第三話:等価交換、そして暴かれる呪いの真実
冷たい雨は、いつの間にか微かな霧雨へと変わっていた。馬車の外は、まるで水墨画のようにぼんやりと霞み、王都の灯りはもう見えない。目の前に立つイグニスは、差し伸べた手をそのままに、私の返事を静かに待っていた。彼の瞳は相変わらず感情を映さないが、その奥に潜む鋭い知性が、私に有無を言わせぬ選択を迫る。この張り詰めた静寂が、私には何よりも恐ろしい圧力に感じられた。
私は、差し伸べられたその青白い手を見つめた。まるで蝋人形のように、血の通わない色。この手を拒絶すれば、この不測の事態を切り抜けることはできるかもしれない。辺境のロセッタ領へ辿り着き、ひっそりと暮らす。それも一つの選択肢だ。けれど、弟の未来は? 王家の呪いは? 私一人では、この巨大な運命の鎖を断ち切ることはできない。それは、転生してからの日々で、痛いほど理解していた限界だった。この男は危険極まりない存在だ。しかし、同時に、この絶望的な状況を打破する唯一の希望でもある。その矛盾した事実が、私を強く突き動かした。
「……あなたの望みとは、何?」
私の声は、先ほどまでの震えを失い、問いかけははっきりと響いた。まるで、自らの喉を締め上げるような、それでも逃げないという強い決意を込めた問いだった。私の意を決した言葉に、イグニスの口元にわずかな笑みが浮かぶ。それは、冷酷さの中に、どこか愉悦を秘めたような、奇妙で底知れない笑みだった。
「単純なことだ、悪役令嬢殿。私は、この**『魂を蝕む呪い』の根源を知りたい**。そして、それを制御する術を手にしたい」
イグニスは、私の目の前にあった御者の手綱を、まるで壊れた玩具でも触るかのように、細い指でゆっくりと撫でた。その仕草一つ一つに、彼の常軌を逸した感覚が垣間見える。彼の視線は御者に向かっていたが、その意識は完全に私の反応を探っていた。
「この呪いは、王族の『純粋さ』を喰らう。そして、喰らい尽くされた王族の魂は、最終的に**『虚ろな器』**となる。彼らは自我を失い、ただ命を繋ぐだけの存在となるのだ。それは、まさにこの腐敗しきった王国そのものだと思わないか?」
彼の言葉に、私は息を呑んだ。「虚ろな器」。なんと恐ろしく、冷酷な表現だろうか。私が読んでいた小説には、ここまで詳細な描写はなかった。ただ漠然とした「自我の喪失」だけ。だが、今、イグニスの口から語られたその真実に、私の胃の奥から冷たいものが込み上げてくる。弟が、もしそんな状態になったら……。 その想像が、私の心臓を鷲掴みにした。震える手で、スカートの生地を強く握りしめる。
「私の望みは、この呪いを『悪用』するためではない。制御し、解き放つことで、この世界の根底にある『歪み』を暴き、世界そのものを変革したい。お前が弟を救いたいと願うように、私もまた、この澱んだ世界を変えたいのだ。そのためには、お前の『欺瞞』と、私の『力』が必要となる」
イグニスは、そう言ってゆっくりと手を引いた。そして、私の目をまっすぐに見据える。その青い瞳の奥に、私は初めて、彼の揺るぎない意志を見た気がした。それは、彼自身の存在意義そのものを賭けているような、深い信念だった。
「そして、お前が『相沢結衣』であること。それは、この世界の『歪み』が生んだ現象だ。お前は、この世界の法則から外れた異物。だからこそ、私にとって興味深く、利用価値がある。私がお前の秘密を知るのは、私自身もまた、この世界の**『理』を深く理解し、時に逸脱する存在**だからだ」
その言葉に、私の頭の中で点と点が繋がるような感覚があった。イグニスは、小説の裏の悪役というだけではない。彼はこの世界の「理」そのものに深く関わり、それを揺るがす力を持っている。だからこそ、私の転生という異質な現象をも見抜けたのだ。彼は、この世界の「外側」すら認識し、干渉できる、まさに超越者なのかもしれない。
「私の計画は、お前が考えているよりも、遥かに深い場所にある」
イグニスの言葉は、私に選択の余地を与えなかった。まるで、私を逃がさないとでも言うかのように、静かに、しかし有無を言わせぬ圧力を放つ。私は、彼の瞳の奥に、確かな真実と、同時に測り知れない闇を感じた。それは、私を深く惹きつけ、同時に底なしの恐怖を抱かせるものだった。この男の存在そのものが、私にとっての禁断の果実のように感じられた。
「……分かったわ」
私は、意を決して答えた。喉の奥が張り付いたように乾いている。この決断が、吉と出るか凶と出るか、今の私には全く分からない。けれど、弟を救うというただ一つの願いのために、私は進むしかない。たとえ、その道が茨の道であろうとも。
「あなたに協力する。ただし、弟を救うこと。それが絶対条件よ」
イグニスは、私の言葉に満足そうに頷いた。彼の表情が、ほんのわずかに緩んだように見えたのは、私の錯覚だったかもしれない。しかし、その顔に確かに「肯定」の意が宿っていたのは事実だ。薄い唇が、かすかに弧を描く。
「もちろん。等価交換だ。では、まずは目的地を変えよう」
イグニスは、そう言うと、馬車の中に魔法陣を描き始めた。彼の指先から放たれる青白い光が、暗い馬車の中に幻影的な輝きを放つ。光が瞬き、馬車の空間そのものがねじれるように歪み始めた。窓の外の霧雨が、万華鏡のように螺旋を描き、世界の境界が曖昧になる。
「辺境のロセッタ領など、退屈極まりない。もっと面白い場所へ案内してやろう。そこでお前は、この呪いの真の姿を、そしてこの王国の欺瞞の歴史を知ることになるだろう」
歪む視界の向こうで、イグニスの顔が嘲るように、それでいてどこか誘うように微笑んだ。彼の言葉が、冷たい霧雨のように私の心に染み渡る。もはや、後戻りはできない。
――私の「悪役」の演技は、これで終わり。けれど、これからは、もっと大きな舞台で、「本当の私」が演じなければならない。欺瞞に満ちた魔術師と共に、この世界の真実に立ち向かうために。私は、抗えない運命の渦に、自ら足を踏み入れたのだ。
馬車は、青白い光の奔流に包まれ、そのまま空間に溶け込み、跡形もなく消え去った。残されたのは、雨に濡れた荒れた道と、置き去りにされた御者の小さな呻き声だけだった。王都の喧騒から遠く離れたその場所には、ただ冷たい雨音だけが、虚しく、そして何事もなかったかのように響いていた。
第四話へ続く