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人間・キリスト  作者: John B.Rabitan
第3章 福音宣教時代
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門から入る羊飼い

 祭りの期間が終わっても、神殿は地方からの巡礼者でいつも人が絶えなかった。なにしろイスラエルの民ならば、たとえディアスポラであっても少なくとも一生に一度はエルサレムの神殿に巡礼することになっている。だから、エルサレムの市街にいる人々も必ずしも住民だけとは限らず、流動的であった。そして、全体との比率からすればごく少数ではあるが、イェースズの信奉者も流れ込んでいる。

 イェースズはこの頃ベタニヤのゼベダイの家に寄宿し、エルサレレムへは通う形で出向いていたが、信奉者たちはイェースズがどこで寝泊りしているのかは知らない。

 それでも不思議なネットワークがあって、イェースズがエルサレムに入るとどこからともなく情報が伝わって人々が集まってくる。それでも、ガリラヤの時のような大集団を形成することはなかった。

 この日もイェースズは最初に奇跡を行ったベトサダの池のそばの少し高くなっている所に立ち、求めに応じて話をしていた。その周りを信奉者が数人群がり、さらにはたまたま通りがかった人が好奇心から足を止めて、その話を聞いていくこともあった。その中の数人ずつ、信奉者がまた増えていく。


「皆さんも聞いてください。神の子羊の牧場まきばは、高い壁で囲まれています」


 イェースズは近くの第一城壁を指差した。そこには羊飼いの門がある。


「あの門は東向きです。光は東方からさすんですね。でも、私は羊飼いですって言いいながらもあの門から入らないで城壁をよじ登って乗り越えて入ってきたら、それは何ですか? そう、盗賊ですね」


 通りがかりで足を止めた人々の想念も、イェースズには手に取るように分かる。


 ――何だ? この人は。


 ――また何かの新興宗教か。


 ――世の中には、いろんな人がいるもんだ。


 中には――危ない、危ない。かかわらない方がいい……

 と、ほんの少し話を聞きかじっただけで立ち去ってしまうものも多い。

 イェースズはそのようなものを全く気にもせず、話を続けた。


「私はよい羊飼いなんですなんて、町中で突然演説を始めた得体のしれない男の話をなかなか皆さんまともに聞こうとはしない。それはそうですね。当然だと思います。しかしですねえ、よい羊飼いというものは、羊のためには命さえ捨てるんですよ。この中に、羊飼いの方はいますか?」


 人々は、静まり返っていた。


「いらっしゃらないようですね。いらっしゃったらそのへんのことを、そうですよねと聞きたかったんですけど。ま、それはとにかくとして、皆さんが光に接するためだったら、私は命をも惜しみません。それに、イスラエルという名の牧場の外にいる羊にも、私は関心があります。世間にはいろんな牧場がありますけど、そこの羊飼いを雇っている雇い主が、狼が来たら自分だけがたちどころに逃げて羊が食い荒らされても知らん顔していたりしたら、皆さんどう思います? 要は、自分たちの利益のために真理を捻じ曲げるのは、門から入らなかった盗賊と同じです。雇い主は自分たちの利益、伝統や権威、そんなものの方が羊よりも大事なんですね。羊飼いの方も、金目当ての労働者ですよ。同じ神の教えを説いても生命いのちをはって羊を牧しているか、労働者として自分が食べていくためにだけ働いているかの違いでしょう。ひと言で羊飼いといっても、そのどちらなのかを見分ける必要がありますね」


「ちょっと待て!」


 またもや律法学者がいて、イェースズの話を制止した。そして、人々に向かって言った。


「皆さん、これがあの神殿で暴行事件を起こしたあのイェースズですよ」


 人々の顔がこわばり、それだけで去っていくものも多かった。それに追い討ちをかけるように、


「この男は、悪霊がとり憑いています」


 と大声で学者は言った。人々も、どこの馬の骨とも分からないような田舎ものと自分たちが普段から敬慕している律法学者の言葉とでは、どちらを聞くかと言えば後者を選ぶ人の方が圧倒的に多いはずだ。常識的に考えてもその通りである。しかし、イェースズにかかわったら会堂シナゴーグからの追放というお達しも気にせず、イェースズについてくるものも少しずつ増えていた。


 季節は移り、すっかり木枯らしが吹く頃となって、空気も湿っぽくなっていった。いよいよ雨季である。

 イェースズの信奉者が増えるたび、カペナウムでそうであったように彼らが集団化し、定住するのをイェースズは恐れた。教団を作るつもりはないという考えは、今も変わっていない。

 しかしそれよりも、エルサレムの近くで集団化するということは、より危険であった。反ローマの武力蜂起も後を絶たずにローマ当局もいらいらしており、そんな時に集団を形成すれば痛くもない腹を探られることになる。

