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人間・キリスト  作者: John B.Rabitan
第3章 福音宣教時代
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皇帝のものは皇帝に

 すでに風の中にかすかに春の訪れを感じさせるようになっていたある日、イェースズと使徒たちはまたしても神殿の庭で律法学者たちに取り囲まれた。今度はそこに、ヘロデ党のものも混じっていた。

 ヘロデ党とはヘロデ王家の与党であるが熱心党ゼーロタイのようにローマの支配を覆そうとはしてはおらず、あくまで体制に順応しながらもユダヤがローマの属州となっていることには不快さを感じている連中だった。

 かつてのヘロデ大王の時のような、あるいはこの時点でのガリラヤのような委託統治領に、再びユダヤ州を戻そうというのが彼らの綱領だ。つまり現実主義的な消極的親ローマ派であり、本来はユダヤ教の神支配を絶対と考える原理主義的なパリサイ人の律法学者とは相容れない存在だったが、ここ最近では歩み寄りを見せていた。

 そしてイェースズを憎悪する点では、両者の利害は一致した。イェースズをイスラエルの新しい王と称する一部の信奉者の声は、ヘロデ家の王権にとって脅威となっていたのである。そんなヘロデ党のものと律法学者が肩を並べて、イェースズの前に立っていた。

 ところがヘロデ党の一人は、やけにニヤニヤしてイェースズに語りかけた。


「いやあ、お噂は聞いていました。お会いしたいと思っていました。あなたは実に偉大な師です」


 だが、その想念の中にはどす黒いものが渦巻いているのを、イェースズはすでに察知していた。


「あなたは真理を説く方。決して人の顔色を見て物事を判断するお方ではないということは、よく存じております。そこで、一つお伺いしたいのですが、教えて頂けないでしょうか」


「何でしょう」


 もったいぶった問いかけにも、イェースズは微笑んで受け答えをした。


「私たちはローマに税を納めますけど、これは神様のみ意でしょうか?」


 イェースズは黙って、ヘロデ党と律法学者の両方を見た。どちらの答えを出しても一方に都合がいい反面、他方には都合の悪いことになってしまう。しかもその両者が結託して目の前に並んで立っていること、それが曲者くせものなのであった。

 目に見えないどす黒いパイプラインが両者の間に結ばれているのが、イェースズの霊眼ひがんには見えた。イェースズは一度目を伏せ、そして目を上げた。


「ローマの人頭税を納める貨幣が、ここにありますか?」


 神殿税や神殿への献金がユダヤの貨幣のドラクマ貨でないといけないのに対し、人頭税はローマへの税だからローマの貨幣のデナリ貨でないといけないことになっていた。そのデナリ貨を、ヘロデ党の一人が懐から出してイェースズに見せた。イェースズは、それを見て言った。


「ここには『崇拝すべき神の崇拝すべき子、皇帝カエサルティベリウス』と書いてありますし、この肖像はローマの皇帝カエサルですね」


 イェースズが言うまでもなく、誰でも知っていることだった。


「それならば、皇帝カエサルからお借りしているものだから、皇帝カエサルにお返しすればいい。つまり、こういったローマ貨幣は皇帝カエサルにお返しして、神様より賜ったユダヤ貨幣は神殿に納めればいいということになりますよね。便利にできているじゃないですか。何か問題がありますか?」


 イェースズは大声を上げて笑った。ヘロデ党も律法学者たちも、何も答えられずに苦虫を噛みつぶしたような顔をしていた。


 ベタニヤへの帰り道、神殿の下の谷から見上げるオリーブ山は、夕日を受けて赤く燃え上がっていた。


先生ラビ!」


 歩きながらイスカリオテのユダが、鼻息を荒くしてイェースズの隣に来て歩いた。


「なぜさっき、ローマに税など納める必要はないって、きっぱり言わなかったんですか」


「そうですよ。それを期待していたのに」


 シモンも会話に加わった。そんな二人を、イェースズは少しだけ笑顔を消して歩きながら見た。


「あなた方二人は、ローマへの税など払う必要がないって考えているのかい?」


「俺は先生ラビ救世主メシアだと固く信じてる。その救世主が地上の皇帝に税を納めるんですかね」


 ユダは、少し興奮気味になっていた。イェースズは視線を、前方に戻した。そしてそのまま歩きつつ言った。


「この世で肉体を持って生活する以上はこの世の掟も守らないといけないと、前にも言ったと思うのだがね。この世の掟も守らない人に、神様の掟は守れないとね」


「だって、相手はローマですよ」


「だから貨幣に皇帝カエサルの顔と名前が刻まれている以上、皇帝カエサルのものは皇帝カエサルに返せと言ったまでだよ。しかし私が言いたかったのはだね、そんなことよりも、神様からお借りしたものは神様にお返しする、そっち方だ。これは神殿税のことを言っているんじゃない。霊的な次元の話でね、この体も衣食住もすべて神様から貸し与えられているもので、自分の物なんか一つもない。それなのに人々は、借り賃は一円も払っていない。それどころか過去世で罪穢を積んでいて、それなのにお恵みを頂戴している。これはもう神様からお借金をしているものだということは、再三言ってきた通りだ。この世の務めを果すのは最低必要条件、つまりどうしても必要なことだ。でもそれだけでは十分ではなくて、さらに霊的なお借金を返済して霊的務めを果してこそ真人まびとといえるんだよ」


