17 レスター2
四阿から駆け出して行くユリアの姿を、レスターはただ呆然と見送っていた。
「ユリア‼︎」
ほぼ反射的に名を呼びはしたものの、足はその場所に縫い付けられたかのように動かすことができず。追いかけなければ──と思うものの、そう思えば思うほど足が重くなっていくようで。
動けなかった、その場から動くことができなかった。
どうしてユリアは、自分から逃げたのだろう?
その答えが分からずに。
自分は間違っていない、間違ったことは言っていないはずだ。ユリアは自分の婚約者なのだから、他の男と近しい距離にいるべきではない。自分は婚約者として、当然のことを言ったまでだ。
それ、なのに──。
「おい、てめぇ」
レスターが意識を思考の海へと沈ませていると、それを現実へと引き上げるかのように、突如強い力で胸ぐらを掴まれた。
「俺にあんなことして、どういうつもりだ? まさかユリアの知り合いだった……とか言うわけじゃないよな?」
至近距離で煌めく黒曜石のような瞳に睨み付けられ、レスターはゴクリと唾を飲み込む。
こんなにも強く輝く瞳は見たことがない。だが、そう思う反面、どこかで見かけたような気もする。
否、それ以前に、何故彼は、こんなにも憤っているのだろう?
自分が彼にしたことは、確かに少し行き過ぎていたかもしれない。だが、婚約者でもない令嬢相手に、あの距離は非難されて然るべきだ。故にレスターは、自分は問い詰められる立場にはない、悪いのは、ユリアに近付いたお前の方だ──と言い返したかったのだが。
この場でそれを言うのは憚られた。
四阿の中に入って来ていないとはいえ、周囲は令嬢達に囲まれている。それに、家名すら分からない、ユリアとの関係性も不透明な男に、事情を話す義理もない。
そう結論をだしたレスターは、こう言ったのだ。
「お前には……関係のないことだ」
「はあ⁉︎」
しかし当然、目の前の令息がそれで納得するはずはなく。
「俺はいきなりあんたに両腕を拘束されて、痛い思いをさせられたんだぞ! なのに関係がないだって? そんなわけないだろうが!」
至極尤もな言い分だった。
とはいえ理由を語ることができない以上、弁解の仕様もない。
本当は、面と向かって言ってやりたかった。
「お前がユリアに近付くからいけないんだ」
と。ユリアはレスターの婚約者であり、どこの馬の骨とも分からない男が近付いて良い存在ではない。ましてや触れるなど、以ての外だ。
目の前の男は、何も知らない。何も知らないからこそユリアに無遠慮に近付くし、レスターに対しても、こうして失礼な態度をとってくるのだ。
如何に普段自分が、学園内でのユリアの平穏な生活を守るため、我慢に我慢を重ねているか知りもしないで。
本当は、いつでもどこでもユリアと一緒にいたい。しかし、それをすれば確実にユリアが他の令嬢達から嫌がらせを受けることは分かっているから、それはできない。
ならばと時折コッソリ視線を向けるに留めていたが、それすらも王太子であるカーライルやパルマークに気付かれていた。
八方塞がりともいえる状態の中、少しでも良いからユリアに会いたいと思い、苛ついていたところで見知らぬ男と見つめ合う彼女を見つけたのだ。我を忘れて駆け寄ったとて、その上相手の令息に多少なりとも暴力を働いたとて、仕方のないことではないか。
そう叫びたい気持ちでいっぱいだったが、それでもレスターはそれらの言葉を全て呑み込み、別のことを口にした。
「無理矢理腕を拘束したのは悪かったが……お前とあの令嬢との距離は、どう考えてもおかしかった。だから俺は、学園内の治安維持のために──」
「よく言うぜ」
言いかけた言葉は、しかし馬鹿にされたような響きと共に遮られた。
「自分の方がよっぽど女達との距離が近いくせに、治安維持だって? まずは自分の近辺見直してから口にしろよ」
なんという口の悪さか。
しかも、言うに事欠いて自分の近辺を見直せ? 全くもって意味が分からない。
レスターとしては、学園内の令嬢達とは適切な距離をとっているつもりだった。
自分からは近付いていない、触れてもいない。ただ令嬢達が好き勝手に自分を囲み、周囲で騒ぎ立てている。その程度。
だから当然誰かに責められる覚えもないし、悪く言われる筋合いもない。なのに、どうしてそんな言われ方をされなければいけないのか。
「……意味が分からないな」
自らの胸ぐらを掴んでいる手を無理矢理離させ、レスターは襟を正す。
自分とて、好んで令嬢達に囲まれているわけではない。どちらかといえば、最近では令息達とも関わりたいと思い始めていたところだ。しかし、目の前の令息の反応を見る限り、それは難しいことなのだと思い知ったような気分だった。
王太子の側近候補として、男女問わず人脈を形成したい。
それがレスターの願いではあるが、普段から令嬢達に囲まれてばかりいるせいか、どうにも令息達からは睨まれているような視線を浴びる毎日だった。
こちらから声を掛けても、最低限必要な会話をしてくれるのみで、相手の顔はいつも引き攣っている。普通の友人のような会話をしたくとも、「侯爵令息であり、王太子の側近候補である方と気軽に話せるような立場ではありません」と敬遠されてしまう。
そのような日々の中、ユリアが自分の婚約者だと知られれば、彼女も当然周りの者達から同じような扱いをされるであろうことは想像に難くなく。
距離を取り続けるしかなかった。寧ろ学園でユリアと距離を取ったことは正解だとも思っていた。
なのに実際は、こうして責められている。
何故だ? 僕は何か……間違っているのか?
そう思ったが、何がどう間違っているのか分からなかった。ユリアとの婚約を隠している以上、相談できる者などいないのだから。
「……失礼する」
頭の中が混乱し、混乱した状態のまま、取り敢えず目の前の青年から離れようと、レスターは四阿を後にする。
そんなレスターの後ろ姿を見送りながら、「アイツのこと、確実に教室まで送っていけよ」と取り巻きの令嬢達に告げていたフェルディナントは、どこまでも抜け目なかった。