 神理を守るためなら危険をも厭わないが、神理を守れなくなる危険は避けねばならなかった。だからイェースズはいつも彼と共にいる七十人ばかりの信奉者には、かつて使徒たちにそうさせたように、二人ずつ組にして地方へ伝道旅行に行かせた。決して追い払ったのではなく、そういった練成が魂の向上にも必要であることをイェースズは知っていたからだ。


 そうしてローマ暦での年の瀬も近づいた。ユダヤ暦では第九の月(カスレウ)だが、その頃に奉殿祭ハヌッカがある。エルサレムの大祭の一つで、この頃から二百年ほど前に異邦人アンティオコス・エピファレスがエルサレム神殿に偶像を置いて汚したのに対し、マカベヤのユダがそれを除去して宮浄めをしたことを記念する祭りだ。神の不意の援助を象徴するために灯される多くの明かりのため、聖火の祭りという別名もあった。

 イェースズは、一人で神殿に上がった。使徒たちも、信奉者と同様に伝道の旅に出しているからである。そしてイェースズが異邦人の庭に上がるとすぐに、向こうから律法学者数人がこっちへ向かっていた。すでに律法学者の間では、イェースズはかなり有名になってしまっている。


「あんたはいつまで、我われに気をもませるんだ。自分が救世主メシアだと思っているのなら、はっきり言ったらどうなんだ」


 その学者は初めて見る顔なのに、もうよほどイェースズについては噂や報告によってまるで熟知している相手のような感覚でいる。イェースズも立ち止まり、笑みを浮かべて穏やかに言った。


「あなた方は残念ながら、私が何を言っても信じてはくれないようですね。証拠を見せろとおっしゃるから、神のわざによる奇跡をお見せしても、信じて下さらない。なかなか波調を合わせて下さらないので残念です」


「おまえは永遠の命だの決して死なないだの、ばかなことばかり言っているではないか。それで信じろという方が無理だ。奇跡だって、何かしかけがあるに決まっている」


「言葉だけで信じろといっても、それは無理でしょう。神様も今の世の人々のかたくなな心をよくご存じだから、あかし神業かむわざをお下しになったのです。ですから火と聖霊による洗礼バプテスマを受けて自ら体験してご覧なさいと言っているのに、あなた方がそれを拒むんじゃないですか。もったいない話です。神秘体験の一つもなくて、神様のミチはサトれませんよ」


「そのわざというのが曲者だ。そうやって洗脳して、心を操って、目の前のご利益を売り物にして、自分たちは選ばれた人々だ、人類を救う使命があるなどということを植えつけて離れなくしている手口は、偽預言者や異端の邪教の共通の手口だ。それと全く同じじゃないか。おまえの弟子が奇跡の業かなんか知らないがそんなものを施して全く治らず、医者にかかるのが遅くなって命を落とした人もいるという報告も来ているぞ。おまえの弟子はそのことを責められると、奇跡の業は病気治しが目的ではないとか何とか言って逃げたそうじゃないか」


 どうもこのパリサイ人という人種は、なかなか理解してくれない。しかしイェースズは、想念の上からも全く責める気にはなれなかった。


「それは深くお詫びします。申し訳ありませんでした」


 イェースズが詫びたのは、使徒の不徹底ばかりではない。神の使命を受けた自分にここまで逆らってくる相手というのは、前世で自分がよほど迷惑をかけたに決まっている。あるいは、前世の自分がこのものを神のミチから引き離した張本人なのかもしれないと、イェースズは心の底から申し訳なさがこみ上げてきたのだ。

 だから言葉で相手に詫びるだけでなく、瞬間的に念じて神に詫びていた。だが、今の自分の使命は使命である。そこは毅然といかねばならない。

 学者は、まだ息巻いていた。


「だいたい我われに邪教の入門儀式を施そうなど、だいそれた言いようにはあきれてものが言えない。我われは、律法学者だぞ」


「あなた方の聖書トーラーに対する知識には感服致しますし、尊敬もしております。でも申し訳ありませんが、それらは書物で得た知識にすぎないのではないでしょうか。私が施す神のみ業を体験すれば、ご神霊のみ働きや神様の御経綸、万霊の暗躍、幽界の実相のことなどが手に取るように分かるんです。つまり、霊もピチピチ生きているということが、自らの体験として感得できるんです。私がいう永遠の命とは、このままの肉体で永遠に生き続けるということではありません。肉体はいずれ死を迎え、朽ち果てます。でも、その中に入っている魂はこの世とあの世を行ったり来たりして、生き代わり死に換わりして生き続けるんです。永遠の生命とは、そのことですよ。肉体の死というのは魂があの世へ行って出直してくることで、向こうでは誕生です。つまり、次の人生への出発点ですね」


「何を素人が妄想を語っているのだ。そんなこと、聖書トーラーのどこにも書いてないじゃないか。だから、おまえは異端者だというのだ。我われは正統なモーセの教えの学者なのだぞ」


