第一話:追放の夜、目覚める真実
漆黒の闇が、厚い雲に覆われた王都を深々と沈めていた。冷たい雨が容赦なく降り注ぎ、王宮の石畳を濡らし、光を吸い込む。広間は、熱のこもったひそひそ話と、好奇、嘲笑、そしてわずかな安堵が入り混じった貴族たちの視線に満ちていた。その中央に、まるで生贄のように立つのは、私、王女アリシア・ローズフィールド。そして、私の目の前には、かつて私の未来を誓い合ったはずの、元婚約者、第一王子エドワードが、冷たい表情で立っていた。
「アリシア・ローズフィールド!貴様の悪逆非道な行いは、もはや看過できぬ!貴様との婚約を破棄し、辺境のロセッタ領へ追放する!」
エドワードの声は、よく訓練された響きで広間にこだまする。その言葉が合図であるかのように、貴族たちは堰を切ったように歓喜の声を上げた。彼らにとって、私はまさしく「悪役令嬢」。社交界を混沌に陥れ、無邪気な貴族の子息たちを惑わし、あまつさえ王子をも手玉に取ろうとした、堕ちた悪女。しかし、その耳障りな非難の言葉も、私にとっては予定調和の「役割」に過ぎなかった。
私の本名は、相沢結衣。29歳、東京の片隅で残業に追われるごく平凡なOLだった私は、突然の交通事故で命を落とし、そしてこの物語の「悪役令嬢」アリシアとして転生していた。この世界は、私が生前、気まぐれに手に取ったありふれた異世界恋愛小説の世界。けれど、その薄っぺらな物語の裏には、恐ろしく、そして陰惨な真実が隠されていたのだ。
それは、王家に代々受け継がれるという「魂を蝕む呪い」。王族は、一定の年齢に達すると次第に心が蝕まれ、最終的には自我を失い、ただの「器」と化すという呪いだった。この呪いを解くには、とある「秘術」が必要で、その秘術の担い手である魔術師が、王族の「純粋な心」に惹かれて近づいてくる、という伝承があった。しかし、その伝承には、もう一つの側面があった。その魔術師が「純粋な心」を持つ王族を利用し、呪いを悪用する可能性を秘めている、と。
私は、愛する家族、特にまだ幼く、純粋すぎる弟王子がその呪いに侵されるのを何としても防ぎたかった。そのために、私は自らが「不純な心」を持つ悪女を演じることで、魔術師の接近を防ぐことを決意したのだ。わざと悪評を立て、周囲から嫌われ、婚約破棄され、そして追放される――その全てが、秘術の担い手である魔術師に「この王女には近づく価値なし」と思わせるための、綿密に練られた策略だった。
エドワード王子の声を聞きながら、私は内心で深い安堵の息を漏らした。計画は、完璧に進んでいる。あとは、辺境でひっそりと暮らすだけだ。
「……承知いたしました」
私は、訓練された淑女の完璧な礼をとり、広間を後にした。足音一つ立てずに進むその姿は、まるで舞台役者が役を終え、静かに舞台袖に消えていくようだった。冷たい雨が降りしきる夜、たった一人、粗末な馬車に乗り込む。窓の外には、勝利を確信したかのような歓声と、未だ私を罵る貴族たちの顔が見えた。その中に、わずかながらの同情や、私を案じる視線がないわけではなかったが、それらは皆、私の演技の前にかき消されていった。
馬車が走り出し、王都の煌びやかな灯りが、雨に滲んで遠ざかっていく。私は、ようやく深く、長い溜息をついた。これで、私の「悪役」としての役目は、一旦終わり。けれど、心の中には、漠然とした不安が渦巻いていた。
――本当に、これで大丈夫なのだろうか? 呪いは、本当に防げるのだろうか? このままで、弟は、王家は、救われるのだろうか?
私の胸中に、鈍い痛みが走る。転生して以来、ずっと背負い続けてきた「物語を救う」という使命感。それが、一瞬、重くのしかかった気がした。
馬車は、舗装もされていない荒れた道を、ガタガタと音を立てながらひたすら進む。雨音だけが、寂しく響いている。突然、ゴツン、と大きな衝撃が車体を揺らした。車体が大きく傾ぎ、私は座席に叩きつけられそうになる。御者の悲鳴が、雨音にかき消されるように聞こえた。何事かと窓の外を見ると、そこに立っていたのは、深いフードを被り、雨粒を弾く黒い外套を纏った、一人の男だった。
月明かりが雲の切れ間からわずかに差し込み、男の姿をぼんやりと浮かび上がらせる。フードの隙間から覗く鋭い眼差しが、私を射抜いた。それは、まるで世界の深淵を覗き込むような、凍てついた青い瞳。その瞳が、私の中に隠された真実を、全て見透かしているかのように感じられた。
男は、ゆっくりと口を開いた。
「――ようこそ、イグニス」
その声は、どこか嘲るような響きを持ちながらも、氷の結晶が砕けるように冷たく、耳に響いた。そして、彼は続けた。
「欺瞞に満ちた、悪役令嬢殿」
その言葉に、私の背筋に冷たいものが走った。なぜ、この男が私の本名を知っている? そして、私の「悪役」としての演技が、彼には見抜かれているというのか? 彼は一体、何者なのだろうか? 私の、この完璧な計画は、一体どこで綻びを見せたのだろう?
闇の中で、男の存在が私を包み込む。それは、予期せぬ、そして抗いがたい運命の気配だった。
私の、新たな「物語」が、今、始まったばかりだった。
第二話へ続く