表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/11

第二話:欺瞞の瞳、交錯する思惑

冷たい雨が、まるで世界の終わりを告げるかのように、執拗に降り続いていた。馬車の中は、微かに湿った空気と、重い沈黙で満たされている。御者は衝撃で気を失ったままで、馬は荒れた道端の草を静かに食んでいた。私の目の前には、依然として深いフードを被った男、イグニスが立っていた。彼の口から放たれた「欺瞞に満ちた、悪役令嬢殿」という言葉は、私の心の奥底にまで突き刺さり、必死に隠そうとしていた動揺が、全身を駆け巡る。

「なぜ……その名を?」

私の声は、雨音に吸い込まれるほどか細かった。相沢結衣としての私を知る者は、この世界には存在しないはずだ。この世界に転生して以来、決して口にしなかった、前世の名前。それを、この男がなぜ知っているのか。背筋を這い上がるような、言いようのない恐怖に襲われた。

イグニスは、フードの奥でわずかに口角を上げたように見えた。それは、嘲笑なのか、それとも憐憫なのか、判別できない冷たい笑み。凍てついた青い瞳が、私をまっすぐに見つめ返す。

「私がお前を知るように、お前も私を知っているだろう? “イグニス”──その名に聞き覚えがあるはずだ」

彼の言葉は、まるで氷の刃のように、私の記憶の奥底を執拗に探った。イグニス……イグニス……。脳裏に、かつて読んだ小説のページが鮮明に蘇る。あの物語の、登場人物。

ハッ、と息を呑んだ。そうだ、彼は……。

彼は、私が生前、暇つぶしに読んでいたありふれた恋愛小説の、終盤で突如として現れる謎の魔術師だった。物語の中では、王家にかけられた「呪い」を解く「秘術」の担い手として登場し、表向きは王族に協力するふりをする。しかし、その裏では呪いの力を我が物にしようと暗躍する、冷酷で狡猾な男。物語のヒロインの「純粋さ」に惹かれるふりをして近づき、利用しようと目論むも、最終的にはヒロインの真の愛によって打ち砕かれる、いわば「裏の悪役」のような存在だった。

「あなたは……物語の……」

私は言葉を失った。まさか、彼がこんな形で、こんなにも早い段階で現れるとは。小説の展開とはあまりにも違う。そして何より、彼が私の「転生」を知っているかのような口ぶりだ。これは、私の計画を、そしてこの世界の、そして弟の行く末を大きく狂わせる可能性を秘めている。私の完璧なシナリオは、登場人物の予測不能な出現によって、早くもほころびを見せ始めていた。

イグニスは、まるで私の混乱を楽しんでいるかのように、一歩、私に近づいた。馬車の狭い空間が、一気に彼の存在感に支配される。その冷たい視線が、私の心の奥底、相沢結衣としての魂の核までを見透かすように突き刺さる。彼の瞳は、私が積み上げてきた全ての「欺瞞」を、あっさりと見破っていた。

「ほう、理解が早くて助かる。まさか、愚かな王女がここまで深い策略を巡らせているとはな。己を貶めてまで、誰かを守ろうとするとは。だが、その欺瞞も、私には通用しない」

彼の言葉は、私のアリシアとしての行動、全てが彼には筒抜けであることを容赦なく突きつけてきた。私が築き上げてきた「悪役令嬢」の仮面も、幼い弟王子を守るための秘めたる決意も、全て。混乱が、私の思考を支配する。彼はどこまで知っている? 私の「相沢結衣」という存在まで、知っているのか? その問いが、私の中で嵐のように渦巻く。

「あなたは……何を企んでいるの?」

私は、震える声で尋ねた。喉の奥が張り付くように乾いている。この男は危険だ。彼の介入は、私の計画を、そして弟の未来を、根底から覆しかねない。私の望む結末へと、この世界は本当に進めるのだろうか?

イグニスは、再び冷たい笑みを浮かべた。その表情には、一切の感情が読み取れない。彼の顔は、まるで精巧な彫像のように、冷徹で美しい。

「企み、か。そうだな……この呪われた王国に、私は飽きていた。腐敗しきった王族、醜い争いを繰り返す貴族。そして、その全てを覆い隠す薄っぺらな『純粋さ』。だが、お前は違う。その欺瞞の奥に隠された、愚かしくも美しい心。それには、少しばかり興味が湧いた」

彼の言葉は、私の心をざわつかせた。興味? 私の「欺瞞」に? 彼は、私を物語のように利用しようとしているのだろうか。それとも、単なる気まぐれなのか。しかし、彼の言葉の端々には、この世界に対する深い倦怠と、私へのただならぬ好奇心が滲み出ていた。彼は、私という存在の中に、この停滞した世界を変える何かを見出したのだろうか。

「安心してくれ、悪役令嬢殿。お前の計画を邪魔するつもりはない。むしろ、この呪われた世界を壊すという点では、我々は同じ目的を持つのかもしれない」

イグニスは、そう言ってゆっくりと手を差し伸べた。その手は、月明かりの下で青白く光り、まるで彼自身が氷でできているかのようだった。触れれば、凍りつきそうなほど冷たい。

「私は、お前が本当に守りたいものを、手に入れるための手助けをしよう。ただし、私の望みも叶えてもらう。それが、等価交換というものだ」

彼の言葉の裏に、何が隠されているのか、私には分からない。彼の「望み」とは一体何なのか。弟王子を救うという私の願いと、彼の望みは本当に両立するのだろうか。だが、彼の瞳の奥には、確かな力が宿っているように見えた。この男は、私にとって危険な存在でありながら、同時にこの絶望的な状況を打開する、唯一の希望でもあるのかもしれない。悪魔に魂を売るような、禁断の取引の予感。

馬車の外では、雨音が激しさを増していた。嵐が、今、まさに訪れようとしている。私とイグニス、欺瞞と欺瞞。互いの思惑が交錯する中で、私たちの、そしてこの世界の新たな運命が、静かに、そして抗う術もなく動き始めていた。私は、差し伸べられたその手を、掴むべきか、拒むべきか、逡巡していた。


第三話へ続く

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