていた。その理由を、今なら聞けるかもしれないと思った。
「恵理、もしかして……前世で、大学に行けなかったこと、すごく悔しかった?」
私の問いに、恵理はハッと息を呑んだ。そして、みるみるうちに瞳に涙を溜め始めた。
「……うん。すごく、悔しかったよ……」
恵理の声は、震えていた。その目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちる。
「私ね、大学に行きたくても行けなかったんだ。親が、宗教に没頭しすぎてて……」
そういえば、以前恵理とショッピングに行ったときにその話を聞いた。
「高価な壺とか、曼荼羅とか、絨毯とか……数百万円もするようなものを、次から次へと買わされて騙されて。気が付いたら、家のお金が全部なくなってたんだ……」
恵理の言葉は、まるで堰を切ったかのように溢れ出した。彼女の抱えていた苦しみが、今、目の前で露わになっている。
「本当に、無責任な親だと思わない!? 今でも、思い出すと憎くてたまらないんだ……!」
恵理は私の腕を強く掴み、そのまましゃがみ込んで泣き出してしまった。その細い肩が、ひどく震えている。
私は何も言えなかった。ただ、彼女の腕をそっと撫で、慰めることしかできなかった。前世の恵理が、どれほどの理不尽と絶望を味わってきたのか、その痛みが、私にもひしひしと伝わってきた。
星が瞬く夜空の下、泣きじゃくる恵理の姿は、あまりにも痛々しかった。そして、そんな彼女の涙が、この第二の人生で、私たちがお互いの過去を共有し、支え合っていくことの重要性を、改めて私に教えているようだった。
恵理と別れて帰宅した後も、私の心はざわついていた。自室のベッドに寝転がり、お気に入りのペンギンのぬいぐるみを抱きしめる。恵理の涙が、脳裏に焼き付いて離れない。無責任な親のせいで、夢を諦めざるを得なかった恵理の無念。どうにかして、それを晴らしてやりたい。
でも、今は目の前の課題に集中する時だ。陸玖の勉強。期末試験まで、もう本当に時間がない。彼を補習から救い出すことが、今の私にできる一番のことだ。
陸玖の得意は「写真や画像で覚えること」で、「考えること、頭を使うこと」が苦手。そして、あの壊滅的な成績。どうすれば、この状況を打破できるだろうか。
考え込んでいると、ふと昔のことが頭をよぎった。
以前、恵理に数学の確率を教えていた時のことだ。その時、恵理は「数学が苦手」と言っていたのに、私の説明を妙に納得していたのを思い出した。その時の教え方は、専門的な数式も使ったし、決して簡単なものではなかったはずなのに。
あの時、恵理はどうして納得したんだろう? 確率の公式をただ説明しただけじゃない、何か別の方法を使ったはずだ。
そうだ……!
暗闇に光が差し込んだように、私はある方法をひらめいた。陸玖の「写真や画像で覚える」という特性を活かし、そして「考えること」が苦手な彼に、直感的に理解させる方法。まるで複雑な数式が、解けた瞬間のようだ。
ペンギンのぬいぐるみを抱きしめる腕に、力がこもる。これなら、陸玖も、そして私も、きっと乗り越えられる。明日の放課後が、待ち遠しくなってきた。




