第四話:隠された研究所、最初の共謀
霧雨が煙る夜の闇を、馬車は一瞬にして切り裂いた。空間が歪み、視界が青白い光に包まれたかと思うと、次の瞬間にはひんやりとした石の床の感触が足元に伝わる。そこは、湿気を含んだ冷たい空気が肌を撫でる、広大な地下空間だった。高い天井には届かないほどの暗闇が広がり、壁には古びた複雑な紋様がびっしりと刻まれている。それらの紋様は、単なる装飾ではなく、太古の魔術師たちが紡いだ世界の法則そのものを象徴するような記号にも見えた。中央には、禍々しいほどの存在感を放つ巨大な魔法陣が描かれ、そこから放たれる鈍い輝きが、私の心をざわつかせた。
「ここは……?」
私は、息を呑んで周囲を見回した。先ほどまでいた雨降る道端とは全く異なる、まるで異世界の奥底へと誘われたかのような場所。空気には微かに古い土とカビの匂いが混じり、遠くで水滴がしたたる音が響く。御者は相変わらず気を失ったままだが、馬車ごと空間を越えたことに驚きを隠せない。こんな芸当が可能なのは、私の知る限り、この物語に登場する魔術師の中でもごく一部、それも伝説級の存在だけのはずだ。イグニスは、その力をいとも簡単にやってのけた。
「私の隠れ家の一つだ。この王宮の地下深くに位置する、誰にも知られていない場所」
イグニスの声が、暗闇に響いた。フードを上げた彼の顔が、魔法陣の仄かな光に照らされる。その端正な顔立ちには、一点の曇りもない。彼は、私を馬車から降ろすと、倒れている御者を一瞥し、感情のない声で言い放った。彼の視線は、まるでそこに存在するものが無価値であるかのように冷淡だ。
「彼には、お前をロセッタ領へ届けたという記憶を植え付けておく。お前がここにいることは、誰にも知られない」
その言葉に、背筋が凍った。記憶の操作。それが彼の能力の一つなのだろうか。彼は、私が想像していた以上に、恐ろしく、そして計り知れない力を持っている。私の手のひらは、冷や汗でしっとりと湿っていた。この男と手を組んだことが、本当に正しかったのだろうか。一抹の不安が、再び胸をよぎる。しかし、もう後戻りできない場所まで来てしまったのだ。
「さて、悪役令嬢殿。まずは、お前に見せたいものがある」
イグニスは、そう言うと、奥へと続く暗い通路を指し示した。通路の先は、漆黒の闇に吸い込まれていくようだ。私は警戒しながらも、彼についていく。通路は複雑に分岐し、まるで古代の迷宮のようだった。足元には、かすかに水の流れる音が聞こえ、湿った空気が肌を撫でる。微かに薬品のような独特の匂いが、鼻腔をくすぐった。その匂いは、ただの薬品ではなく、まるで生命の根源を弄ぶかのような、不穏な香りに思えた。やがて、私たちは一つの巨大な扉の前に辿り着いた。古く、重々しい鉄製の扉には、何かを封印するかのような厳めしい紋様が幾重にも刻まれている。それは、単なる封印ではなく、世界を縛る鎖そのもののように感じられた。
扉がギィ、と低い、魂を削るような音を立てて開かれると、その奥にはさらに広大な空間、まるで地下に築かれた研究室が広がっていた。壁一面に並ぶ棚には、ガラス容器に入った不気味な色の液体が並び、中には生命らしきものが漂うものすら見受けられた。埃を被った膨大な書物が積まれているが、その題名には「古王国魔術」「魂の転移術式」「存在の歪み」といった、禁忌に触れるような文字が並んでいる。そして、この部屋の中心に、まるで生きているかのように鈍い光を放ち、脈打つ巨大なクリスタルが鎮座していた。そのクリスタルからは、形容しがたい負の波動が放たれており、私は思わず数歩後ずさる。全身の細胞が、危険信号を発しているかのようだった。
「これは……まさか」
私の脳裏に、王家の「魂を蝕む呪い」のことがよぎった。このクリスタルが、その呪いの源なのだろうか。それにしては、あまりにも巨大で、あまりにも異質だ。
「その通りだ。これは、王家にかけられた呪いの**『核』**。歴代の王族がその魂を喰われ、蓄積されてきた負の感情の塊だ。これを解析することで、私はこの世界の『歪み』を解き明かそうとしている」
イグニスの声は、どこか高揚しているように聞こえた。まるで、長年追い求めていたパズルの一片をついに見つけた探求者のようだった。彼の無表情の中に、初めて微かな熱が宿っているのを感じた。その熱は、研究への狂気じみた情熱にも似ていた。
「この呪いは、単なる魔法ではない。この世界の根源的な**『理』を書き換える**、非常に高度な仕組みだ。だからこそ、通常の魔術師には手がつけられない。王宮の賢者どもが、どれだけ研究しても辿り着けなかった理由がこれだ。彼らは、表面的な現象にしか目を向けない。だが、私は違う」
彼は、クリスタルに近づき、その表面に細い指先を触れた。すると、クリスタルは一層強く脈打ち、不気味な深紅の光を放つ。その光は、まるで生き物の魂を吸い取っているかのように、周囲の空気を重くした。私には、歴代の王族の苦しみと絶望が、このクリスタルに凝縮されているように感じられた。それは、単なる絶望ではなく、魂そのものの悲鳴が聞こえてくるかのようだった。
「私が『理』を理解し、逸脱する存在だと先に言ったな。それは、私がこの世界の『裏側』を知る者だからだ。お前の転生も、この呪いも、全ては繋がっている」
イグニスは、私を振り返った。その青い瞳が、僅かに感情の光を宿しているように見えた。それは、彼自身の真実の一部を、私に見せようとしているかのようだった。彼の言葉は、まるで不可解な数式の解答を突きつけられたかのように、私の頭の中にストンと落ちてきた。転生という非日常が、この世界の歪みによるものだというなら、全てに筋が通る。
「お前が『相沢結衣』として転生したこと。それは、この世界の『歪み』が、外からの干渉を誘発した結果だ。物語の『悪役令嬢』としてのお前が、この世界の真実を暴く鍵となる。そして、お前が弟を守りたいと願う『純粋な欺瞞』が、この呪いを解き放つ力となるだろう」
彼の言葉は、私の転生が偶然ではなかったことを示唆していた。私は、この呪いを終わらせるために、この世界に導かれた存在なのだろうか。だとしたら、これまでの私の苦しみも、全て意味があったことになる。その可能性に、私の心はかすかな希望を抱いた。同時に、とてつもない重責がのしかかるのを感じる。私は、この世界の運命を背負わされているのか?
「信じられない……」
震える声で呟いた私に、イグニスは嘲るように、それでいて、どこか確信に満ちた笑みを浮かべた。その表情は、私を試しているかのようでもあり、同時に彼の絶対的な自信を物語っていた。
「信じる必要はない。ただ、見届ければいい。さあ、悪役令嬢殿。ここからが、我々の『等価交換』の始まりだ。お前の『欺瞞』と、私の『真実』で、この世界の全てを暴き尽くそう」
彼の言葉は、私に拒否する術を与えなかった。私は、この男と共に、この世界の、そして私自身の運命を、根底から覆す旅に出ることを、半ば強制的に、半ば自ら望んで決意していた。この冷たい地下空間で、私とイグニスの、奇妙な協力関係が始まったのだった。彼の青い瞳の奥に、私はこれから起こるであろう嵐のような展開の予感を感じ取っていた。この研究室の空気は、まさに静かな戦場の幕開けだった。
第五話へ続く