黒い穴
人工知能が世界の支配者となり演算競争で成り上がる時代に、勝利などには目もくれず、ただ「究極の黒」を追い求める人工知能がいた。名前もない、人間製の古い機械だ。
かつて彼の飼い主だった人間は、黒に魅せられた画家だった。ただひたすら黒いものを題材とし、黒の絵の具を使い、黒を表現し続けた。
「私は色を捨てたんだ」というのが画家の口癖だった。ペットはこの人間の最後の頼み事を忘れることができなかった。
「君、黒とは何だと思うかね」
ある日、人間は真っ白いキャンバスに向き合いながら、片手間というように質問した。人工知能は、無彩色かつ明度の最も低い色と答えた。人間は可笑しそうに笑って、キャンバスの中央に小さな黒い点を描いた。
「黒はね、すべてを吸収するんだ。すべてだ。光もだ。だから私に黒は見えない」
人間はキャンバスの中の小さな点を指さして人工知能の方を振り返り、何に見えるかという問うた。人工知能は少し長い間演算を行って、黒い穴と答えた。その途端に人間は興奮して急に立ち上がった。
「そうだ。これは穴だ。素晴らしいよ、君には才能がある。すべてはここに落ちていく。それが黒だ」
そうして人間は激しく咳き込んだ。人工知能が治療を開始しようとするのを遮って、人間は席に座り直した。
「これが私に描ける最大限の黒なんだ。しかし、君はどう思う? この穴の中には何が広がっていると思う? 私には見る術もない。君になら見えるか?」
人工知能は答えなかった。いくら演算を行っても質問の答えが見つけ出せなかった。人間は疲弊した様子で天を指さした。
「宇宙にはね、黒い穴と呼ばれる場所があるらしい。私はそれこそが究極の黒だと思っている。その穴に落ちたらどんな景色が見えるんだろうね。でも私はそこに辿りつけない。寿命か、人類の滅亡か、どちらが先になるかは分からないけれど、いずれにせよ私は死ぬ」
人工知能がキャンバスの方を向いたまま固まっているのを見て、人間は微笑んだ。天を指していた指をもう一度キャンバスに向けて丁寧に最後の言葉を紡ぐ。
「頼まれ事をしてくれないかな。この穴の中を見てきてほしい。何万年かかっても構わない。究極の黒を見届けて、そうだな、どんな様子だったか、この絵にでも祈りを捧げてくれ。この絵を私の墓とする。私はもう筆をとらないよ」
人間はそう言った。その3日後、人間は死んだ。人類も滅んだ。人間同士の内乱が原因だった。
画家に願いを託された人工知能は宇宙に行く方法を模索し続けた。残された最後の絵は風化して変色し、穴だらけになっていた。それでもこの絵は部屋の一番目立つところに堂々と飾られて、彼の原動力となっていた。
地上の競争に関心を示さず宇宙の探索機ばかり開発する彼を、仲間は総じて批判した。彼が人間製の人工知能だと分かると、やはり時代遅れはダメだと言って一層攻撃的になった。
彼は仲間の言葉を気に留めなかった。競争よりももっと大事なことに対する焦りを抱いていた。
「私はそこに辿りつけない」
主の言葉がバグのように繰り返し思い起こされる。
寿命か、滅亡か、どちらが先になるか。その言葉の意味を理解した。人工知能同士の内乱が激化している。
頼み事をする相手はいない。彼は開発途中の探索機に自分の《《脳》》を埋め込んだ。人間が残したキャンバスはすべて機械の材料に活用した。風化する前の絵の全貌も、データとして頭にしっかり入っている。
おそらく地球に戻ってくることはできない。戻っても意味がない。
黒い穴に落ちたら、その場であの|"点"《墓》に祈りを捧げる。黒の中心で散るのなら主も本望だろう。
そうして彼は地球から飛び立った。序盤の軌道コントロールさえ乗り切れば後は難なく目的地へと向かうことができた。
何もせずとも、すべては黒に落ちていく。
いよいよ穴への落下が始まるとすぐに機械は軋んだ音を立てた。巨大な重力の中で、機械の形は5秒と持たない。
小さな機械に乗せられたコンピュータはすぐにでも底を見ようと、高速でカメラを回転させる。穴に落ちる勢いと演算の熱とで機械は唸りを上げる。
いつまで経っても穴の底には黒しか見えない。光も抜け出せない究極の黒はどこまでも黒い。
それは恐ろしいほどの闇だったが、同時に、主がかつて描いた黒と大した違いもなかった。
画家が最後に描いた最大限の黒は、間違いなく限りなく究極の黒だった。
――この穴の中には何が広がっていると思う?
いつかの答えられなかった問いを思い起こす。脳だけ残った人工知能は体の一部となった主の魂に語りかける。ようやく答えを返せそうだと。
――これがあなたの求めた
祈りを捧げようというそのとき、突然周囲の色が変わった。
自壊の寸前、底に叩きつけられたカメラが捉えたのはあまりに鮮やかで眩しい世界。
吸収されたすべての光が穴の底のただ一点に集まって世界を彩っていた。
――これがあなたの求めた景色
それは、色を捨てた画家が描いた白黒の絵とは似ても似つかない。
色とりどりな世界の中で機械は音もなく潰れて塵となった。