36 動揺
「はあ……」
私のハンカチが風に飛ばされ、それを渡しに来てくれたネーヴラント伯爵令息。彼に思いもかけず気持ちを伝えられるような格好になった私は、その時のことを思い出し、部屋で一人ため息を吐いていた。
正直なところ、私にとって彼の存在は『もう一人の側近候補』という立ち位置の人でしかなく、自分が関わり合いになることなんてないと思っていた人だった。だから今まで、特にこれといった感情を抱いたことはなかったし、これからも、彼に対して特別な感情を抱くことなんてないと思っていた。
それなのに、彼の方はそうでなかったと言われても、予想外すぎてどうしたら良いのか分からないというのが現状で。
しかも彼は、その立場上、学園内ではほぼレスターと一緒にいるのだ。そんな人と新たに婚約しようものなら、気まずいことこの上ないし、今回の婚約破棄はレスターを忘れるためにするものでもあるのに、同じ側近候補であるネーヴラント様と一緒にいたら、レスターを忘れることなんてできなくなってしまう。
「ネーヴラント様には申し訳ないけれど、やはりお断りするしかないわよね……」
まだレスターとの婚約破棄自体できていないし、どちらにしろお受けすることができないのなら、返事は早い方が良いだろう。
それに今は、王太子殿下のこともある。
彼が私のハンカチ──だと思い込んだもの──に、頬を擦り寄せたり、匂いを嗅いだりするところを見たと、ミーティアが全身に鳥肌をたてながら証言してくれた。以前、校舎の陰で殿下と出会したことも、ミーティアとネーヴラント様曰く、偶然ではなかったと。
泣いている私を慰めてくれたり、レスターとの婚約破棄を後押ししてくれたりと、私にとっては優しいだけに思えていた殿下が、裏でそんな気持ち悪いことをしていたなんて思いたくない。けれどミーティアが私にそんな嘘を吐く理由はないし、言われてみれば一介の侯爵令嬢の婚約話に首を突っ込むなんて、王太子としてやり過ぎだと言われれば、確かにその通りでしかなくて。
「とにかくユリアは、今後極力王太子に近づいちゃ駄目だからね!」
とミーティアに圧強めに言われ、私は押し切られる形で頷いたのだけれど。
明日から、どうしよう……。
そうそう殿下方に会う機会はないと思うものの、ミーティアの言うように、あちらが私の動きを予測して動いているのだとしたら、避けようがないような気もする。できる限りミーティアとフェルがフォローしてくれると言っていたけど……そんなことできるんだろうか?
コーラル侯爵家との、次の話し合いの予定もまだ決まっていないし……。
「気が重いわ……」
再びため息を吐き、便箋にペン先をはしらせる。
それを朝一番で届けるように侍女へ伝えると、私は布団の中へ入った。
※※※
次の日、私が学園に到着すると、待ってましたとばかりに、フェルがもの凄い勢いで駆け寄って来た。
「ユリア、待ってたんだ。コーラル侯爵令息が大変なことになってる」
「レスターが?」
フェルのあまりに焦った様子に、私の胸が嫌な音を立てる。
大変なことって一体なに? レスターはどうなっているの?
「今は説明するより、来てもらった方が早い。急げ!」
乱暴に腕を掴まれ、彼が早足で歩き出す。急いでいるのに走らないのは、私に気を遣ってくれているからだろう。
「あの……フェル、レスターに何があったの?」
歩きながら聞くけれど、フェルは何も答えてはくれない。少しぐらい、なにがあったか教えてくれても良いのに。
嫌な予感に胸を押さえつつ、連れてこられた場所は医務室だった。入り口には既にミーティアもいて、涙目になっている。
「ユリア……ごめん、ごめんね。あいつが残酷な性格だってこと、あたし知ってたのに……止められなくて……ごめん」
「ミーティアどうしたの? 何を言ってるのか分からないんだけど……」
何故ミーティアが私に謝ってくるのか。
泣き出す彼女を宥めようとすると、フェルがそっとミーティアの肩を押した。
「ミーティア、気持ちは分かるが今は一刻も早くユリアを中に入れてやろう」
「あ、うん。そうだね。ごめん、ユリア……」
戸惑いながらも、「二人の決闘イベントは、まだもっと先のはずだったのに……」と呟きつつ、ミーティアは道を開けてくれる。
決闘イベントってなに? と思わないでもなかったけれど、今は医務室の扉の向こうが気になって、私は何も言わなかった。
扉の向こうにいるレスターは、今どんな状態になっているのだろう?
心臓が痛いぐらいに脈打ち、呼吸が苦しくなる。
どうか、レスターが無事でありますように……。
祈るように願いながら、私は意を決して保健室の扉を開いた──。




