16 決断の時
「待ってユリア! 行かないで!」
後ろから、ミーティアが追いかけてくる声が聞こえる。
けれど私は足を止めない、止まらない。今足を止めたら、その場に座り込んで泣いてしまいそうだから。
まさかレスターが、あんな酷いことを言ってくるとは思わなかった。
フェルに好意があるって何? 友達として──距離が──相応しくないって?
学園で私がどう過ごしているのかも知らないくせに、勝手なことを言わないでほしい。
確かに距離は近かったのかもしれないけれど、フェルと二人だけでいたのは偶々で、普段はミーティアも一緒にいる。しかも、フェルが私に近付いたのだって、落ち込んだ私のことを心配してくれたからだ。
「何にも知らないくせに……酷いよ……」
フェルの両腕を拘束してまで、咎めるようなことではなかったと思う。
私達が婚約者同士であると周囲に知られているならば、ああしても良かったかもしれないが、普段から他人の振りをしているせいで、私達は無関係だと思われている。ならばあの場は無視するのが正解であった筈なのに、レスターはどうしてあそこに姿を現したのか。
しかも、多くの人目がある中で、オリエル公爵家の令息を辱めるなんて。
レスターはフェルの家名を知らない可能性があるけれど、だからといって許される行為ではない。さっきのことをフェルが親にでも訴えたなら、レスターは何らかの罰を受けることになるだろう。
それに私との関係だって、勘繰る人が出てこないとは限らない。見ず知らずの令嬢と令息との距離感なんて、普通は見て見ぬ振りをするものなのに、レスターは手を出してしまったのだから。
そうしたら、彼はどうするんだろう?
今更になって実は婚約してました──なんて言えるわけがないし、あんなことをした後で誤魔化しても、問題が起きるような気がする。
「もう……どうしたら良いのか分からないよ……」
校舎の陰に隠れ、私は膝を抱えて座り込んだ。
泣きたくないのに、次から次へと涙が溢れて頬を伝っていく。
どうしてこんな事になったんだろう。
学園に入学してからの二ヶ月間、レスターの言い付け通りに私は他人の振りを続けてきた。
その間も彼をお茶会に招待する手紙は何度となく送ったし、両家の食事会を催して欲しいと、お父様に何度もお願いをした。けれど私の願いは一度も叶えられることはなく、毎回「側近になるための勉強で忙しいため、時間は取れない」という返答がレスターからくるのみだった。
そうした日々の中、彼は学園で毎日たくさんの令嬢達に囲まれ、微笑んでいた。親し気にしてくる令嬢には、逃げるためとはいえ、特別な微笑みまで向けて──。
遠くなってしまった彼との距離が辛くて、作りものの笑顔でも良いから、私にも一度ぐらい笑顔を向けてもらおうと、偶然を装って学園でレスターに近付いたこともあった。彼を取り巻く令嬢達に混ざり、久し振りに間近で彼の笑顔を見られると、期待を込めてレスターの顔を見上げて──刹那、私と目が合った彼の表情が凍り付いた。
まるで、見てはいけないものを見てしまったかのような、目が合ったことを後悔するような、そんな表情だった。
それを見た時、私は悟ったのだ。
やはり私は、学園では彼に近付いてはいけない。私がレスターの視界に入ると、彼は表情を凍り付かせてしまうのだと。
「私はもう、レスターに近付くことすらできないんだ……」
彼のために婚約破棄すると言いながら、ずっと行動に移せなかったのは、それでも私が彼を諦めることができなかったからだ。
小さい頃から大好きだったレスターと、夫婦になるという夢を捨て去ることができなかった。だから、レスターの心が既に自分にはないと気付いていても、本格的に動かなかった。
そんなことは、ただの時間稼ぎでしかないと分かっていたのに。
分かっていても、どうすることもできなかったのだ。
このまま卒業まで何も知らない振りをして過ごせば、私はきっとレスターと結婚できる。たとえ彼が私以外の婚約者にしたい令嬢を見つけたとしても、私が婚約破棄を受け入れない限り、彼にはどうしようもないのだから。
だけど、それで良いの? という思いが、この時初めて私の頭に浮かんだ。
たった二ヶ月レスターと話をしなかっただけで、一方的に彼から距離を取られたことで、胸が引き裂かれるような辛い気持ちを味わっているのに。
実際には二ヶ月──けれど私には、既に半年以上も経過しているかのような、胸の痛みがあるのに。
「もう……諦めた方が良いの……?」
そんなに簡単に諦めることができるなら、ここまで辛い思いはしていない。
けれど、酷く辛いこの胸の痛みを無くすためには、そうするしかないような気がした。
きっとレスターを諦めても、暫く胸は痛むだろうけれど、いつかきっとこの選択は間違いじゃなかったと思える時が来るはず。
「よし……決めた」
涙を拭い、立ち上がる。
一頻り泣いたせいか、若干気持ちがスッキリしていた。
とはいえ、泣きすぎて酷い顔をしているだろうから、午後の授業は休んだ方が良いかもしれない。こんな顔で教室に戻ったら、何があったのかと注目を浴びてしまいそうだ。
「こんなに泣くつもりじゃ、なかったのにな……」
なんとなく空を見上げながら呟くと、「そんなお嬢さんに、濡れタオルを用意したよ」と、聞き覚えのない声が答えた。