「しかし俺は先生ラビに、ローマの税制をことごとく破壊してほしいんです」


 イェースズはまた、ユダを見た。


「そんなことをして、何になる?」


「人々が救われるでしょ」


「確かに税がなくなることによって救われる人もいるだろう。でも、私がしようとしていることは、そんな次元が低い救いではないんだ。税がなくなって救われるなんていうのは物質的な救いであって、私はもっと高次元の魂のレベルでものを言っているんだよ。ローマへの税と神様へのお借金は、次元がぜんぜん違うのだから同一に論じてはいけないよ」


「でも、今のまのままじゃ、先生ラビは学者たちをますます怒らせて、しまいには殺されてしまうんじゃないですか」


「黙りなさい!」


 柔和なイェースズにしては珍しく、いつにない厳しい口調が返ってきた。ほかの使徒たちも、驚いて歩みを止めたほどだった。


「あなたとシモンは、まだ勘違いがなくならないのかね。闘うのが神様のみ意とまだ思っているのか。闘うなどという対立の想念を、ローマに対しても律法学者に対しても持ってはいけないんだよ」


「でもこのまま逃げまわっていては、先生ラビの救世主としての仕事は何もできないじゃないですか」


「黙りなさい! あなたはまだ分かっていない」


 珍しいイェースズの剣幕だった。仕方なくユダもシモンも、不服そうな顔で黙ってついていった。


 数日後、エルサレムで説法をするイェースズに近づいてきたのは、サドカイ派の祭司たちだった。神殿に入る二重門のすぐ外の所で、どうも彼らはイェースズを探して待ち構えていたらしい。


「おお、噂で持ちきりのイェースズ師が来られた。一つ質問していいですかな?」


「なんなりと」


 イェースズは足を止めた。


「私たちサドカイびとにとって、霊とか魂の復活などというのはどうしても信じることができませんでしてね。ましてや人が何度も生まれ変わっているなんて考え方は、到底受け入れられない。しかしあなたは、それを説いておられるという。そこで一つ教えて頂きたいんだが、兄弟がいっしょに生活している場合、兄だけが結婚していてその兄が死んだ場合、兄に男の子がいなければ弟がその未亡人と結婚し、生まれた子が男の子なら死んだ兄の子とせよと律法にはありますけど、その女は復活の時は兄と弟のどちらの妻として復活するんですかね」


「どちらでもありませんよ」


 イェースズは穏やかに笑みながらも即答した。


「あなた方は復活について、どうも勘違いしておられますね。私がいう復活って、そんなことではないんですよ。人の肉体は死ねば土になって、二度と蘇ってくることではありません。復活するのは魂で、その時は全く別の肉体に宿って、ぜんぜん違った顔と名前になるんです。だから、この女が復活してきたら、誰の妻でもない状態で生まれてきます。復活とは再び赤児あかごになってこの世に生まれ出ることで、墓から死んだ時の状態で出てくることを言っているんじゃないんですよ。神様はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と言われるではありませんか。生きている魂にとっての神様なんですよ。人は肉体が死んでも、魂は死にません。魂は永遠に生きるのです。だから神様が蘇らせるのは、その魂の方です。肉体じゃないんです。神様は、死者の骨にとっての神様じゃありませんからね」


「魂は死なない……どうも理解できないのだが」


「死というのは魂の乗り船である肉体の終わりなんです。船が壊れても、そこに乗っている人はその船から降りればいいだけの話でしょ。乗っている人にとっての終わりじゃないんですよ。同じように死は肉体の終わりであっても、魂の終わりではないのですよ。人生の終着点が墓場だなんて、そんなのつまらない人生じゃありませんか。墓に入るために生きているなんて、虚しい人生ですよ。何の喜びがありますか? 何の生きがいがありますか? でも、魂の次元で考えたら、そこには使命があることに気づくはずだ。目的と使命があって、人はこの世で生活するんです。種は土にまかれますけど、種の終点は土じゃないでしょう。植物が実を結んで種を散らして、その種は土に落ちますけど、その土こそが出発点じゃないですか。その土から、新しい芽が出てくるんでしょう? 違いますか?」


「しかし、魂の再生とか霊の世界とか、そんなのは異教徒の考え方じゃないですかね。我われイスラエルの民の教えからすれば、明らかに異端だと思うのですが」


 祭司は表面こそ温和だが、その内面には鋭い対立想念があって、それがちくちくとイェースズの魂を刺激していた。


「どうして異教徒だとか、イスラエルの教えとかにこだわるんですか。真実は真実なんです。霊界の実相は、そんな宗教なんてものは超越しているんですよ。我われイスラエルの民は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神に創られて、異教徒はその奉ずる別の神に創られたなんて、そんなばかな話はありますか? そうではなくて、全世界の全人類は、同じ神様に創られたのでしょう? そうでなかったらなぜ神様は、唯一の神なんでしょうかねってことになりますよね」


 周りに人垣ができ始めた。その手前、祭司たちはこれ以上追求して人々の前で恥をさらしてしまうことに耐えられずに、逃げるようにこそこそと帰っていった。

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