「その正統と称される方々が好んで使う異端という言葉は、偏見の所産ですね。何が正統かなどということは、神様だけがご存じなんです。善悪の判断というものは神様の権限で、本来は人間には許されてはいませんよ。教えでいうと、すべての教えは正統ですけど、皆それぞれが神理の欠片カケラということです」


「カケラだと? 我われイスラエルの民が奉じる神殿も、モーセの教えもおまえはカケラだと言うのかッ!」


「絶対で完全なのは、天の御父の神様だけです。私はその神様の直接のお示しで語っていますから、神様と一体なんです」


 イェースズは律法学者の群れに対してだけでなく、その場に集まっていた人々にむしろ語りかける口調で話していた。イェースズの自信ありげな笑みに、学者たちはすごい剣幕で詰め寄った。後ろにいた若い学者が、前に出てイェースズに言った。


「あなたの経歴は調べてあります。あなたはもともとヨハネ教団の幹部だった人でしょう? あなたが話していることは、ヨハネが話していたことと同じです。ほとんど瓜二つといっていいくらいですね」


「やはりな」


 最初の学者が、またいきりだしはじめた。


「おまえの話す内容は、ヨハネ教団からの盗用だったのだな」


 また若い学者が、イェースズを見た。


「そもそも、そのヨハネ教団というものが、エッセネ教団から分派独立したものですね。源流はエッセネにあって、あなたの教えはその流れを汲んでいるわけです。つまりエッセネ教団から分派独立したヨハネ教団の幹部だったあなたが、さらに分派独立したってわけですね」


 最初の学者は、ますます目を吊り上げた。


「おまえはそのような経歴を、なぜ隠す。経歴詐称ではないか。そうやって民衆を騙して、手なずけているんだろう」


 イェースズは落ち着いて、穏やかに言った。


「何も隠してはおりません。言う必要がないから言っていないだけです」


「だいたいエッセネというのが、異端の邪教じゃないか。このエルサレムの神殿を奉じる教えの一派のように人々は思っているけれど、実はミツライムに源流を発するものなのだ。ヨハネ教団とて危険集団としてガリラヤのヘロデ王に殲滅させられ、教祖のヨハネは投獄されたあと首をはねられたのだったよな。その危険集団のヨハネ教団からの分派なら、それもまた危険集団」


 さすがに学者だけあって、いろいろなことに詳しい。だがイェースズはたじろぎもせず、あくまで温和に言った。


「私が教えているのは、神様の直接の神示に基づくものでしてね、何々派なんていう一宗一派の教えではないんですよ。神様のみ意のまにまに、人々を救って歩いているだけです。あなた方はそのうちのどの奇跡がお気に召さずに、私に毒づいてくるんですか?」


「奇跡のことではない! おまえは神を冒瀆した。おまえは今、自分が神だと言った」


 イェースズは、心底困ったという顔をした。


「私は自分が神だなんて、ひとことも言っていませんよ。全世界全人類が等しく神の子であるわけですから、わたしも当然神の子ですし、神様と一体になっているとは言いましたが、私が神であるなんて言っておりません。誤解しないで頂きたいですね。私の教えが真実神様のお示しだということは、私の奇跡の業を見て下さい。私のことは信じなくても結構ですから、せめてその奇跡の業は信じてください。それだけでもあなた方は光に包まれ、魂が開いて、神様のご実在をサトることができるんですよ」


「神様なら、御神殿におわしますではないか」


「私が説いているのは観念の神ではなく、ご実在して活躍されている神様です。神様はモーセにその御名を、『在りて有るもの』とお示しになられたではないですか。全くその通りでして、神様は厳として実在し、力を有しておられる方なんです。その神様のみ光を頂いてください」


 イェースズが学者たちに向かって手をかざそうとしたので、


「わ、分かった。今日のところはそれでいい」


 というと、学者は皆足早に逃げて行った。

 

 そうこうしているうちに奉殿祭も終わり、伝道の旅に出ていた信奉者たちがベタニヤに戻ってきた。そんな使徒たちに、イェースズは言った。


「あなた方には奇跡の業があるけど、ほかの人たちにはそれはない。だから、なかなか厳しいところがあるだろう。あなた方はものすごい力を賜っているのだからまずそれに感謝して、感激しないと嘘だ」


「はい、確かに」


 と、ペトロが意気軒昂に答えヤコブがそれを受けた。


「奇跡を見せてしまうと、言葉だけで説明するより早いですね。救われの事実を見せてしまえば、あとは黙って話を聞いてくれます」


「やはり神理は、体験しないと分からないものですね」


 とトマスが言って、イェースズはうなずいた。


「奇跡の業と神様の教えは車の両輪みたいなもので、どちらが欠けてもいけない。前にもそう言ったけど、それは本当だっただろう?」


 使徒たちは、一斉に明るく返事をした。

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