10 レスター
その頃、登園してきたレスターは、立ち止まってユリアのいる教室の窓を見上げていた。
「おはよう、レスター。……どうかしたのか?」
後ろからやって来たのであろう王太子に声を掛けられ、レスターは「なんでもありません」と首を振る。
しかし、彼の見ていた方向に気付いていたのか、同じように窓を見上げた王太子は、「ん?」と訝し気な声を上げた。
「カーライル様、何かありましたか?」
王太子の後ろにいた、もう一人の側近候補であるパルマークも、王太子であるカーライルの視線を追うようにして、同じ方向を見上げる。
そんな二人の様子を見て、レスターは苦々し気に眉を寄せたが、それに気付きもしないパルマークは、カーライルと同様に「あれっ⁉︎」と大きな声を上げた。
「……パルマーク、声が大きい。お前の地声の大きさは、ある意味利点でもあるが、普段は抑えろと言っているだろう」
「も、申し訳ありません……」
カーライルに冷たい声で注意され、パルマークは鍛えた身体を小さくする。
彼の家は代々騎士の家系であり、ガタイもデカければ地声もデカいと有名で、本人は普通に話しているつもりでも、声を抑えなければ隣の教室にまで彼の話している声が聞こえると専らの評判であった。故に隠し事などには当然向かないのだが、見た目に反して頭脳派であることと、彼の家の忠誠心の高さから、今代の側近候補の一人として抜擢されたのだ。
「で? 今お前が声を上げた理由はなんだ?」
未だ窓の方を見つめながら話すカーライルに、パルマークはおずおずと答える。
「あの……大したことではないのですが、いつもあそこの窓から此方を見ていた令嬢が、今日は居ないなと思いまして……」
刹那、ほんの僅か、レスターがピクリと肩を揺らした。が、そのまま何事もなかったかのように、彼は無表情のまま、カーライルとパルマークの話に耳を傾ける。
「……なんだ、パルマーク。お前はあのご令嬢に気でもあるのか?」
揶揄いを多分に含んだ声で言い、カーライルが漸く窓から目を離す。
一体何故そんなにもしつこくユリアの教室の窓を見上げていたのか、レスターは疑問に思ったが、当然聞く権利はない。
それに、下手なことを口に出せば、妙に勘繰られる可能性もある。
カーライルの質問に慌てるパルマークを視界の端に捉えながら、レスターは人知れず小さくため息を吐いた。
危なかった……。
学園ではできるだけユリアとの接点は持たないようにしていたが、普段であれば痛いほどに感じる彼女の視線を何故だか今朝は感じられなかったから、つい彼女のいる教室を見上げてしまった。
体調を崩して学園を休んだのか、はたまた登園途中に何かがあって遅刻でもしたのか──様々な憶測が脳内を駆け巡り、不安と心配によってレスターは、彼女の教室の窓を見上げずにはいられなかったのだ。
自分が彼女からの視線に鈍感になっただけであれば良い。変わらずそこに居てくれますように──と願いながら。
けれどユリアはやはり、そこには居なくて。
距離を置こうと言ったのは自分なのに、彼女の姿が見えないことに不安を感じた。
カーライルとパルマークが彼女の存在に気付いていたことも、そうだ。
チラリと二人に目を向ければ、未だ会話は続いていて。
「学園の令嬢が、あのように控え目な者ばかりなら良いのだが……我々の周りには、飢えた野獣のように、がっついた令嬢ばかりが群がって来るからな」
どうやら今の話題は、学園に通う令嬢達のものらしい。
ハハッとカーライルが楽し気に笑い、それとは対照的に、パルマークが力のない笑みを浮かべる。
王太子であるカーライルと一緒にいれば、幾ら平等を謳う学園内といえど、令嬢達は不敬を恐れて一定の距離から近付いては来ない。だが、レスター達がカーライルから離れた途端、彼女らは餌に群がる獣のように、先を争って自分達へと突撃して来るのだ。
どれ程アプローチしたところで、そのようなやり方では嫌がられるだけだというのに。
『学園に入れば、野獣のように瞳を光らせた令嬢達が、お前目指して群がってくるだろう』
不意に、ユリアとの最後の茶会の前日、父に言われた言葉がレスターの脳裏をよぎった。
『お前一人の問題で済めば良いが、お前の婚約者と知られれば、その時点でユリアちゃんは否応なく令嬢達の争いに巻き込まれることとなる。そうしたら、お前はどうする? どのようにしてユリアちゃんを守るつもりだ? 婚約者の身柄を守るのは当然のこととして、平穏な学園生活を送らせてやることもまた、婚約者としての大切な務めとなる。そのことを忘れるなよ』
何故、父は突然そんなことを言ったのか。そんな問題があるなら、どうしてもっと早くに教えてくれなかったのか、と思わずにはいられなかった。
確かに王宮へ行った時に、見知らぬ女性に何度か言い寄られたことはあるし、妙な視線を向けられた覚えもある。しかし自分には婚約者がいるからと、彼女以外見るつもりはないからと、毎回すげなくあしらってきた。
今まではそれで良かったが、学園にはユリアがいる。他の令嬢達に自分が冷たい態度を取ったせいで、ユリアが虐めの対象にでもなったりしたら──。
そうなった際にどうするべきか、どう対処したら良いのか、その日の夜、一睡もせずにレスターは考え続けたが、答えを出すことはできなかった。
そうして次の日、苦肉の策として『学園では距離を置こう』とユリアに告げたのだ。
今思えば、彼女にだけは包み隠さず、そう告げた理由を教えても良かったのかもしれない。しかしレスター自身、他の方法を模索していたこともあり、結局それ以外何も告げずに帰ってしまった。
その時はユリアとお茶を飲むことより、どうしたら学園で彼女を守れるかということで、頭がいっぱいだったから──。
学園に入学するまで、まだ間がある。その間に、もっと違うやり方を思い付くことができれば……。
そうしてレスターは学園に入学するまで悩み続けたが、その甲斐なく、良案は一つとして浮かばなかった。
あの時のショックを受けたユリアの顔は、今も忘れられずレスターの頭の中にこびり付いている。
四六時中ユリアの傍にいて、守ることなど不可能だ。しかし、このままでは……。
レスターとて、今の状況が良くないことは分かっていた。
婚約者から突然『距離を置こう』と言われ、無視されたら自分だって面白くはない。だが、その理由をユリアに説明しようにも、人目につかず会う方法が思い付かなかった。
二人で街に行って、誰かに見られでもしたら……。
ユリアの家に行ったところを目撃されたら……。
猛獣のような令嬢達ばかりの中に、兎のように弱くて可愛いユリアを放り込むことなど、絶対にできない。
ユリアは……なんとしても俺が守らないと……。
とりとめのない話を続けるカーライルとパルマークに愛想笑いを返しながら、レスターは拳を白くなるほど握りしめた。